魔湖《トルム・ラクス》
「ぐえ。……きっつ……」
俺は膝に手をつき、ゼイゼイと息を吐いた。
自分に体力ないの、知ってたけどね。
でも、これほどまでとはね……。
いや、普通の人間より体力あるよ? あるつもりだよ?
だけどこの舗装されていない西の森を、けもの道頼りに全力疾走とか、さすがの俺も限界だった。
「あ"あ"〜……もう、……もうダメ……」
だから俺は、堪らず地べたの上に大の字になって寝転んでしまった。
けれど、もちろんここは、魔物の住む西の森。
いついかなる時、魔物が襲ってくるか分からない。だから当然俺は、周りの安全をちゃんと確認してから、寝そべった。
けれどおかしな事に、西の森は異様なほど静かだった。
……カピアが逃げて来るくらいだから、ものすごい魔物がたくさんいるかもって思ったんだけどね。
だけどものすごい魔物……どころか、西の森に入る前に見たカピアすらいなかった。それどころか、小物の魔獣一匹見かけなかったし、そもそも気配すらない。
どした?
何が起こった?
俺は頭を捻る。
まぁ……めちゃくちゃ疲れている今の俺にこの状況は、好都合なんだけどね。でも、ちょっとおかしいよね……。
「うわぁ、……でももう、そんな事どうでもいい。疲れた! ……少し休むぅ……」
呻きながら俺は、目を閉じた。
今の西の森の状況が変だと言う事は、痛いほどに理解してる。してるけど、今は自分の体調が思わしくない。
魔力はまだある。けれど、何故だか脱力感が半端ない。
「よかった……魔物。いなくて……」
目を閉じると、ここが魔物の住む西の森……とは、とても思えない。
可愛い鳥のさえずりが聞こえてきて、まるでのどかな草原にピクニックにでもやって来たような、そんな気分になる。
うん、、……横になると、少しは楽だな。
このまま、眠ってしまいたいよ……。
「はぁ」
俺は深い溜め息をつく。
このままいっそ、消えてなくなりたい……。
そんな事を思うくらい、とても疲れていた。
そよそよとそよぐ風が気持ちよくって、ここが西の森じゃなかったら、本当に眠ってしまうところだ。
……寝たら、死ぬけどな。
魔獣が見当たらないだけで、絶対いるはずだから……。
「はぁ……でも、もうどうでもいい……」
心身共に疲れ果てて、動きたくない。
それにしてもこの体力には、困ったものだ。なんでこんなに疲れてるんだろ?
妙な脱力感の原因を探りながら、俺はゆっくり目を開ける。
思えば侯爵令嬢のフィリシアとして、体力とは無縁の生活を送ってきた。
たまに誘われるままに、この魔物の森で狩りをしたり、護身術を屋敷で学んだりするけれど、その他は、本っ当なんにもしてなかったからね。
そりゃ体力も落ちるってもんだよね?
「……」
でも、この脱力感の原因は、それだけではないような気がする。
………………。
ほら、あれだ。
多分あれ……だよね?
──『謹慎処分』。
たった三日だけだったけど、俺は謹慎処分を受けた。
この脱力感は、きっとそのせいだと思う。
自覚すると、ズキン……と、胸が痛んだ。
…………やっぱり、原因はコレか。
「はぁ……」
再び溜め息をつきながら、俺は腕で両目を塞いだ。
ひどく心が痛かった。
訳の分からない脱力感が、『そうだよ! それだよ!!』と手を叩いて喜んでいるような気がする。
苦しくなって、俺は丸く身を縮めた。
「……っ、」
覚悟はしていたけれど、やっぱりいたたまれない。
婚約解消の為に、自分を貶めた上に謹慎処分受けるとか。俺の馬鹿さ加減にも、ほとほと愛想が尽きた。
「……」
でも、それだけじゃない。俺は、フィデルも巻き込んでしまった。きっとフィデルは、怒ったに違いない。
「そうでなかったのなら、フィデルがあんな事、するわけがない……」
……フィデルはいつも、俺になんでも話してくれた。あんな風に、隠し事するみたいに俺を除け者にして、ラディリアスと話す……なんて事は、一度もなかったんだ。
顔には出さなかったけど、迷惑な弟だと思ったに違いない。
……そりゃそうだよね。
確かに皇太子との婚約は、解消した方がいいけれど、皇太子……ラディリアスはフィデルの直属の上司に当たる。
その上司に対して、フィデルは嘘をついた。俺のせいで……。
前世で言う、サラリーマンの上司とはわけが違う。
この異世界の皇太子となると、フィデルの思い入れも、特別なものなのに違いない。
それなのに、俺はフィデルを利用して、あわよくば皇太子との婚約破棄……なんて思ってた。
だから、……だからなんじゃないだろうか? だからフィデルは、『フィアなんて、いらない』って思ったんじゃないかなって……。
「……フィデル」
俺はフィデルの名を呟く。
フィデルは俺の双子の兄で、生まれた時からずっと一緒だった。
変な状況下で生まれてしまったフィデルと俺だけど、それはそれで幸せに暮らせていたと思う。
少なくとも俺は、フィデルが傍にいてくれて、守ってくれていたから嬉しかったし、今までこうやってやってこれたんだと思う。
それなのに俺は、そんなフィデルの優しさに、胡座かいて、好き勝手やってしまった。
愛想つかされて、当然だと思う。
屋敷を勝手に飛び出して、フィデルに見つかって、今俺は、追い掛けられてはいるんだけれど、本当は嬉しかった。
まだフィデルは、俺を気にかけてくれるんだなって思って。
怒られるような事をしたのかもしれないけど、でも心配して、ここまで来てくれたんだなって……。
そう思うと嬉しかった。
本当は、ずっと傍にいたい。
《自由になる!》とか《宵闇に行く!》なんて、俺は言っていたけど、本当は家族と……フィデルと一緒にいたいと思っている。
こんな境遇じゃなかったのなら、男兄弟として、色んなことが出来たんだろうなって思うと、悲しくなるんだ。
フィデルと一緒に剣術の勉強をしたり、旅行に行ったり。
それから仕事の話とか、恋愛の話しをしたりして……。
そうだ。フィデルと一緒に、皇太子であるラディリアスを支えるのもいいかも知れない。
俺とフィデルは双子だけど、得意分野が微妙に違うから、きっとラディリアスの役に立つはずだ。
持久力のあるフィデル。瞬発力の俺。
炎を操るフィデル。水を操る俺。
地理や歴史に強いフィデルに、化学と数学に強い俺。
……だけど、今の俺は、何にも役に立てない。
男でも女でもない俺。
何もかもが中途半端な俺。
ワガママばっかり言って、迷惑を掛けた俺。
おかげで、フィデルの信頼を失わせたし、小さい頃はあんなにも仲が良かったラディリアスとも、今は変な空気が流れている。
全部……全部、俺のせい。
その上、本来何のために嘘をついたのか分からなくなった。
だってラディリアスとの婚約は、破棄には出来なくって、ただの《保留》になってしまったから。ホント、俺って、何やってんだろう。
表面上はなんでもない風を装ってた俺だけど、ずっと心の中では後悔の念に苛まれていた。
本当はずっと前から、フィデルには申し訳ないって思ってた。
だけど……それを素直に出せなくて、……フィデルが全部悪いって、思おうとしたんだ。
俺を除け者にする、フィデルやラディリアスが悪いんだって……。
「……」
でも、それは違う。
俺は感情のまま、変な《怒り》で全てを有耶無耶にしようとしたけれど、心の奥底で『それは違うだろ!』って、俺の本心が怒ってた。
自分で自分に嘘をついて、その事に気づいて、俺の本心が泣いていた。
……だから、体が動かない。
妙な脱力感に支配されて、心がひどく、
悲しい──。
もっと上手く、立ち回れたんじゃないか。
もっと他に、やり方はなかったのか。
もっとちゃんと考えて行動にうつしていたら、フィデルを巻き込むこともなかったかも知れない。
だから謹慎処分を受けた三日間は、本当に真面目に、大人しく過ごしてきた。
……大人しくしていようって思ってたワケじゃなくて、動けなかったんだ。
また家族に、迷惑を掛けてしまうとか、嫌われたんじゃないかって思うこと以前に、
《俺は俺自身を騙した……》
自分が、本当にどうしたいのか、どう思っていたのか、何に傷ついていたのか、全部偽って、自分騙して、そして納得しようとした。
けど、騙せなかった。
嘘をついたその事実が、深く自分を傷つけた。
「……はぁ」
俺は溜め息をつく。
なんでこんな所に、生まれたのかな……。
生まれ変わるのって、なにもこんな異世界じゃなくっても良かったじゃん? 現代日本のどこか……とか、前世と同じ世界でさ……。
そしたら、こんなに卑屈になることもなかったんじゃないかと思う。
だけど俺の価値なんて、所詮そんなモノ。
最初から、取るに足らない存在だったんだって思う。
そう思うと、泣けてくるんだけどね。
でも事実だから、しょうがない。
俺っていったい、何のために生まれてきたんだろ……?
「……」
そんな、考えても仕方のないことばかりが頭の中を支配した。
「んん〜……!!」
俺は両手で顔を擦る。
あーもう! そんなの、悩んだってしょうがないじゃないか!
生まれたモンは生まれたものと、諦める他ない。
それに、生きているからには、何かしら失敗もするものだ。間違ってしまったんなら、謝ればいい。許してもらえるかは別として、出来るだけ、自分に嘘をつかなくていいような、そんな生き方をしよう。
今の人生が幸せになるように、力の限り抗うしかないじゃないか!
「そうだぞ! 弱気になるな……!」
俺はパシパシっと自分の頬を叩く。
やることは沢山ある。
まずは西の森探索。
それからメリサの生活の保証をして、そしたら──!
「要は、宵闇にさえ、辿り着きさえすればいい! そこでやり直したら、また戻って来ることだって出来るんだから……!」
俺は拳を握る。
宵闇は、日本に似ている。
似ている……と言うか、そのものと言ってもいい。
違うのは王政だと言うところと、魔物がはこびってて、寒い土地……と言うだけだ。
…………まぁ、その違いが、なんともシビアなんだけど、ヴァルキルア帝国よりも、俺に合っているような気がする。
従兄弟伯父である国王は、俺に良くしてくれるし、なんと言っても、みんな気さくないい人たちばかりだ。
現代日本……とまではいかなくても、それに近い生活を送ることが出来る。当然、男として生きていける。
全てが軌道に乗って、ヴァルキルア帝国の人たちの頭の中から、《フィリシア》が消えてなくなったら、また戻って来れる。
それが、いつになるかは、分からないけれど、永遠に戻って来れないワケじゃない。
だから、こんな所で、油売ってる場合じゃないんだ……!
確かに、体力の限界もあるけど。
「でも、ゆっくりなんて、してらんないんだよな……っと!」
俺は勢いをつけて、起き上がる。
が、……起き上がりはしたものの、そのままよろける。
うーん。そうだよね、疲れてることには変わりないからね……。
「……」
あーぁ。……ダメじゃん、俺。カッコ悪。もう動きたくない。
ガックリ……と頭を垂れて情けなさを噛みしめる。
あぁ、俺って、ホントだめだな……。
「ふひぃ〜……キツいよぅ……」
と、弱音を吐いた。
頑張ろうと思うけれど、でも、今の状況は最悪で、泣きたくなる……。
あれだよアレ。
自分の失敗もあるけど、ヤケになってたのも事実。
だから力の配分、間違えたんだよ……。
だってさ、西の森……なんて、しょっちゅう来るもんじゃないだろ? しかもメリサが心配で、全力疾走したもんだから、始末に負えない。やたらと疲れてしまった。
……でも、魔湖までは、あと少し。
西の森の状況さえ、この目で……見れ……ば……
キシャ──────ッ!!!
「……っ!」
顔をあげた瞬間、俺は固まった。
目の前に、ここにいるはずのないバルシクがいた。
「え、……バルシ……」
シャーッ! シャ──ッ!!
バルシクが、威嚇音をあげる!
俺に向かって威嚇している。
だってバッチリ目が合ってるもん。
ターゲットは間違いなく、この俺!
猫型の、大型魔獣バルシク。
生まれたばかりなんだろう、普通のバルシクよりもずいぶん小ぶりだ。
だけどその獰猛な牙と爪。
到底猫のものとも思えないその鋭さに、俺はゴクリと生唾を飲む。
ハッキリ言って可愛くない!
俺の腰くらいあると思われるほどの腕を振り上げ、ヨダレを振り撒きながらバルシクが威嚇する!
「!」
こんなにも無謀な状況で、出会ったのは初めてだった。
俺は生きた心地がしない。
「……っ、」
バルシクと比べれば、猛獣と言われるあの虎や豹ですら、可愛く見える。
こんなのに襲われて、生きて帰れるわけがない!
俺は一瞬、命を諦める。
どう足掻いても、勝てるわけがない……。
バルシクが勢いよく、俺に向かって、その爪を振り下ろした……!
危……っ!
シュン──!
「……っ、」
紙一重でどうにか交わしたけど、バルシクの爪が掠り、腕に傷を負ってしまった。
やば。
俺の血の匂いで、バルシクはさらに興奮する。
グロロロロォォー!!
「くそっ……」
悪態をつくが、どうしようもない。
幼獣だとしても、天災級と言われるバルシク。俺に敵う相手じゃない。
そもそも俺は、《そうじゃないかな》とは思っていた。
西の森から、大量のカピアが逃げて来たこと。
それからヴァルキルア帝国の水が涸れたこと。
……バルシクの弱点は《水》。
水を掛けられると、極度に体力を失う、変わった体質をしている。
だからバルシクは、生まれるとすぐに、水と言う水を自分の魔法で消し去る。
魔湖から生まれる……と言う矛盾を抱えるバルシク。
何故、苦手なのに、湖から生まれるのかは分かっていないんだけど、バルシクは生まれると、自分の生み出してくれた魔湖ですら魔力で消してしまう。
だからバルシクが生まれる時に、別の魔物は生まれない。
元々存在していた魔獣も、バルシクの餌になるから、その数を減らす。
その状況は、すぐに現れるから、宵闇国の民はその現象を基準として、バルシクの発生を察知する。捜索隊が結成され、バルシク発生となれば、今度は討伐隊が組まれる。
だから、俺は思ってたんだ。もしかしたらって。
「……」
だけどこのヴァルキルア帝国では、バルシクは発生しなかった。
それなのに、なんで!?
グロロロロォォー!!
「!」
バルシクが再び腕を振り上げる。
俺は息を飲んだ。
無理だ。
逃げることなんて、もう出来ない。
酷く疲れた上に、手傷を負った。
その上この威嚇……。
俺はすっかり戦意喪失してしまって、諦めの境地にいた。
もう、……もう無理だ。
俺はここで死ぬんだ。
短い命だったけど、俺ってそうゆう運命だったんだよ。前世といい、今世といい。
……もう、いいんだ。
じっとしていた方が、楽に逝けるかも知れない。
今度もまた、転生するだろうか?
また生まれ変わるなら、どこがいいかな?
出来れば、もう──。
俺は目をつぶった。
その瞬間、俺は頬に鋭い風を感じた。




