秘密の抜け穴
俺は自室を出て、隣の部屋へ入る。
俺の部屋の隣は、フィアの部屋だ。
……いや、フィアの部屋だったと言った方が正確かも知れない。この部屋は使われなくなって、ずいぶん月日が経ったから。
『……』
フィアが別邸の離れへと引っ込んだあの日から、この部屋はそのままにしてある。
机の上には、読みかけの童話が置かれていて、フィアが幼い頃にこの部屋を出たのが嫌でも分かる。
部屋は侍女たちが折を見て掃除をしているから、汚れてはいないし、ほんのりといい香りがした。
フィアの大好きな香水を、侍女たちが時々振り撒いているのだろう。
いつでも帰って来れるように……。
誰もがそう、思っている。
けれどフィアは、一度もここへは帰って来ない。
だから、《フィアがここにいた…》…という気配はもうほとんどなくて、ただお気に入りだったぬいぐるみだとか、玩具だとかが、綺麗に並べられている。
もう、子ども……と言うより、大人と言った方がいいようなフィアには、もう似合わない。
「……フィア」
俺は思わず呟く。
何故、この屋敷から出て行ったのか、未だに理解が出来ない。
「……っ、」
何かあったら、俺が守るつもりだった。
ずっと傍にいてくれると信じていた。『大好き』って言って、俺に手を伸ばすフィアの姿が死ぬほど可愛くて愛おしくて堪らなかったのに、俺はなんで、その手を離してしまったんだろう?
別邸へ行くと言うフィアを無理やりにでも捕まえていたら、今頃何かが変わっていただろうか……?
兄弟だからって遠慮せずに、好きだと打ち明けていたのなら、今頃恋人同士にでもなっていたのだろうか?
「……」
俺は顔をしかめ、頭を振る。
……いや、それはない。
きっと今と、何も変わらなかったに違いない……。
俺が《好きだ、愛してる》と言っても、フィアは笑って『お兄さま? わたくしもお兄さまが大好きですわ』……って言うのに違いない。
それは恋愛対象としての《好き》ではなくて、家族……兄弟としての、《好き》。
俺のこの気持ちは、きっとずっとこれからも、報われないのに違いない。
「はぁ……」
俺は溜め息をつく。
フィアが俺に言う《好き》は、兄弟として……と言うことに他ならなくて、それはそれ以上でもそれ以下でもない。
こんなに焦がれているのに、同じ敷地内に住んでいるというのに、フィアとの距離はとてつもなく遠い。
それがひどく、もどかしい……。
……なんで気づかないんだろう? こんなにアピールしてるのに。どんだけ鈍感なんだよ……っ。
「フィデルさま……?」
「!」
背後で声がした。
俺は跳ね上がる。
そうだリゼがいた。
思い出して血の気が引く。
「……っ!」
まさか、フィアの部屋に入ってきてるんじゃないだろなっ!?
慌てて振り向いて、リゼの足元を見た。
リゼは、あと一歩の所で部屋に踏み込むことなく、立ち止まっている。俺はホッと胸を撫で下ろす。
安心したら、怒りが膨れ上がった。
「この部屋には絶対入るな……!」
キッとリゼを睨み、威嚇する。
「……っ、承知しております」
俺の声に身を強ばらせ、リゼは顔をしかめた。
言い方がきついのは、百も承知だ。だが、リゼだけはフィアに近づけさせる訳にはいかない。こいつは、何をするか分からない。
「天井裏へは、俺が行く。お前は廊下からメリサの部屋へと行け! でもドアはけして開けるな。開ければタダでは済まさないからな……っ!」
再びギリッと睨みつける。
リゼは忌々しげに俺を見て、それでも臣下の礼をとる。
「……っ、承知しておりますフィデルさま。……では、そのように……」
言って俺に背を向けた。その背が怒りに振るえていることを俺は見逃さない。
絶対、こいつだけは用心しておかないと……。
フィアが子どもの頃につくったその抜け道は、廊下からは入り込めないようになっている。
自分の自室で騒いでいたフィアは、勢い余って部屋の天井をぶち抜いた。その場所が一番安定していて、忍び込み易くなっている。
ついでに言うと、俺の部屋からは行けない。
フィアは、俺の部屋には通路を作らなかった。バレるのを恐れたのかも知れない。
もともと天井の板は、一部が剥がれやすくなっている。
屋敷の手入れをするためなのだが、いつでも簡単に行けるわけじゃない。
各部屋へ簡単に行くことの出来る天井裏には、それなりの封印魔法が施してあって、所定の手順を踏まなければ、解除することが出来なくなっている。
何重にも施されたその封印は、まるで粘土をぎっしり詰め込んだように濃密で、どっしりしているはずなのに、その解除をフィアは無意識に……しかも、いとも簡単にやってのけた。
フィアの通った道の封印は、修復出来なかった。何故なのか、上書きが出来ない。
幸い屋敷の手入れの際には、全ての封印を解いてから行うもので、このことに気づいている者はほとんどいない。
防犯上の欠点でもあるが、知らなければ誰も使えない。
「……」
それがどんなに凄いことなのか、フィアは理解していない。
そもそも《天井をぶち抜いた》など、フィアは口が裂けても言えないに違いない。
「……いや、違うか」
俺は笑う。
きっとフィアだって、自分の失敗を言わなくちゃって思ったに違いない。
貴族令嬢の見本となるよう、日々頑張っていたフィア。
真面目なフィアだからこそ、この破壊行為は許せなかったことだろう。だけど、唯一自由でいられた空間。
天井裏など、誰も覗こうとしない。
封印魔法が強く、正確には誰も覗けない。だから《覗こう》という考えすら思いつかない。
フィアはそんな事知らなかったかもしれない。
ただ単に、自由に探索出来るその空間を、手放すのが惜しかった。ただそれだけだ。
だからフィアは、この存在を隠した。
唯一フィアが『ごめんなさい』と謝らなかったイタズラ。
父上と母上と、それから俺が知っているフィアのイタズラ。
だけど笑って許していた。
……それをリゼも知ってたとか──。
「……」
リゼは要注意だ。
かなりフィアに固執している。
《フィアに近づくな》と命じてはいるが、どこまでそれを守るのか分からない。
フィアが手に入ると確信した時、きっと牙を剥く。
「……っ! くそっ」
妙な悪寒を感じ、俺は自分を抱きしめる。
フィアが今、近くにいないことがとても不安だ。
早く……早く見つけ出さないと……!
幸い、フィアはまだこの屋敷内にいるようだった。気配がする。けれど不安定だ。揺れ動くフィアの心に、俺は焦る。
もしかしたらもう、フィアはメリサの所へ辿り着いたのかも知れない。
メリサのあの怪我を見て、フィアはなんと思っただろう? 俺を憎んだだろうか?
「……っ、」
俺は歯噛みする。
けれど、仕方ない……。
メリサを憎く思ったのは事実だ。
メリサがいなければ、俺は簡単にフィアの心の拠り所となれたはずだった。
それなのに、メリサの存在がそれを大きく阻んだ。
それだけじゃない。
最近目に見えて、メリサは俺からフィアをはぎ取ろうとする。近づけないよう、目に触れさせないよう……。
それがさらに癪に障る。
だから衝動を止められなかった。
やってしまった事。もう、仕方がない……。
「……」
俺は軽く飛び上がり、フィアのベッドの天蓋の端を掴む。
「……っ!」
そして勢いをつけて、足から天井に向かって飛び上がった!
──ガッ……!
軽い衝撃と共に天井の板が一部取れ、俺の体は天井裏へと入り込む。
──スタッ。
「さてと……」
急がなくてはならない。
リゼには『ドアを開けるな』とは言ったが、守らないかもしれない。
フィアの心の動きも尋常じゃない。
「何が起こるか分からない……」
天井裏の高さは、そう高くはなく、立って歩くことは出来ない。
子どもだったフィアなら、屈まず歩けただろうが、今の俺では無理だ。
俺は中腰になって、メリサのいる部屋を目指した。
× × × つづく× × ×




