プロローグ
――――どうしてこんなことに。
夜が更けても明るさを失わない皇宮の煌びやかな夜会。人々が賑わう広間から離れた一室で、侯爵令嬢エリス・トランチェスタは両手を拘束され極悪非道な皇帝の前に引き摺り出されていた。
社交界の隅でひっそりと埋もれる花のように、〝地味に目立たず〟をモットーに生きてきたエリス。今日の夜会でも完璧な壁の花に徹していたというのに、いったい何故こうなったのか。
わけも分からずエリスは眼鏡の下の目をギュッと閉じて静かに絶望した。
対する皇帝は傲慢な態度で脚を組み、頬杖を突いてエリスを見下ろしている。血のように赤い瞳がギロリと妖しい光を宿していた。
「お前が侯爵家の令嬢エリス・トランチェスタで間違いないな」
「……はい」
冷酷な皇帝の話はこの国ではあまりにも有名だ。邪魔者は容赦なく始末し、気に入らない者は息をするように斬り捨てる暴君。そんな皇帝に目を付けられて生き残った者はいない。
地味に目立たず、人様に迷惑をかけぬよう生きてきた自分が何をしたのか見当も付かないまま、エリスは死を覚悟して素直に頷いた。
「これにサインしろ」
エリスの前まで来た皇帝は、ずいっと何かを差し出した。
(サイン? 危ない書類に署名をしろってこと?)
ゴクリと喉を鳴らしたエリス。こんなに高圧的な態度で署名を迫られるなんて、いったいどんな書類なのか。目を向けるのも恐い。人身売買、売春斡旋、奴隷契約……不穏な言葉が次々とエリスの脳裏に浮かんでは消えていく。
「おい、聞いてるのか。さっさとしろ」
皇帝に急かされ、意を決したエリスは目を開けて皇帝の手の中にあるものを見下ろした。
「え……?」
そこにあったのは、エリスがこれでもかというほどに見慣れたもの。
『冷血騎士と王女の秘密のダンスレッスン』
ファンシーなフォントの周囲に舞う花の絵、睦み合う男女のシルエットが施された淡いピンク色の装丁。
「えっと……」
鋭い瞳で自分を見下ろす皇帝とはとてもとても不釣り合いな、ゴテゴテのロマンス小説がエリスの目の前に差し出される。
「???」
エリスの思考が完全に停止した。
何度瞬きしてみても、そこにあるのは間違いなくエリスが趣味で書いているロマンス小説だ。
拘束具を外され、高級そうな羽ペンを持たされたエリスは、自らの著書の前で呆然と立ち尽くす。
「チッ。何をグズグズしている。それが終わったら次はこっちだぞ。いいから早くサインしろ」
舌打ちした皇帝が指した方を見れば、そこには趣向を凝らした彫刻が施された立派な本棚に、ビッシリと本が並べられていた。
五年前に書いたエリスのデビュー作から、つい最近出した最新作まで。匿名で寄稿した短編集も、ロマンス小説とは別名義で出した詩集も当然の如くその中に収まっている。それも全部きっちり三冊ずつ。エリスの全てが網羅されたその悍ましい本棚を見て、エリスは眩暈がした。
「ふらついてるぞ? 何故こんなに怯えている? おい、あんまり乱暴にするなと言っといただろう、拘束具まで使いやがって、コイツの手が使い物にならなくなったらどうしてくれる!」
エリスの様子を見た皇帝が、エリスをここまで連れて来た騎士に怒りをぶつける。
「も、申し訳ございません陛下! 至急連れ出せとのご命令でしたので、捕らえるべき罪人なのかと勘違いを……」
「死にたいのか?」
氷のように冷たい声で騎士を脅す皇帝。本気で剣に手を伸ばすその姿を見たエリスは、慌てて声を上げた。
「あ、あの! サインをすればよろしいのですね、陛下の言う通りにいたしますわ! ですからどうか穏便に……」
目の前で人の首が飛ぶのは勘弁願いたい。エリスの言葉に気を削がれたのか、皇帝は剣から手を離してエリスに向き直った。
そして今度こそ、ずずいっと本を押し付けてくる。
これはもう誤魔化しても無駄だ、と覚悟したエリスは、本名ではなくペンネームで本の表紙にサインをした。
エリスの手から離れた本が皇帝の元に戻る。
「ふん、悪くない」
サインを見て鼻で笑ったかと思えば、ご機嫌に鼻唄を歌い出した皇帝。その様子を見ていたエリスは恐怖を覚えた。
まさか、あの小説の作者が自分だと知られていたなんて。エリスからしてみれば、それは墓まで持っていきたい秘密だ。
羞恥で赤くなる顔と嫌な汗が止まらない。
「飾れ」
秘書らしき人物が、皇帝の指示でエリスのサイン入り小説を本棚の目立つ位置に飾った。
それを見てニヤリと笑った皇帝は、再びエリスに目を向ける。
「よし、次だ」
相手は暴君。逆らえば死あるのみ。羞恥心を極限まで抑え込んだエリスは、逃げ出したくなる思いをなんとか堪えて数十冊ある本全てにサインした。
紛うことなき拷問の時間だった。
「それで、この続きはいつ出るんだ?」
ご機嫌な様子で最新作を手に取った皇帝がページを捲りながら問い掛けてきて、エリスはこの状況を理解できないまま、なんとも言えない気持ちで答える。
「えっと……それが実は、父から花嫁修行に身を入れるよう言われておりまして、暫く執筆はできないのです」
「なんだと?」
物凄い速さで顔を上げた皇帝が、首筋に血管を浮き立たせて騎士に目を向ける。
「今すぐトランチェスタ侯爵の首を切ってこい」
「ッ!?」
躊躇なんて微塵もない皇帝の命令に、エリスは悲鳴を上げそうになった。
「お、お待ち下さい! いくらなんでもそんな……」
「陛下、流石に何の口実もなく侯爵の首を刎ねるのは如何なものかと」
エリスの声に被せるように皇帝の秘書が横から説得を試みると、皇帝は面倒くさそうに舌打ちをした。
「チッ、まどろっこしいな。エリス・トランチェスタ」
「はい」
向けられた視線にすぐ答えたエリスは、父の首が飛ぶのを避けるためならなんだってしようと覚悟を決めた。
そんなエリスを見据え、皇帝は命令を下す。
「それならお前は今日から皇宮に住め。帰ることは許さん」
「え……?」
「ジェフリー、ルビー宮を用意しろ」
エリスの困惑など気にも留めず、皇帝は秘書の男に指示を出した。
「し、しかし陛下、あそこは皇后陛下を迎えるための……」
皇帝の秘書が戸惑いながら抗議すると、次の瞬間室内の温度が急激に低下した。
凄まじい殺気が皇帝から発せられ、その場にいる誰もが震え上がる。
「どうせ今は使う予定もなく持て余しているだろう。それとも俺の命令に背くのか?」
「いいえ! 今すぐにご準備いたします」
深々と頭を下げた秘書ジェフリーは、そそくさと逃げ出していく。
残されたエリスは、皇帝に正面から見据えられていた。
「これで心置きなく執筆できるだろう? 邪魔者は排除してやるから、お前は気にせずいくらでも続きを書け」
冷たい美貌でニヤリと笑うその顔は魔王のように恐ろしく、有無を言わせない圧がエリスに重くのしかかる。
「こ、皇宮に留まって執筆しろということでしょうか?」
困惑と恐怖から、エリスの声は震えていた。
「その通りだ。書けないというのなら、お前もお前の父も命はないものと思え」
噂に違わぬ暴君ぶりを発揮させて、皇帝は満足げに頷いた。一介の侯爵令嬢であるエリスに拒否権などない。
こうして平凡な地味令嬢エリス・トランチェスタは、暴君皇帝に脅迫される形で皇宮に軟禁されることとなったのだった。