ルルのお使い。
ルルは走った!
山道は慣れている。
いつも仕事へ行く時に、往復している道だ。
ゴツゴツとしていて舗装されていない道は、走ると足を捻ったり、滑ったりするから、とても危ないんだけど、私はそんなヘマはしない。
慣れ親しんだ道だから、どんなにふざけて走ったとしても、転んだりするわけがない。
咄嗟に手を上げて、自分が行く! と言ったけれど、正解だったと思う。
仕事の内容は、タダのお使い。
だけど最終的に、皇宮に行くことになる。
「……」
皇宮……。
私は少し怯む。
やっぱり大人たちに、この仕事を変わってもらった方が良かったのかな?
ううん、だけど……。
私は思う。
……うん。
やっぱり、私が来て正解だったと思う。
だって、この道だもの。
すっごいボコボコの、この歩きにくい道……。
確かに大人たちは、こんな道だって、歩きなれているかも知れない。……ううん。違うわ。大人たちは馬車を使えるもの。
そりゃ、身体能力は、私より、うんと高いに違いない。けれど、どんな能力だって使わなければ、低下するんじゃないかって私は思う。
大人たちは、馬を操る事が出来る。
だから街に用がある時は、必ず荷馬車を出してくるじゃない。こんなボコボコ道を走る……どころか、歩く姿だって見たことがない。
走ったりなんかしたら、きっとコケちゃうに違いないわ。
特に、……そう! あのおっちょこちょいのリナ!
去年、礼拝堂で成人の義を執り行ったリナだけど、いつもぽやっとしていてヘマばかりする。
私より、うんと年上だけど、すっごく頼りないんだから!
あのリナが、このお使いに出ていたら、きっと直ぐに足を捻って、今頃倒れていたに違いない……!
私はクスッと笑いながら、自分の選択は間違っていなかった! と自信を持つ。
だって私は、塀の上だって、猫のように走る事が出来た。
体幹の強さとバランスだけは、誰にも負けない自信がある。
いつだったか、孤児院のみんなと一緒に、近くの川に釣りに行った事があった。
あの時は確か、……いつも釣る場所に魚の影が見えなかったんだっけ?
だから私たちは、みんなで大騒ぎながら魚を探しながら、上流の滝壺の方まで見に行った。
そしたらそこには、たくさんの魚がいた。
私たちは喜んで、そこで魚を釣ろうとしたんだけど、滝壺の周りの足場は狭い。
どう足掻いても、釣ったあとに動くと、後ろか前に落ちてしまう。
『ルルぅ……』
魚は欲しいけれど、落ちるのは怖い。
みんなは哀れな声を出して、私を見た。
「ふふ。あの時のみんなの顔ったら……」
私は思い出して、思わず笑ってしまう。
今思い出してみても、あの時の自分は我ながら凄かったと思う。
あの時の私は、諦めずに魚を釣ることにした。
細い足場に立って、魚が食いつくのをじっと待つ。
待つのも大変だった。
静かに待っていると、平衡感覚がズレてくる。
不意にフラフラ……っとなるのに堪えていると、今度は竿に魚が掛かる。掛かったら、そこからが正念場。私はハッとして、足を踏ん張るの!
物凄い勢いで引っ張られるのをグッと構えて、バランスを取りながら、耐えなくちゃならない。だって後ずさったら、落っこちちゃうんだもん。もちろん、前にも行けない。
出来るのは、魚が竿を引く力と同じ力でもって、反対方向に体を仰け反らせるくらい? あまりにも無謀な釣りだった。
……まぁ、落ちてもびしょ濡れになるか、少し擦りむくくらいだったから、諦めずに釣ろうって思ったんだけどね。
だけど私は、どっちにも落ちなかった。
後ろにも前にも行かず、お腹と腕にグッと力を入れて釣り上げる!
……今思い返してみても、本当に神業のような釣りだった。
魚はたくさんいて、滝壺に糸を垂らせば、面白いほどに食いついてきた。
大きい魚もいて、危うく滝壺に落ちそうになりながら、私は必死になって、孤児院みんなの分の魚を釣った。もちろん、みんなは喜んだ。
その日以来私は、自分のバランス感覚には自信を持った。
だから、こんなボコボコ道、なんてことはない。
だからコレは、私にしか出来ない仕事だったんだって思うことにした。
私は全速力で駆け抜ける!
「あ! こっちが、近道……!」
叫んでズサっとブレーキを掛けながら、私は草むらへ飛び込んだ!
まっすぐ街道へ……なんてことはしない。
だってここは、私たちの庭みたいなものだから! 近道なんて沢山知ってるし、抜け穴だって見つけたんだから……!
林の中を突っ切れば、道は更に険しくなるけれど、凄く近道になる。
だからあえて私は、その道を選んだ。
フィデルさまは、私を選んでくださったもの。それに報いたかった。
普通のお貴族さまだったのなら、『お前のような小娘では、話にならん!』と追い出されたはずだ。
けれどフィデルさまは違った。
普通貴族たちは、私たち孤児に話しかけたりしない。
修道院のシスターたちにすら、話しかけない貴族もいる。だけどフィデルさまは、そんな事しない。
けれど私は、思い出す。
「……」
あの日あの時、私はフィデルさまの秘密を見てしまった。
見てはいけない、フィデルさまの秘密。
凄く怖かった。
貴族の嫌なところを、まとめて見てしまった気がした。
いるはずのないそんな場所に、……だけどフィデルさまがいた。
……。
正直悲しかった。
フィデルさまは、そんな人ではないと思っていたから……。
「……」
私の足が、少し勢いを失う。
──フィデルさまは、私に仕事を託された。
そのことが、とても嬉しかった。
……けれど、恐ろしくもある。
どれが本当の、フィデルさまなのだろう?
貴族なんて、慈善事業……などと言って、修道院へたくさんの寄付を下さるけれど、所詮それだけだと、私は思うようにしている。
そしてそれは、フィデルさまやフィシリアさまのおうち……ゾフィアルノ侯爵家も、例外じゃないって思ってる。
周りの目、宣伝の為、自分たちはいい様に使われているだけなんだと、いつも自分にそう言い聞かせていた。
天使のように微笑んでくれるフィリシアさまが大好きで、だからこそ裏切られた時が恐ろしくもあって、所詮貴族はみんな一緒なんだと、私は思おうとした。
「……」
私は、あの時の場面を再びを思い出す。
あの時私は見てしまった。
フィリシアさまと同様、いつも優しく接して下さっていたフィデルさまが、良くない人たちと共に、何かを……悪い事を企んでいるその姿を……!
明らかに不健全な、喉が痛くなるほどにむせ返る、タバコと香水の匂い。その匂いの中で、彼らは嫌な笑みを浮かべていた。
その中に、当然だと言うかのように、静かに佇むフィデルさま。
「……」
私は自分の目が信じられなかった。
優しいと思っていたフィデルが、急に悪魔のように見えた。
自分を見下ろしたあの常磐色の深いその瞳が……、いつもなら暖かな春の若葉のように、見る者を優しく包み込んでくれた、あの瞳は、あの日はまるで、深い底なし沼のように冷たく広がる、暗い鉛色をしていた……。
──フィデルさまが、皇太子を狙っている……?
「……っ、」
その事実が、未だ信じられない。
けれど心のどこかで、フィデルさまもやっぱり、他の貴族と同じだったのだと、理解する。
《所詮、貴族はみんな一緒》──
フィデルさまのその姿は、それを裏付けるのに十分なものだった。
「……はぁ」
私は溜め息をついて、頭を振る。
《貴族は、みんな一緒》。
私はずっと、そう思っていたじゃない。
今更傷つくとか、笑っちゃうわ。
……けれどそう思ったのに、ショックが隠せない。
「……」
心の奥底で私は、フィデルさまやフィリシアさまを信じていた。
あのお二人が大好きで、尊敬もしていて、心の底から信じ切っていたんだと思う。
フィデルさまとフィリシアさまだけは、他の貴族とは違うって……。
そう思っていたし、思いたかった。
だけどそれを、踏みにじられた……。
「……」
けれどこれは、《悲しい》って言う気持ちじゃない。《悔しさ》とも違う。
全然違う。
「……っ、」
私の喉が悲鳴をあげる。
そう。これはきっと、
恐怖──。
この気持ちは、恐怖以外のなにものでもない。
信じたくなかった。
大好きな、フィデルさま。
そのフィデルさまが、あの場にいた。
誰よりもあの場に似つかわしくないはずの、フィデルさま。
けれど、あの場の誰よりも──、
美しく、恐ろしい、人──
「……いやっ!」
私は思い出して、悲鳴をあげる。
思考を振り払おうと、慌てて頭を振った。
怖かった。
私は自分の両手で、口を塞ぐ。
口を塞いだ手が、思っていた以上にブルブル震えていて、よけいに恐ろしくなった。
《悲しい》とか《悔しい》とか、そんな風に思うならまだいい。
けれど感じたのは、明らかに《恐怖》だ。
《裏切られた想い》や、《不信感》……なんてものは、価値観が同じ人間同士で感じるものなんだ……とルルは知った。
この恐ろしさは、いったい何処から来るんだろう? と、ルルは考える。
(多分……)
ルルは思う。
(多分、フィデルさまには、私たちの《言葉》は通じない)
通じないくらい、遠くの人。
通じないと思うくらい、尊敬していた。
《価値観の全く違う世界で生きる人》
大人だとか、子どもだとか、そんな次元を遥かに超えた存在。
私は時々思っていた。
自分たちと違う価値観を持った人たちは、たくさんいるんだって。
大人たちもそうだ。
大人たちとは、話がかち合わない。
「……」
修道院にいる大人たちや、仕事場の人たちと、時々話が噛み合わないことがある。
そりゃそうよね?
私たちと大人では、経験した事柄の、時間の長さも質も量も全く違うもの。力も知恵もうんとある大人たちと、ついこの前生まれてきたような、ひよっこの私たちとで、考え方が一緒なわけがない。
そんな時、決まって大人たちは、私たちを子ども扱いした。
──ルルはしっかり者だけど、まだまだ子どもだなぁ。
笑って言う大人たちに、私はムッとしたけれど、これは少し、ソレに似ている。
……もちろんフィデルさまは、そんな次元なんかじゃない。
けど状況は、少し似ていた。
フィデルさまと私とでは、その生活する場所の環境とか重みが全く違う。
違うから、考え方も行動も、私の予想を遥かに上回る。
大人たちは、私が間違えれば、《そうじゃない。こうだよ》と教えてくれるけれど、フィデルさまのそれは違う。
間違えたら、それで終わり……。
「……っ」
私はゾッとする。
使えないと分かれば、フィデルさまは簡単に、私の命を奪うことが出来る。
《お前は要らない》と斬り捨てられても、文句は言えない。
それが貴族。
……それが、フィデルさまだと、私は本能で理解する。
他人の命を奪う権利を持っている。
自由を奪うことが出来る。
……そして、その全てが許される。
だから、みんなが恐れている。
理不尽な事で貴族は怒る。
だけど私たちは、《それはワガママだ!》とは言えない。
ただ、その仕打ちに耐えるだけだ。
目の前が、クラクラした。
フィデルさまは違うって思ってたのに……。
だけど、多分、違う意味で違っていた。
フィデルさまは、他の貴族よりも貴族だった……!
「なんで……なんで、フィリシアさまは……」
声が震えて、先を続けられない。
あの天使のように優しく微笑むあの人は、何故、あんなに恐ろしい目を持つ人と、一緒に暮らせるのだろう?
……それともフィリシアさまも、フィデルさまと同じなの……?
「……」
私はそこで、頭を振る。
そんなハズはない。
「フィリシアさまは、そんなんじゃ、ない……!」
ポロポロと涙が溢れた。
フィリシアさまの優しい笑顔と、あたたかい手のひらを思い出した。
あの眼差しに見つめられたい。
あの可愛らしい、鈴の音のような声が聞きたい……。
けれどそれは叶わない。
フィリシアさまは、私からお会い出来るような方ではないから。
「……」
私は、泣きながら肩で大きく息をつく。
ドルビー寄宿所は、もう目の前だ。
ちゃんと説明をしなくちゃいけない。泣いてる場合じゃない!
ゴシゴシと腕で顔を擦った。
悩んでいてもしょうがない。
私はフィデルさまに、仕事を頼まれた。
私はなにも考えず、ただその仕事をやり遂げればいい話だ!
「っ!」
自分の頬を、両手でバシバシと叩いた。
しっかりしろ! ルル!!
こんな事でへこたれてる訳には、いかないんだぞ!
私はキッとドルビー寄宿所を見る。
門には訓練生が立っていた。
状況を説明したら、今度は皇宮。
「……」
私はゴクリ……と唾を飲む。
子どもの私には少し、荷が重い。
だけどやらなくちゃいけない。自分がこの世で生き抜くためだ!
「……っ、」
そして私は決心すると、訓練生の方へと走って行った。
× × × つづく× × ×




