紅い視線
リゼが案内してくれたその部屋は、場所こそフィデルの部屋とは全くの反対方向にあったけれど、幸運にも今いる場所と同じ三階にあった。
フィデルの部屋と同じ角部屋。
けれどそこはフィデルの部屋よりずいぶん小さくこじんまりとしている。
その扉だけ見ても、中の部屋の様子が手に取るように分かる。
豪華な装飾など一切なくて、驚くほど質素だ。ひと目見ただけでは、そこに部屋が存在するとは気づけないような、そんな部屋だった。
まるでこの屋敷から隔離されたようなその部屋は、もともとは侍従たちの控えの部屋だったのかもしれない。
主の部屋と同じ階。
けれど程よい距離を保ち、控えるように静かに佇む。
「……六月さま」
リゼは、遠慮がちに言った。
「この後、どうなさるおつもりですか?」
「……」
俺は黙り込む。
全くなにも、考えていなかった。
そうだ。どうしよう?
だって俺は《六月》だし、別邸には帰れない。いや、帰れたとしても、フィデルに見つかってしまう。
俺を牢に入れ、メリサを離れの屋敷から、この部屋に連れて来たフィデル。
フィデルが何を考えているかは分からないけど、俺を監禁しようとしていたのは事実だ。このままここに留まっていてもしょうがない。何が起こるか分かったもんじゃない。
けれど、行くあてもない。
するとリゼは微笑んだ。
「でしたら、私の屋敷へ来られますか?」
《屋敷》?
俺は目を見張る。
リゼに屋敷? 屋敷を持っているのだろうか?
目を丸くした俺を見て、リゼは口元に手を当て、ふふふと笑う。
「私の生家です。覚えておいでですか? 私は一応、伯爵令嬢なのですよ?」
言って可愛らしく首を傾げた。
あぁ。そうか、そうだった。リゼは伯爵令嬢。
両親を失い、幼かったリゼは、ゾフィアルノ侯爵家へ引き取られはしたけれど、もともとあった財産は、そのまま受け継がれている。
父上が屋敷を整え、手入れをしていると以前言ってた気がする。きっと、その屋敷なのだろう。
「……」
だけど、いわく付きだ。
かなりの人間が、そこで死んでいる。
それを思うと、なんとも言えない……。
俺は、微妙な表情をしてしまったのに違いない。
……いや、するだろ? 普通……。惨殺現場だぞ?
しかも犯人は、目の前のやつだけどな……。
「……」
自分でも苦い顔をしたのが分かったから、バツが悪い。
悲惨な事件があった場所でも、リゼの生家だ。嫌そうな顔をするのは、失礼だ。せっかくリゼが好意で言ってくれているのに……。
「ありがとう。けれど迷惑は掛けられない」
俺は断った。
《有難い》と思うその気持ちは、けして嘘じゃない。
フィデルが何を考えているのか分からない今、リゼまでも巻き込むわけにはいかない。
助けて欲しいからって、みんなの好意に甘えてばかりいたら、メリサだけでなく、リゼすらも俺の巻き添えをくってしまう可能性がある。
せっかく再び出逢えた友だち……リゼを、そんな目に合わせるわけにはいかなかった。
「む、六月さま……っ!」
けれどリゼは、悲痛な声を上げた。悲鳴に近い声だった。
あまりにも大きなその声に、俺は焦る。
忍んでるんだぞ? 見つかるだろ!?
俺は慌てて、リゼの口を左手で覆った。
「ちょ、リゼ……っ! 声、大きいっ」
シーっと右手の人差し指を立てて、リゼを黙らせる。
「……っ、」
リゼは驚いて、口を抑える俺の左手首を握りしめた。
……いや、ちょっと待って。それ、触り方がおかしい。
引き剥がそうとするのではなく、むしろ頬擦りするようなその手つきに、逆に俺が驚く。
咄嗟に手を引こうとしたが、抜けない。
「……」
え? ……いや、ちょ離して。
苦笑いしつつ、そっと右手を添えて、左手を引き抜く。……けど抜けなかった。
逆に両手で握りしめられる。
「六月さま……!」
リゼは俺を見る。
「な、なに……」
気圧され、俺はたじろぐ。
思わず顔を背けた。ちょっと、圧が凄いんだけど……?
……俺の方が低いから、見下ろされてる感が辛い。
けれど顔を背けても、リゼがマジマジとこっちを見ているのが分かる。
うわ……。なに? なんなの……。
リゼは口を開く。
「私の屋敷では、確かに恐ろしい事件が起こりました。思い返してみても、私自身も心穏やかではいられません……。確かに恐ろしい場所ではありますが、六月さまのお力になればと思ったのでございます。けれどそのように不快な気持ちにさせてしまうなど、私はなんと愚かなのでしょう……」
切々と語られるその声は、泣き崩れるような涙声で、俺は焦る。
それはそうだ。リゼは当事者。俺なんかより、よっぽど辛いに違いない。
俺はハッとして、リゼを見た。
眉を寄せ、目を閉じるその姿は、まだあどけない少女のそれだった。ぽたり……とひとしずくの涙が流れる。
「!」
俺は慌ててその涙を掬う。そして自分の行動を後悔する。
俺はなんて考えなしなんだろう?
自分の事しか考えていない。
だからこうやってリゼやメリサを傷つける……。
「あ……の、リゼ? そんなつもりじゃないんだ」
俺は言い訳がましく口を開く。
今の俺には言い訳ぐらいしか出来ない。
「俺がリゼの世話になってしまうと、リゼに迷惑が掛かってしまう──」
「そんな事はありません!」
リゼが目を開ける。
「……っ、」
俺は息を呑んだ。
真っ赤に燃えるルビーのようなその瞳は、涙のせいか少し潤んでいて、吸い込まれそうになる。
「な……」
比喩でもなんでもない。
本当に吸い込まれる。
俺は息を呑む。
まさか、魔術──!?
「《お願いです》」
リゼの声が、妙な響きをもって、頭の奥深くに楔を穿つ。
「……っ、」
呼吸が奪われる。
見えない鎖に絡め取られるように、体が動かない。
「《私の屋敷へ、来てください》」
悲しそうなリゼの目。
けれど恐ろしいほどに、俺を掴んで離さない。
「な、んで……」
俺は唸る。
必死に抗った。
でも──
目が……離せない。
息が、苦しい……。
「《来て……くださいますよね……!》」
リゼがふわりと笑う。
「ふぐ……っ……」
笑った途端、圧が増す。
強い問い掛けに、俺は抗えない。
息出来ないほどのその圧迫感に、俺は思わず頷いてしまう。
「は……い」
「……! 嬉しい……!」
パッと微笑んで、リゼは俺の胸に飛び込んできた。
「くは……っ、」
そこで俺は自由になる。
ひどく苦しくて、喘ぐように息をした。
……何だったんだ? 今の。
ひどく頭が痛い。
「リゼ……苦し……」
思わずリゼにもたれ掛かった。
リゼは俺を抱きかかえながら、微笑む。
「大丈夫ですか? 屋敷へは私がお連れ致します。これでも鍛えておりますので、六月さまを抱き上げるなど、造作もありません」
うっとりと耳元で囁くその声が、俺に絡みついてくるようだ。
けれど俺はその手を跳ね除けた。
「……大丈夫。……それよりメリサ、……メリサに、会わない、と……」
支えてくれるのは有難いが、俺だって意地がある。
震える足でどうにか立ち上がると、俺はメリサがいるという部屋の扉に手を掛けた。
「……っ、」
「……?」
微かに舌打ちが聞こえたような気がして、俺は振り返る。
リゼは俺と目が合うと、慌てたように口を開いた。
「メリサなど、良いではありませんか。ここの侍女なのでしょう? 連れて行けば、フィデルさまのお怒りに触れるかも知れません」
「いや、ダメだ。……もう、置いていけないんだ……」
唸るように呟く。
朦朧とした頭でも、それだけは絶対に譲れない。
「……」
俺の言葉を聞いて、リゼは渋い顔をした。けれど、すぐ表情を緩める。
「そう……ですね……」
何やら考え込む仕草をし、ふっと微笑む。
「……」
……その微笑みに少し違和感を感じ、少し背筋がゾッとする。
「分かりました。では、こうしましょう……」
そう言ってリゼは、今から取るべき行動を俺に提案した。
× × × つづく× × ×




