いざ、山へ
「えー。みなさん。本日はお忙しい中お集まりいただきましてありがとうございます。今日は行方不明者の捜索です」
大原が説明した今回の行方不明者の情報はこうだった。
名前は向井智治さん。
八十歳の男性。
心身共にとても元気な方で、この山によく入るベテランの登山者だ。
この三輪市に長年住み、妻と二人でしょっちゅうこの山へ来ていた。
しかし去年その連れ合いが病気で他界。
それ以降向井さんは家族の静止を聞かず、一人で山に登るようになった。
正義感が強く「最近の若い者は」が口癖の向井さんは、妻以外の人の言うことを聞かない人だった。
日帰りを望む家族に無断でこの山に一人で泊まる事も度々あった。
いつしか家族は慣れっこになり、昨日向井さんが帰ってこなくても警察へ連絡しなかった。
だがその次の日の晩も結局帰って来なかったので、今朝早く警察に届け出た。
こうして「わんこの会」に緊急招集がかかり、皆が集まって捜索に来た。
初夏の気温を考えると熱中症や低体温症の可能性は低いと思われるが、年齢を考慮すると体力低下による身体機能障害や転倒転落による骨折の可能性は十分にあった。
急がねばならなかった。
大原を中心に今日の捜索範囲を定め、発見した時の向井さんの状況に合わせた対応策を決めた。
七匹の犬たちが落ち着いて待つ中、ミミだけがソワソワしていた。
ミミは早く山へ入りたかった。
彼は西に引き取られるまでずっと、ひどい飼い主に飼われ居場所がなく育った犬だった。
育った、と言うより、虐待される中をなんとか生き延びた、と言って良い。
衰弱して死ぬ寸前だったミミは、近所の通報でどうにか保護された。
その後その飼い主がミミを手放したのを機に、ボランティア団体を通して西が引き取った。
西にたくさんの愛情を注がれてなんとか立ち直ったミミは、三輪市で起きた凶悪事件を解決したある犬の噂を聞いた。
その犬は人質を取って立て籠った武装強盗をやっつけ、人質を無事に救い出したのだと言う。
その犬がドンタと言う名前なのだと後から知った。
立ち直ったとはいえ、西がそばにいないと何もできずうずくまり、外の世界の全てに恐々と生き、西のそばをひとときも離れようとしなかった臆病なミミは勇敢なドンタに憧れ、ドンタみたいになりたいと思った。
テレビから流れてくるニュースや西が愛犬家たちと話す事を聞くうちに、ミミはドンタが嘱託警察犬だと知った。
そして世界には、ドンタの他にもたくさんの嘱託警察犬がいるのだと知った。
ミミは嘱託警察犬になりたいと思った。
この世界を恐れずに生きてみたいと思った。
ミミは事ある事に、自分が嘱託警察犬になりたいのだという事を行動で西にアピールしてみせた。
それに気づいた西はミミと訓練所に通った。
ミミは優秀な犬だった。
特に彼は勘がよかった。
長く続いた怯える暮らしを乗り切った事で、ミミには異常な人間を見分ける力が開花した。
さらに食べても死なない食べ物を嗅ぎ分けるために嗅覚も発達した。
ミミは臭気選別や捜索救助を得意とし、訓練では他の訓練犬を寄せ付けない結果を残した。
ついに卒業試験に合格し正式な嘱託警察犬になったミミは、すぐに「わんこの会」に入会した。
今日、やっと嘱託警察犬になれる。
きっと僕が向井さんを見つけるんだ。
高揚が抑えられない。
生まれてきた事を否定され続けた日はもう終わりだ。
今日から僕は、ドンタさんやクロコさんと同じ嘱託警察犬として生きるんだ。
西が持ってきた向井さんの持ち物の匂いを嗅いだミミは、向井さんの向かったおおよその方向にさっそく検討がついた。
そして向井さんの性格や心情まで読み取っていた。
このおじいさんはいい人だ。
そして、寂しがっている。
早く見つけてあげなくちゃ。
ミミは気を引き締めた。
自分は成長し、過去を克服し、生まれ変わったのだ。
これから僕はたくさんの人を助けてみせる。
ドンタさんが多くの人を助けたように。
みなみちゃん(西の名前)が僕を助けてくれたように。
ミミはずっと、はやく捜査に加わりたいと願ってきた。
そしてついに今日という日を迎えた。
僕が活躍したらみなみちゃん喜んでくれるかな。
ドンタさんやクロコさんみたいに大活躍したいな。
ミミは宝来山の斜面を見上げた。
鬱蒼と生い茂る山の森は深かった。
初夏の森林のいい匂いがした。
「では準備が出来た組からスタートしてください。くれぐれも無理しないように。ご安全に」
大原が言うと、ミミは西を引っ張って駆け出した。
「ミミ、ちょっと。そんなに速く走らないで」
ミミは西を振り返った。
じれったいけどしょうがない。
でも早く進みたい。
ぴょんぴょん飛び跳ねながらミミは西を急かした。
ミミ達は山の斜面に広がる森の中へ入っていった。
ミミや他の組が出発してもなお、ドンタとクロコはまだ出発していなかった。
ドンタは目を閉じて山から吹く風の匂いに集中した。
そして目を開くとクンクンと地面の匂いを嗅ぎ、てくてくとその匂いを追って少し歩いた。
その先に、地面の匂いを嗅いでいるクロコがいた。
そしてクロコは宝来山を見上げ、眉をひそめた。
「さすがだな魔女犬。気づいたか」
ドンタがクロコに話しかけた。
「あなたの出番はないと言ったでしょ。そこで見学していればいいわ」
「まあ、そう言うな。こりゃあ面倒な事になるかも知れねえ」
「ふん。例え他の誰かがここにいるとしても、面倒な事になんてならないわ。私がいるんだから」
やれやれ、とドンタは思った。
この中で高度な犬語が話せるのはクロコとミミだけだ。
しかしミミはテンションが上がり過ぎてもう行ってしまったし、クロコは俺にライバル意識を持っているのか俺の話しをまるで聞かない。
ドンタは思った。
ここには向井さんじゃない人間がもうひとりいる。
そいつはたぶん男だ。
しかし、そいつの匂いからはそれ以上の情報が伺い知れない。
そんな事はなかなかない。
やっかいだ。
そいつが何者かわからないが、悪い奴じゃなけりゃさして問題はないだろう。
しかしもし…。
ドンタは用心した。
「いい奴だろうと悪い奴だろうと、百香には指一本触れさせねえ」
ドンタの顔が引き締まった。
その顔を横目に見たクロコは、ドキッとした。
"キャッ♡昔のドンタ様のお顔に!もしかして戻ってくれるのかしら?!あの頃のカッコよかったドンタ様に♡"
しかしクロコはぶるると身震いして気持ちを引き締めた。
"危ない危ない。今まで何度も裏切られてきたじゃない。この犬はもうダメなのよ。あのカッコよかったドンタ様はもういない。ここにいるのはドンタ様の皮をかぶった抜け殻。ただのポンコツよ"
クロコがその場を後にして高井の元へ行くと、入れ替わりに百香がやってきた。
「ドンタ!いい?これが向井さんの匂いよ。よく覚えてね!」
と言って百香は大原から受け取ってきた布をドンタの鼻に当てた。
「うわっ!くせえ!」
咳き込んで顔を背けた。
「こりゃあじじいの汗の匂いじゃねえか。何が悲しくてこんな朝っぱらからこんなもんの匂いを嗅がなきゃなんねえんだ…(泣)」
「覚えた?もう一回嗅ぐ?」
百香が屈託なくドンタに微笑む。
「覚えた!覚えたから!もうかんべんしてくれ…」
ドンタは必死に作り笑顔を浮かべ尻尾を振った。
こうして、向井さんの捜索が始まった。