ラディリアス
正直なところ、フィアは可愛い。
すごく可愛い。
小さくて儚くて、それでいて穏やかで。悲しんでいるところはあまり見た事がない。
幼い頃から政治の表舞台に立たされて、人の腹黒さを嫌という程見て来た私を、いつも励ましてくれた。
いや、フィア自身はそんなつもりはないだろう。けれど私は、フィアを見ているだけで心が癒され、穏やかになる。
私の地位のおこぼれにあずかろうと、おべっかを使う者もいるが、フィア……いや、フィアだけではない。このゾフィアルノ侯爵家一族は、けして媚びへつらうような真似などしなかった。
まぁ、それもそうだろう。
ここからは随分と離れた海の向こうの、宵闇国。
一年中氷に閉ざされたその国は、ほとんど日が差さないと言う小国だが、不思議とその国は豊かで、その事実は、どの国も知るところだ。
小国で豊か……と言うと、すぐに手に入れようとする国が現れそうなものなのだが、どこの国も、この宵闇国には手を出そうとはしない。……いや、出せない。見えない力で守られていて、手を出せば、出した国全体に災いが降りかかると信じられている。
果たしてそれは、……本当、なのだろうか?
そしてその不思議な国は、フィアの祖母の郷でもある。
今は亡きフィアの祖母は、その国の第八王女。
どういう経緯かは知らないが、閉鎖的であるはずのこの宵闇国から嫁いで来た。
その姫は色白で、黒い髪と黒い瞳を持つかなりの美女で、当時その姿を見たい! という者たちでゾフィアルノ家の周りは一時期騒然となったらしい。
が、私の記憶の中でのフィアのお祖母さまは、白髪の灰色の目をしたどこにでもいるような、優しい感じの老婆だった。
もう随分前に亡くなってしまわれたが、ゾフィアルノ家とその宵闇国との交流は未だに続いているのだという。
人の情を何より大切にするゾフィアルノ家ならではだと、父が感心していた。
そのためだろうか? ゾフィアルノ家は皇家から睨まれても、なんとも思っていない節がある。怒りを買ったとして、移り住む土地も財力もふんだんに持ち合わせているのだから、痛くも痒くもないのかも知れない。
フィアの父は絶対に、皇室に媚びるようなことはしない。
ほかの貴族たちが言いにくい事柄であっても、父上に言上する事が出来る為に、同じ派閥の者たちからは頼りにされているようだ。
そしてそれはフィアの父だけでなく、その息子のフィデルに至ってもその考えは変わらない。特に私に対してだけは冷酷無比で、なかなかの辛辣さときている。
フィアとの婚約が決まってからは、それはよりいっそう酷くなった。
……それでも、本心を言ってくれるその事が、私には有難い。
おべっかばかり使う臣下には、ほとほと愛想が尽きた。
それどころか嫌悪感すら感じる。
けれどフィデルはそのような事がない。
ダメなものはダメ。嫌なものはイヤだと、素直に言ってくれる。だから傍にいると心が安らぐ。だからこそ、宰相の位置付けに……と私は父に要望を出した。
父もまた、その事に納得してくれている。
けれど時として、フィデルのその素直さは、私の鼻をついた。
ムカつかない……という訳ではないのだ……。
まぁ、兄はともかくとして、フィアのいつもにこにことした朗らかさと、小さいのに包み込むようなその優しさのおかげで、私は守られているような、そんな錯覚をいつも起こす。
守ってあげたくて、この胸の中にずっと閉じ込めていたくて、私は時々どうしようもなくなる。
そんな事が出来れば、どんなに良いだろう……?
フィアは、あのフィデルの双子の妹で、皆一様に『そっくりだ』と言うが、私にはそうは思えない。二人はちっとも似てなんかいない。
涼しい面影の、どちらかと言うと女性的なフィデルだから、双子であるフィリシアにも似通うところは確かにある。
が、侯爵家の跡取りとして、日がな一日剣術や体術、魔術を鍛錬しているだけあって、フィデルはやはりどことなく武骨で、柔らかいイメージのフィアとは、やはり似ても似つかない。
そもそも中身が全く違って、奴は冷酷だ。
この前魔物の森と言われる、西の森へ赴いた時だって、私へ踊りかかって来た……と言う理由だけで、ちっぽけなただの猿を顔色ひとつ変えずに叩き斬った。
魔物ですらない、ただの小猿だ。
猿一匹など、私一人で対応出来る。殺すまでもない。追い払えば済む話だ。
いやむしろ、魔力で防護している私に、傷をつけることなど絶対に不可能なのだ。それは、誰もが一目見て分かるはずのものだったのに、アイツは斬った。
なんの感情もない、死んだ魚のような目で、シュン……と一振りで。
余りにも素早く、見事な切れ味だったからか、一瞬何が起こったか分からなかった。
猿からの返り血すらなかった。
パタリと倒れたその地面にのみ、異様なほどの鮮血を撒き散らした。
『なにもそこまでする必要はないだろ……?』
と私が非難すれば、
『ご自分の立場を、わきまえてください!』
と逆に怒られた。
立場? 自分の立場? 皇太子としての? そんなことなど、私は痛いほどに知っている……!
幼い頃から、皇帝陛下の子どもは私一人。
その次席は父の弟である、ネル皇弟陛下。ネル=フレデリック=ド=プラーリス。
正当な王位継承者とは違い、若干名前が変わる。
《皇弟陛下》とは名ばかりで、私が皇太子として任命されたその日から、臣籍降下し、《公爵》の身分となった。
この国では、皇帝となり得ない皇族は全て《公爵》という地位になり、皇帝を補佐する立場となる。住む場所も変わる。帝都から遠く離れた隣国との国境。そこで、近隣諸国に睨みを効かせる役回りとなる。
公爵家は皇帝の血筋……と言うこともあり、血が近い。
よって、たとえ公爵家に令嬢が産まれたとしても、皇帝となる者の婚約者にはなれない。婚約者になれるのは、侯爵家以下の貴族のみだ。
その地位は、あくまで分家という位置づけのみを保っており、体良くその力を削ぐ形となっている。……そういう仕組みだ。
……しかし叔父上は、それを理解していない。
いかに臣籍降下した……と言えども、《現皇帝の弟陛下》としての事実は消えることはない。
子どものいない私が死にさえすれば、叔父上に帝位が転がってくる可能性は、まだあるのだ。
それゆえ叔父上は、『まだ完全な公爵ではない』……と、その機会が訪れる日を心待ちにしている。
いやむしろ、先に生まれた自分こそが、皇太子に相応しいとさえ思っている。
「……」
傲慢なその態度は、幼い頃からだと父上がおっしゃっていた。
父と十歳年の離れたこの叔父上は、いわゆる妾腹である。
我がプラテリス家では呪いでも掛かっているのか、子が出来にくい。
フィデルが言うには、強い魔力を、持つ者同士は反発しあって、遺伝子レベルで相手を攻撃するのだろう……との事だった。
フィデルの家でもまた、子が生まれにくい家系であったが、運良く双子に恵まれた。兄妹がいるなど、なんて羨ましいんだろう。
けれどそれだけだ。フィデルには妹がいるだけで、他の兄弟姉妹は存在しない。
言われてみれば、他家の貴族たちも似たようなものだ。
本来なら、父上も側室をもうけることが、普通だったのかも知れないが、そうはなさらなかった。
だから現在、皇帝陛下の子どもは私一人。
私が継がなければ、父上の義弟であるネル殿下が、次期皇帝となる。
──そんなことをさせてはならん!
父上は、私が幼い頃よりずっとそう言っておられた。
何より叔父上は、無類のギャンブル好き。浪費家なのだ。皇帝になれば、国が傾くのが嫌でも分かる。
……しかし、そんな叔父上にも支援者が存在する。
当然それは、叔父上のギャンブル好きのお陰で富を成した、成金貴族たち。
その成金貴族たちの中には、他国と繋がりの深い輩までいるそうだから、明らかに叔父上は騙されているのに違いない。
それを父上や母上は、早くから見越していて、手を打たれていた。
……当然、皇太子としての私の躾も厳しいものとなる。
「はぁ……」
私は溜め息をつきながら、テーブルに置かれたグラスに手を触れた。
真っ赤に染まるその液体は、殺伐としたこの皇家の内情を表しているかのように見える。
今日は私の誕生日だ。
私がこの世に生を受けたこの日、多くの者が喜んだかもしれないが、私と母上にとってみれば、不幸の始まりだとしか言いようがない。母は日に日にやつれているようにも思う。
私の婚期が近づき始め、不安でいっぱいなのだろう。
「……」
私は目の前に置かれた、数々の食事を見回す。
目の前に出された物全て、安全なものなのかどうかを確かめ、触れ、そして食す。私は皇帝の一人息子として育てられ、産まれたその日から命を狙われた。全ての事柄において、油断することは《死》に直結する。
今もそうだ。
「……はぁ」
私は溜め息をつきつつグラスに手を触れながら、若干の魔力を通す。
ほんのり銀色に光る粒子がグラスの中を飛び回り、しばらくすると静かに浮き上がる。グラスの外へと浮上したその光は、しばらくすると金の光る粒に変化をとげ、飲み物が安全な事を知らせる。
……いや。
そもそも私の魔力が《銀色》に輝くことはない。
微かではあっても、銀色になったと言うことは、この飲み物には毒が含まれていた事になる。
けれど既に中和されている。
《金色》に輝いた時点で、毒は消えてなくなっているのだ。
「……」
もう、手馴れたものだ。
毒薬など、私には効かない。
毒見すら不要だ。むしろ余計だ。私の魔力ほど優秀な毒見は存在しない。そして、騒ぐことでもない。毒を盛られることなど、日常茶飯事だ。
コクリ……と、私はその赤い液体を飲む。
葡萄の爽やかな酸味と独特な渋み、それから芳醇な果物の香りが口に拡がる。
「……」
分かって……るんだ。危険だってこと。
──コトリ……。
私は静かにグラスを置く。
いくら好きでも……可愛いと思っていても、この国で一番危険なのは、私の隣だ。傍に置くことなんて出来ない。
「……」
私はフィリシアを見る。
しかしフィアは……全く見えない。兄であるフィデルの陰に隠れているからだ。
くそっ、あのフィデルのデカい図体ときたら……っ!
見えるといえばほんの少しだけ、フィアのドレスのスカートの端が見えるだけだ。
私は歯噛みする。今日を過ぎれば、もう二度とフィアに会えなくなるかも知れない。そう思うと、少しでもこの目に記憶しておきたかった。
……けれど、あのフィデルが傍にいるのなら、安全ではある。あれでも一応は、騎士の資格を持っている。この国の騎士の資格を有するものは、多くはない。
簡単に騎士になれるものなのであれば、誰も精進などしないだろう……という考えから、その試験はとりわけ厳しい。どんなに頑張っても三十代で手に入れる者が大半である中、フィデルは十代で騎士となった。
……どういう身体能力だと、呆れてものも言えない。
冷酷無慈悲。それに加え、幼い頃よりフィアを守ってきたその実績が、十代での騎士資格獲得へ繋がったのだと、誰もが噂していた。
実際、フィデルの右に出る者は、この国にいない。
ただの猿ですら、その存在を瞬時に察知し、返り血も流さずに斬り伏せられる。そんな凄腕の持ち主。
そのフィデルが傍にいて、フィアが安全でないわけがない。
……。
認めたくはないが、それは事実だ。私は心なしかムッとする。
……仕方がない。
私には、フィアを幸せに出来ない理由が、もう一つある。
それは決定的な欠点で、どう足掻いても消し去ることの出来ない汚点。
その点があるから、フィアと結ばれたとしても、きっと彼女を不幸にさせるに決まっている。
「はぁ……」
私は再び溜め息をつく。
どちらにせよ、あの叔父上をどうにかせねば、フィアが安心して暮らせる国が作れない。
(どうにかしなければ……)
そんな風に思いながら、フィデルの後ろに隠れて、全く見えないフィアを私はぼんやりと見ていた。
「!」
すると、なんの奇跡なのか、フィアがこっちを覗いた……!
くりくりの大きな瞳を少し細め、用心深げにこちらを見る。
エメラルドの瞳に長い睫毛が少し掛かり、なんとも言えない愛くるしい表情をする……!
うわ……、フィア。フィアだ……。
先程は目が合っただけで、フィデルの後ろに隠れてしまった。
あまり見ると、また逃げてしまうだろうか?
……だが、私は目が離せない。
叶うことなら、ずっと見ていたい。
もしかしたら、もう、見る事など叶わなくなるかも知れない。
「……」
そう思うと、私の心がズキリと痛む。
……何故なら今日、ここで、……彼女との婚約を、解除しようと思うから……。
『婚約破棄……ですの?』
彼女はそう言った。
叔父上のことやその他諸々の事情が私にはあったから、私はフィリシアにそう切り出した。
……いや、だから、誰が『破棄』と言った?
私は『婚約していることが不安なんだ』……と相談したんだぞ? ちゃんと聞いていたのか?
フィアの命を狙う者が出てくるかも知れないから、どうしたらいいか相談してるんだぞ?
……それなのに、フィアは喜んだ。
『わたくしも全力でご協力致しますわ……!』
「……」
目の前が、真っ暗になった。
いや、だから、婚約破棄じゃない。どうするのか話し合いをしに来たんだ。安全に、私の傍にいてもらう為に……。
けれど言えなかった。
こんなにも、私はフィアのことを想っているのに、フィアは私の事などなんとも想っていない……それが、嫌と言うほどに分かった。
婚約前もそうだ。
何も私は、全くアプローチしなかったわけではない。
私が『心の底から愛する人と、一緒になるつもりなのだよ』……と、フィアのその手をとれば、『それは素晴らしいことですね! ラディリアスさまの良き人が現れるよう、わたくしも願っておりますわ』……と返された。
どうすればいいのかと、頭を抱えていたところに、父上から婚約の命令が降りてきた。相手はどこの誰だ? と思ったが、フィアを吹っ切られるのなら誰でもいい! と半ばヤケになった。
もうどうにでもなれ……! と思って相手に会ってみれば、真っ青な顔をしたフィアが目の前にいた……。
哀れな程に震えるフィア……。私は言葉をなくす。
それ程までに私は、嫌われているのだろうか?
けれど私は嬉しくて、一年も彼女の婚約者として君臨してしまった。
……けれど、触れられなかった。
婚約者なら、キスぐらい許されたはずだ。
だが、普段出来ていた頭を撫でるとか、手を繋ぐとか、肩を叩いて呼びかけるとか、……そんな気安い間柄だったのに、意識してしまって、指一本触れられなくなった。触れられなくなっただけでなく、話すこともままならない。
これ以上嫌われたくなかったし、婚約を破棄してくれと言われる隙を作りたくなかった。
私の前で小さく震えるフィアが、愛しくて、怖がらせたくなくて、触れられなかった。
周りからは、強制的に決められた婚約者と接しているように見えたかも知れない。けれどそれは好都合で、好きだと言うことが周りにバレたら、もしかしたらフィアは命を狙われるかも知れない……とも思った。
今、目の前にいるフィアが、明日には冷たくなっていたらどうする?
「……っ、」
私には、それだけは耐えられない。
例え、他の男の所へと嫁いだとしても、自分のせいで命を落とす姿を見るよりかはましだ。そう思った。
フィアがこちらを見ている。
こんなにも長い間見つめ合うのは、婚約前以来だ。私は嬉しくなって、出来るだけ優しく微笑んだ。
「!?」
途端フィアはビクッと肩を震わせ、フィデルにしがみつきその陰に隠れた。
「……フィア」
私は思わずその名を呼ぶ。
けれどフィアは遠くにいて、その声は届かない。
私はぐっと我慢して、指を噛む。
そんな中、フィデルがフィアの方へ腰を曲げた。
「……っ」
そんなハズはないが、こちらから見ると、まるでキスをしているかのように見えた……!
私はカッとなって、どうしようもなくなり思わず立ち上がる。
ザワっと辺りがどよめき、静かになった。
……やばい。みんながこちらを向く。
「……」
私は唾を飲み込んだ。
違う。そうじゃない。……確かに今日は重大な発表をするが、まだ心の準備など出来ていない。
けれど私は皇太子だ。動揺も隙も見せるわけにはいかない。
はぁ……と大きく息を吐くと、私は口上を述べ、婚約解消の決定を告げた。
意外にも、不安げな表情のフィアを見て、私は少し心が穏やかになる。
少しは……ほんの少しだけは、フィアも私のことを想っていてくれているかも知れない。
そう……思った。
× × × つづく× × ×