悩み
『シャアァァアァァ──!!!』
バルシクが威嚇音を上げ、体勢を整え始めた。
俺は咄嗟に身構える。
木々を駆けるフィデルの肩の上で、俺はバルシクに相対した。
『フーっ、フウゥゥーーッ!!!』
ものすごい顔で、バルシクが威嚇する。
バルシクは自分より細い木の枝の上には、流石に乗れないとみて、足場の悪い地をドタドタと駆けた。
けれど流石は魔物。
自分の生まれ故郷である、西の森の地形など、駆けるための足枷にはならないようだ。驚くほどの速さで、俺たちに詰め寄った……!
「……っ!」
心なし、俺は仰け反る。
幼いバルシクと言えども、この勢いには圧倒された。
俺は必死に息を整える。
落ち着け……落ち着くんだ……。
ドクドクと激しく鳴る心臓が痛い。
俺は顔をしかめた。
バルシクは水が苦手だ。
だから俺の水魔法はうってつけだ。
……その、はずだ。
「……っ、」
だけど正直、俺は自信がない。
魔力はまだ残ってはいるけれど、体力がもつだろうか?
……いや、それ以前に……。
「……っ、フィ、フィデル」
俺は顔を歪めた。
どうにかして欲しくて、フィデルの名を呼んだ。
やっぱり無理だって、言おうと思った。
……出来ないわけじゃないと思う。
だって俺はバルシクの弱点である水の魔法……水絞魔法が使えるから。
バルシクに相対したのだって、初めてじゃない。
宵闇国で、討伐隊と一緒に狩りに出たことだってある。
目の前にいるバルシクよりも、もっと大きいバルシクと相対した事もあるし、致命傷になる攻撃魔法を当てたことだって、何度もあった。
だけど事は、そんな簡単な話じゃない。
一番の問題は、俺が《自信をなくしてしまっている》ってことだ……。
「……」
俺は、自信をなくしている。
ほとんど自覚はなかったけど、こうして魔物と相対して初めて気づく。
──俺は、自分を肯定出来ない。
自分自身が信じられなくて、動けない。
俺を必要としてくれる人間が、この世にいない。……そう思ってしまうと、世の中全てが灰色に染まって、どうでも良くなった。
目の前の……本当ならまだ幼獣で、小さい方のバルシクなのに、ものすごく大きな壁となって立ち塞がる。
自分でも、どうしたらいいのか分からない。
ひどい脱力感と、背筋から這い登ってくる恐怖に、体が震えた。
だけど言えない。
死を覚悟することは簡単に出来たのに、フィデルから更なる《役立たず》のレッテルを貼られるのが怖くて、ひどく苦しい。
今、少しでも動かないと、余計にそれを助長させるってことだって、ちゃんと分かっているんだ。
だけど体が動かない。
ガクガクと震えて、力が逃げていく。
「……っ、」
怖い。
泣きたくなるほど、恐ろしい……。
本当に、情けない……。
言い出した言葉の先が続けられず、しばらく黙っていると、フィデルが静かに口を開いた。
「……フィア? 無理はしなくていい。できる事だけでいいから……」
とても穏やかな声だった。
「……。うん」
頷きながら、俺は泣きたくなる。
フィデルは何故だか、俺の気持ちをよく汲んでくれる。
言いづらい事でもすぐに分かってくれて、俺は何度も救われた。
……俺はそれに、甘えっぱなしで、そんな自分が嫌いだったし、フィデルには申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
《うん》って答えたけど、本当は、それじゃダメだって俺の心が叫んだ。
それを受け入れてしまえば、また心が苦しくなるってことを、俺はちゃんと自覚している。
役にも立たない俺なんか、捨てておけば良いのに……。
なんでフィデルは、いつもこうやって、俺を助けに来るんだろう……?
「……っ」
俺はゴシゴシと顔を手のひらで擦り、バルシクを睨む……!
『シギャーッ!』
「……っ、」
ものすごい威嚇に、俺は息を呑む。
バルシクは相変わらず、ものすごい顔でこっちを睨んでいる。
その殺気がビリビリと伝わってきた! 体が更に震えた。
俺はバルシクを凝視し、怯む。
今のバルシクに、《可愛い》なんて言葉は何ひとつとして当てはまらない。
ギラギラ光る尖った歯の間から、透明なスライムみたいな粘り気のあるヨダレを垂らしたバルシクは、まるでB級ホラー映画の中の怪物のようで、俺は思わず尻込みする。
「フィア!」
たまりかねて、フィデルが声を荒らげた!
それは俺を心配して声を荒らげたものなか、それとも動かない俺に憤って声を荒らげたのか、どちらなのかは分からない。
だけど俺は、後者だと思うことにする。
その方が、気が楽だ……。
フィデルに甘える道は、確実に二人の死を意味している。
俺はともかくとして、フィデルだけは生きて帰したかった。
「……っ、分かってる……!」
渾身の力を振り絞り、俺は空気中から《水》を掻き集めた。
怖い。
確かに怖い。
魔法を展開する両手が、ブルブル震えているのが見えた。
魔法は、術者の精神状態を表す。
攻撃的な気持ちだと鋭い魔法が繰り出せるけど、今の俺みたいに、自信をなくしたり、戦意喪失している人間の魔法は、はっきり言ってカスだ。
多分俺は、今術を行使しても、その《カス》しか出せない。
そして目の前にいるのは、天災級の魔物。
幼獣と言えども、繰り出す魔法が水絞魔法でも、それが《カス》なら、効き目なんてないに違いない。
……あぁ、俺ってこんなに臆病だったんだ。
怖くて怖くて、仕方がない。
「……」
だけど、本当に怖いのはバルシクじゃない。それも分かってる。
バルシクは、宵闇で何度も戦ったことがある。
……確かにあの時は、宵闇の熟練の兵士がサポートについていてくれて、こんな俺でも倒せた。俺だってそれなりの自信が自分の魔法にはある。
そもそも水絞魔法は、誰にでも使いこなせる魔法じゃない。
会得しただけでも凄いことなんだ!
「……っ!」
俺は歯噛みした。
自分で自分を褒めて奮い起こそうとしても、あまり効き目がない。
そうだよ! 分かってる!
そんなんじゃない。
凄い魔法だろうがなんだろうが、俺が望むモノが……人から必要だと思われる事が出来ないのなら、何の役にも立たない!
ぽっかり空いた、心の隙間は、そんなんじゃ埋まらない。
埋まらないなら、どうする? 諦めるのか?
諦めたら、水絞魔法を使えないフィデルは、バルシクの格好の餌食となる。俺はそれを見る羽目になる……!
「……っ!」
ひぐっ……と喉がなった。
そんな事……そんな事、嫌だ!
フィデル、フィデルだけは無事に帰したい……っ!
俺は自分に言い聞かせる。
今は、自信があるとかないとか、そんなこと関係ない。
出来るか、出来ないか、……なんだ!
俺が怖いと思っているのは、目の前で雄叫びをあげて、ヨダレを垂らしているバルシクなんかじゃない。
《無理をするな》って言っても、やっぱりそれなりの期待を寄せているだろうフィデルが怖いんだ。
《期待はずれだった》……とフィデルに思われたくない。
やっぱり、この程度か……って思われたら、どうしよう? って、そう思ってる。
だけど、それ以上に、フィデルを救いたい!
フィデルをあの家に帰したい……!!
「……っ」
俺は体に力を入れた。
何としてでも、フィデルを助けなくちゃいけない!
ガクガク振るえながら、力を込める。
ありったけの力を──!
だって今も昔も、フィデルが支えてくれてたんだぞ?
俺一人なら、どれだけだって諦めればいい。
だけど、フィデルの命までも諦めるわけにはいかない……っ!
俺は渾身の力を、手に集めた。
「うぐぐぐぐ……っ、」
苦し……い……っ、
ぱあぁぁ……!
手に意識を集中すると、《水分》が蠢いているのが分かった。
それを感じた途端、体がフワッと軽くなる。
うん……。
大丈夫。
……どうにか、……どうにか出来る!!
俺はゆっくり目を開き、バルシクを再び睨んだ。
バルシクの緑の瞳が見えた。
あぁ、バルシク……俺と同じ目の色だったんだ。
……少し、近親感が湧く。
思わず俺は微笑んだ
『!?』
バルシクは、そんな俺に気づき、少し怯んだ。
きっとバルシクにだって分かるんだろう。俺の周りの空気が変わったことに……。
「……!」
やれる。
大丈夫、俺はやれる……!
いくらバルシクが天災級の魔物でも、魔力をその身に沢山たくわえていてたとしても、この世の全ての《水》を全て消し去るのは不可能だ。
大気中、それから生き物の体内に《水》は信じられないほど多く存在していて、俺たち生き物を優しく守ってくれている。
──《水》。
どんな植物でも動物でも、コレがないと生きてはいられない。
なくてはならない、水。
ぶっちゃけた話、バルシクの中にもこの《水》は存在するんだけど、バルシク自体が魔力で包まれていて守られているから、その体内《水》には、手出し出来ない。
だけど、それ以外なら操れる……!
こぽ。
こぽこぽこぽ……。
手のひらに集まってきた、丸い球体の《水》が少しずつ膨れ上がる。
細かい水泡を含ませながら、集めた水はキラキラと輝き、とても綺麗だった。
「出来……たぁ……」
思わず溜め息をつく。
「……フィア?」
心配気なフィデルの声が聞こえた。
練り上げた術は、いつもより随分と小さいものだったけれど、俺が自信を回復するのには、十分な大きさだった。
コレなら、たとえバルシクを倒せなくても、牽制は出来る……!
俺はふっと微笑み、フィデルに話し掛ける。
「大丈夫。俺、出来る。……フィデル、俺にまかせて……」
「……あぁ。頼む」
フィデルの声は、明るかった。
水は俺の手の中に、集まってくる。
ここヴァルキルア帝国では、俺しか使えない水絞魔法。
思ったよりも水が集まるのが早い。
ここが森の中だからだろうか?
だけど、それでもまだ小さい。
倒すのは、やっぱり無理か……。
でも、いける!
俺は、必死の形相で追っかけてくるバルシクを睨んだ!
『キシャ──ッ!!』
「……」
もう、バルシクの威嚇なんかには、怯まない。
俺は手の中の水絞魔法を見た。
透明のその水は、小さな水泡を煌めかせ、俺を魅了する。
俺は目を細める。
もう、怯まない……!
「……っ!」
そして俺は、その水の塊を渾身の力で以て、その魔法をバルシクに投げつけたのだった!
× × × つづく× × ×




