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ドンタと百香

「あっついのー」


蝉が鳴き始めた初夏のある日、二十人の女子大生が住む女子寮の庭先で、だらしなく舌を出した一人の犬がつぶやいた。


もちろん犬語だったし、犬なのに一人?、などと突っ込まないあなたはきっといい人に違いない。


その犬はドンタという名前で、年齢は五歳。


犬は一歳で成人になる。


そこからの犬の一年は、人間で言う四年に相当する。


ドンタは人間で言うならば三十代半ばといったところだろう。


愛嬌のある顔の、ごく普通の茶色と白い毛並みのオスの柴犬だった。


ドンタは自分が犬だとわかっていた。


当たり前に聞こえるかもしれない。


しかし、犬だとわかったのは最近の事で、昔は自分が犬だという事が当然すぎて考えた事すらなかった。


だがそういえば昔から、他の犬と何か違うなとは感じていた。


犬には犬語を話す犬とそうでない犬がいる。


ドンタは最初から高度な犬語を理解し、この世界を人間と同じように理解していた。


彼は自分は今犬だが、本来は人間なのだと信じていた。


そう思うようになったきっかけは、いつの頃からか繰り返し観るようになった夢だった。


強い炎に包まれる夢。


日中その夢についてよく考えるようになると、夢の映像は段々と鮮明になっていった。


これは夢じゃない。


記憶だ。


ドンタはそう確信した。


繰り返し思い出されるただひとつの記憶。


その記憶の中で彼は、燃え盛るビルの中にいた。


炎で崩れつつあるビルの中にいる自分が、泣きながら叫んでいる。


それを斜め上から俯瞰していた。


彼はその時そこで娘を探していた。


娘の名前は百香ももか


あちこちを火傷しススだらけで汗だくの人間のドンタは瓦礫の下にいる幼い娘を見つけた。


急いで瓦礫を押し退けると、娘は子犬をかばうように抱いたまま血だらけで気を失っていた。



「百香!」



彼が娘と子犬を抱き抱えた時、天井の柱や周囲の壁が轟音を立てて崩壊した。


ドンタの夢、記憶はそこで終わる。


それが本当に人間だった時の記憶なのかを証明するすべはない。


いや、犬であってもドンタなら、どうにか過去について調べる事ができたかもしれない。


だが彼はそうする道を選ばなかった。


そんな事などもはやどうでもよかった。


百香が無事で元気に生きている。


そして、自分は犬になったとはいえ、成長した娘の姿を毎日見守る事ができるのだ。


人間なら、成長した娘と父の距離感は難しいものだろう。


考えようによっては、人間のままよりむしろ幸せかもしれない。


何も不満はない。


このままでいいのだ。


風が吹いた。


犬小屋のすぐ後ろに立つ大きなクスノキと土の香りが初夏に沸く生命の躍動を運んでくる。


いい匂いだ。


こうしてぼんやり昼寝していても、食うには困らない。


学生たちの手作りの犬小屋は少し雨漏りするが住み心地は悪くない。


さて、今日もこのままぼんやりと過ごそう。


暑いけど犬、最高、と思った矢先である。


「ドンター!」


元気のいい、愛娘の声がした。


ドンタは寮の方を振り返った。


玄関から飛び出した小柄な百香が、きれいな黒髪のショートヘアを風に揺らしながら自分の方へ走ってくるのが見えた。


白い小さなリュックを背負った娘の大きな胸が、彼女の髪よりも揺れていた。



「百香ー!忘れ物ー!」



呼び止められた百香が振り返ると、隣室の親友メグが百香の持っていくはずだった紙袋を持って追ってきた。



「いっけない!」



百香はメグにお礼を言うとそれを受け取り、ドンタの元へ走った。


首輪から伸びるリードを犬小屋脇のポールからほどいて握ると、百香はドンタの頭をポンと撫で、リードを引っ張り駆け出した。


「ドンタ!行くよ!」


朝の散歩はすでに終わっているので、散歩ではない。


見あげると百香の顔は高揚し、やる気で目がキラキラしている。


それは、百香が人助けに行く時に見せる顔だった。


「ええっ?!今日仕事かよ?!こんな暑いのに?!聞いてないよー!」


ドンタが乗り気でないのがわかった百香は立ち止まり、ドンタの顔の前にしゃがみこんで話しかけた。


「ドンタ。困ってる人がいるの。私達で助けに行こう。ね?」


そういうと百香はドンタにキスをして抱きしめた。


Tシャツに水色の薄手のパーカーを来た百香の柔らかい体に包まれたドンタは


「はあ。まあお前一人で行かせられんからなあ。しゃあない。行くか」



と重い腰を上げた。



ドンタがしっぽを振ったのを見た百香は満面の笑みを浮かべた。



「ありがとうドンタ!スキだよ!」



百香に連れられたドンタは久しぶりに嘱託警察犬としての仕事へ向かった。

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