ドンタとお父さん
「てめえを見世物にすりゃあ、莫大な金が入るってもんだ。それにな...」
言いかけてやめた寺田は、左手に持つ銃の狙いを定めた。
「まあいい。てめえはここで終わりだ」
この距離では避けきれないだろう。
ドンタは寺田の隙を探した。
一瞬でいい。
ほんの一瞬の隙があれば、奴に噛みつける。
「あばよクソ犬。あ、そうそう...」
目を細めてM60の照準を覗き込みながら、寺田はとぼけた顔をしてそう言うと、ドンタが出てきた方の木に首を傾け
「そこに隠れてる女、バレてるぜ」
と言った。
顎を引いた寺田は上目遣いにドンタをじっと見ながら、舌を出して唇を舐め、下卑た笑いを浮かべた。
「お前の飼い主だろ?お前が死んだ後、きっちり殺してやるよ。めちゃくちゃにな」
ドンタの目が見開き、瞳孔が収縮した。
その目が、引き金を引こうとする寺田の指の動きを正確に捉えた。
ドンタにはすべてがスローモーションに見えた。
寺田が差し向けた左手の銃口は正確にドンタの眉間を狙っている。
引き金を引くために寺田が左手の人差し指に力を入れた瞬間、いやコンマ数秒それより先に、ドンタは低く、地面に張り付くほど低くしゃがんだ。
発せられた弾丸がドンタの頭上すれすれをかすって飛んでいった。
ドンタはその場から三歩走って踏み切ると寺田に跳躍した。
外れるはずのない弾丸が外れた事に狼狽した寺田は反射的に右手に力が入り、西の頭にぴたりとつけていた右手の銃の引き金を引いた。
しかし寺田が引き金を引くそのほんの一瞬前、静かに、完全に気配を殺して忍び寄っていたクロコが寺田の右手に噛みついていた。
右手の銃から飛んだ弾丸は西にもミミにも当たらずに地面へ深く突き刺さった。
同時にドンタの牙が寺田の喉にめり込んだ。
「コノヤロウ!百香に!百香に何をするって言いやがった!」
めりめりと音を立てて寺田の喉にドンタの牙が食い込んでいく。
寺田の喉から血が流れ、ドンタの体を赤く染めていく。
ドンタの目は血走り、逆だった全身の毛から凄まじい殺気が立ち上る。
「殺す!貴様を殺してやる!」
「うううっ…」
白目がちになった寺田は息が出来なくなり、叫ぶことも出来ない。
左手から力が抜けだらりと垂れ下がり、銃を落とした。
寺田が意識を失いかけたその時、百香が叫んだ。
「だめっ!お父さん!」
木陰から飛び出すと百香はドンタに飛びついた。
百香の言葉と体温で正気を取り戻したドンタは、寺田から離れた。
寺田がその場に倒れ込むと周囲で声がした。
「こっちだ!早く!」
応援を呼びに行っていた高井が仲間を連れて戻ってきた。
「ミミ!ミミが...!ミミを助けて...!」
搾り出したかすれ声で西が訴えた。
ミミは、閉じかけた目を少しだけ開き、西を見た。
「みなみ、ちゃ...ん。ごめん、ね、僕、かつやく、できなか...」
高井とその仲間が小道にきれいなシートを地面に敷き、シートの端のコックを捻った。
するとそのシートは一気に膨らみ、テントになった。
高井財閥の企業が開発した屋外での犬猫緊急手術用テントだ。
「西さん。ミミをこちらに」
冷静な声で高井が言った。
「ミミは…ミミはまだ生きてます...!」
混乱する西が泣き叫ぶ。
「わかっています。時間がない。ここで手術します」
「…え?」
泣きながら西は高井を見た。
「高井さんは獣医さんなのよ西さん。ここは高井さんに託しましょう」
ドンタを抱きしめたまま震える百香が、諭すように西に言った。
西はそっとミミを抱き上げると、高井へ手渡した。
ミミを受け取った高井は、獣医の仲間と共にテントの中へ入った。
すぐに高井たちによるミミの緊急手術が始まった。
救助隊の一人が西のそばに来ると
「担架に乗ってください」
と言った。
だが、西は
「私はミミのそばにいます」
と言って断った。
寺田に蹴られてボロボロになった西の姿を見た救助隊員が
「だめですよ奥さん、骨折してるかもしれないし、自分で思うより重傷です」
と言った。
「私はミミといっしょにいたいんです…。私はもうあの子を一人にさせないって決めてるんです。たとえ何があっても...」
ドンタを落ち着かせるためにドンタの背をさすり続ける百香は、反対の手で西の頬に触れた。
「西さん。だったらなおさら病院に行かなきゃ。ミミちゃんが目を覚ました時、西さんが元気じゃないとミミちゃんがかわいそうだもん」
「ミミが...ミミが...」
「大丈夫。高井さんが助けてくれます」
がっくりと肩を落としうつむいて泣き続けた西は、百香の肩に顔を埋めた。
しばらく泣いた西はようやく顔を上げると
「...わかりました。病院に行きます」
と言った。
担架に乗せられた西は、そのまま病院へ運ばれた。
「ドンタ、落ち着いた?」
百香がドンタを見た。
ドンタは百香の胸に抱かれて放心していた。
怒りに我を忘れた。
殺意に飲まれた。
自分をコントロール出来なかった。
こんな事は初めての経験だった。
「そういえばさっき、私、お父さんって言った気がする」
百香がそう言うと、口を開けて舌を出しハアハアと息をしていたドンタは舌を引っ込めた。
そうだ。
確かに百香は言った。
お父さん、と。
「さっきあの犯人が言ってた事、ほんとなの?」
百香はドンタを抱きしめたまま言った。
「ドンタ、人間なの?もしかして、お父さんなの?」
ドンタは黙った。
なんと言えばいいのだろう。
そもそも犬語は通じない。
自分は父として百香に何もしてやれなかった。
記憶だってほとんどない。
今は人間ですら無い。
今さら父だと名乗り出ても、どうしようもないではないか。
「あのね。私ね。お父さんの事、あんまり覚えてないの」
百香はぎゅっとドンタを抱きしめた。
「でもね。お父さんの顔、なんとなく覚えてるんだ。写真よりずっとかっこいいんだよ。それでね...」
百香はそっとドンタを胸から離し、ドンタの顔を見た。
「その顔はね、ドンタによく似てるんだ。私、お父さんの事思い出すとね、温かい気持ちになるの」
風が吹いた。
暖かく、優しい風だった。
「私はドンタが大好き。お父さんも大好き。ずっとずっとそばにいてね」
笑いながら泣いていた百香は、そっとドンタにキスをした。
ようやく駆けつけた大原たち警察官が寺田を取り囲み押さえつけた。
「寺田准一!逮捕状だ!強盗および殺人未遂で逮捕するっ!」
喉をやられ気絶していた寺田が、再び目を覚ました。
読んでいただき大変ありがとうございました。