忘れ得ぬ想い
「ドンタ。ほんとにこっちでいいの?」
川縁を進む百香はドンタに声をかけた。
二人はすでに一時間ほど登り、川の中腹まで来ていた。
ここからさらに上へ進むには、大きな岩を登っていくしかない。
これ以上登るとなると、危険度がぐんと増す。
進むべきかどうか思案を始めたドンタは、何かおかしな匂いがする事に気がついた。
百香は急に何かを嗅ぎ出したドンタを黙って見つめた。
ドンタは匂いの正体に気がついた。
これは、火薬の匂いだ。
それだけじゃない。
血の匂いが混じっている。
その時、パーンと乾いた音が聞こえた。
森の中ほどから届いた銃声だった。
「まずい!」
ドンタは平和ボケしていた自分を責めた。
こんな田舎の山に銃を持った凶悪な人間などいるはずがないと、心のどこかで高をくくっていた。
もし、とか、だとしたら、なんてここ最近全く考えなくなっていた。
ここにいる正体不明の人間は銃を持っている。
そしてそいつは何かを撃った。
火薬の匂いに含まれる血の匂いは、自分たちがここに来る前に撃たれた者が流した血だ。
人か動物かわからない。
そして犯人はたった今もう一発撃った。
ドンタはそこでやっと、その男の匂いの不自然さに気がついた。
なぜこいつの匂いから情報が読み取れないのか。
男だろうくらいはわかる。
だが、普通ならその匂いからもっと多くの情報が読み取れる。
いい奴そうだとか、血の気が多そうだとか。
だが、そういった情報が全く読み取れない。
そしてようやく、選抜部隊にいた時に同じような事があったと思い出した。
あの時相手にしたテロリストは、対警察犬用に開発された特殊な消臭剤を使っていた。
今ここにいる、たった今銃を撃った人間も同じ類の消臭剤を使っている可能性がある。
なんのために?
決まっている。
犬の鼻対策だ。
銃を持つその人間は、ここに警察犬が来る事を想定していたのだ。
ドンタは百香をこんな危険な場所に連れてきてしまった事を悔いた。
「百香!帰るぞ!逃げるんだ!」
ドンタはリード越しに百香を川下へ引っ張った。
銃声がした森の中と違う方向に引っ張られ、百香はドンタを見た。
「ドンタ。今のは銃の音だってわかったよね。怖いよね。ごめんね、こんな所に連れてきちゃって」
と言って百香はドンタの頭を撫でた。
「でも私、行かなきゃいけないの。誰かが助けを待ってるの。向井さんかもしれないし、わんこの会の誰かかもしれない。助けにいかなきゃ」
「バカ!何もお前が行く事はない!こんなのは警察に任せろ!」
百香は川縁に敷き詰められた小石にひざまずき、ワンワンと吠えるドンタを抱きしめた。
「大丈夫だよドンタ。心配ない。ドンタは先におかえり。私は行ってくる。ね?」
百香はドンタに顔を近づけて微笑んだ。
「ばっ!何言ってんだ!正体のわからない奴が銃をぶっ放したんだぞ!行かせないぞ!帰るんだ!いい子だから言う事を聞け!頼む!百香!」
「ごめんねドンタ。私行かなきゃ。だって...」
百香は立ち上がって森を見た。
「お父さんがここにいたら、ゼッタイ助けに行くから」
狂ったように吠えていたドンタが、吠えるのをやめた。
「も、百香...。覚えてるのか?俺の事を?」
百香にはほんの朧げな、たったひとつの父の記憶があった。
燃え盛る炎の中、自分の名を呼びながら必死で瓦礫をかき分ける父の姿。
すすだらけの真っ黒な顔の父は、泣きながら笑っていた。
もう大丈夫だぞ百香。
お父さんが助けに来たぞ。
周囲の雑音であまりよく聞こえなかったが、父の顔はそう言っていたように思えた。
百香の記憶はそこで終わる。
その記憶が本当なのかどうか、証明のしようがない。
しかし百香は信じていた。
心の底から信じていた。
その記憶は、父と二人で出かけた商業施設で起きた火災なのだと、後になって知った。
たくさんの人が亡くなった大惨事だった。
とても小さい頃の出来事で、覚えているはずがないと皆に言われた。
結局、父の遺体は見つからなかった。
でも、たしかに父はそこにいた。
父が助けてくれたのだ。
その時抱いていた、道で拾ったばかりの子犬とともに。
「私は大丈夫だから心配ないよ!じゃあまた後でね、ドンタ」
そう言って百香は森の方へ駆け出した。
ドンタは素早く走り百香の前に躍り出ると立ち止まって百香を見上げた。
「勝手に行くな。わかったから。俺も行く」
引き締まった顔でこちらを見上げるドンタを見た百香には、ドンタが一緒に行こうと言っているのがわかった。
「ドンタ!その顔久しぶり!やっぱイケメンだねお前は」
百香がドンタを頬ずりして抱きしめた後、二人は一緒に走り出し、森へ向かった。