婚約解消の理由
しん……と広間に静寂が拡がる。
「……父上」
ラディリアスさまは唸るように口を開く。
「わ、私はまだ何の功績も実績もありません。……ですから、まだ婚約者など早いと思ったまでです……」
苦し紛れの言い訳に、ラディリアスさまは顔を伏せられる。
射抜くような眼差しを向ける皇帝陛下に、目線を合わせられないようでした。
そんなラディリアスさまの言葉に、お兄さまとわたくしは、眉根を寄せる。
それもそのはず。その言い方では、ラディリアスさまが何らかの功績をあげれば、また婚約が復活してしまう恐れがありますもの。それはわたくし達にとって、望む結果ではありません。
「ふむ。ならば功績をあげてみるか?」
案の定陛下は、くくくと笑いながら提案する。
ラディリアスさまはその言葉に、グッと言葉を呑み込み、次の言葉を探しあぐねているご様子でした。
……おそらく、ラディリアスさまにも、何か思うところがあるのかも知れません。その何かは、わたくし達では計り知れないものではあるのですが、ひとまずその秘密は、わたくし達が用意した淫欲に耽るわたくしを晒さずに、ことを進める気なのでありましょう。
けれど、皇帝陛下がその事をご存知ないとは到底思われないのです。
恐らくは、この帝国の貴族という貴族が知っている、噂だと思いますもの。
わたくし達は、隠れてその逢瀬を重ねたわけではありません。当然誰かの目にとまるように仕向けた逢瀬なのですから……!
「……おそれながら、皇帝陛下」
先程のガジール男爵が深々と頭を下げ、言葉を掛ける。
「おお、何だ? 男爵。何か知っておるのか……?」
陛下は面白そうにガジール男爵へと目を向ける。
「ええ。……と、言いましても噂を、耳にしただけですので、私が目にしたわけではない、信憑性の薄い事柄なのですが……とまず初めに言いおいておきます」
「……」
一重に、この発言で何か不測な事態が起こったとしても、自分は聞いただけのこと……をあくまで貫き通せるように、ガジール男爵は言葉を繋げました。
それはとても狡猾で、自分より遥か上の身分であるわたくし達を追い詰める立場の人間が、良く口にする言葉でもありました。この様な曖昧な物言いをする政治の場で、お兄さまは常日頃過ごしているのだと、わたくしは少し
悔しくも思えました。
「よい。……その噂とやらは……?」
陛下は嬉しそうに目を細める。まるで罠にかかった獲物でも見るような目で、ガジール男爵を見下ろされる。
「は。ここにおられるフィリシアさまが、他の男性と、その……逢瀬を重ねていた、とそんな話で──」
「ガジール男爵! それ以上口にすれば、不敬罪として裁くぞ……!」
ガジール男爵の言葉を押しのけるようにして、ラディリアスさまが唸るように威嚇されました。そして、守るようにわたくしをその腕に掻き抱く。
わたくしは驚いて、それに抗う。
もう既にわたくしは、ラディリアスさまの婚約者ではありません。いつまでも守られ、側にいるのは不自然で、居心地の悪いものでしたから、助けを求めるようにお兄さまへと腕を伸ばしたのです。
「……っ、」
けれどそれもラディリアスさまに掴まれ、阻まれる。
ギリっと歯を食いしばる音が、ラディリアスさまから聞こえる。
え? なに? 何が起こっているの……??
わけが分からず、この場にいる最高地位の皇帝陛下へ、戸惑いの視線を無意識に送りました。
このような公の場で、お兄さまが出れるわけもなく、助けてくれそうな方は、もう陛下以外には考えられなかったのです……。
陛下は苦笑したように、わたくしのその視線を受け止め、小さく頷く。
…………。
分かって、……頂けたのでしょうか……?
そもそもわたくしは、不義の噂がまとわりつく女。陛下にとってはむしろ、排除したい存在のはず……。
思わず助けを求めはしたけれど、陛下の目に、今のわたくしはどのように映っているのかしら……?
「……」
それを想うと少し恐ろしく、わたくしは息を呑む。
もしかするとわたくしは、一番助けを求めてはいけない方へ、視線を送ってしまったのではないかしら? と、青くなる。
……けれど、もう遅い……。
皇帝陛下は深く溜め息をつくと、ラディリアスさまへと向き直る。
「ラディリアス。不敬はお前であろう? ガジール男爵に発言を許したのはこの私。そして男爵もまた、前置きをしていただろう? 《これは聞き知っただけの話》なのだと。それなのにお前ときたら、最後まで話を聞かぬとは……」
呆れたように息を吐くと、ニヤリとお笑いになる。
「ふむ。しかしお前の言い分も、分からないわけではない。……そう、だな。ふふ……。ならば調べればよかろう?」
「「「調べる……?」」」
皇帝の言葉に、ラディリアスさまとそれにお兄さま、それからわたくしの声が重なる。
陛下はその反応に、満足気に頷かれる。
「そう。ことは簡単ではないか。……我が宮廷の医療団にフィリシア嬢を調べさせればいいのだろう? 事実はすぐに分かる。その噂が真実であるか、そうでないのかが……」
言われてわたくしは頭を働かせる。
それは、……それは、そういう事なのでしょう……。
わたくしは真っ青になって首を振る。
否定の言葉を出そうとするけれど、ショックで言葉が出てこないのです……!
調べられるのなんて、絶対にイヤ……! 例え相手が医師だとしても、体をまさぐられるのなんて……。
「……」
事情をいち早く理解したお兄さまは、膝を折り、陛下へサッと頭を下げた。
「陛下」
凛としたその声に、皇帝陛下は嬉しそうに返事をする。
「なんだ? フィデル。申してみよ」
「は。それでは陛下、申し上げます」
そう言って、お兄さまは頭をお上げになる。
軽く溜め息をついて、静かに話し出しました。
「……我が妹に触れることは、たとえ医師団だとしても兄として容認する訳には参りません。それが、婚前のお改めであれば、致し方もございませんが、噂の正否を確かめるだけならば、お断り致します」
その言葉に、ほかの貴族たちから溜め息が盛れる。
見事なかわし方に、陛下は悪戯っぽくお笑いになると、先を続ける。
「そうであるならば、疑いは晴れぬぞ……?」
陛下の笑みが消える。
「……。それも致し方のないこと。妹を辱めるくらいであれば、それくらいの辛酸を舐める覚悟でございます」
「ふむ。そうなると、婚約の儀も難しくなる……」
考え込むような陛下の仕草に、お兄さまはフッと微笑む。
「もとより、そのような噂が立ったのはこちらの不手際。その儀はこちらからもご辞退申し上げたく存じます……」
残念そうなその声色の陰で、頭を下げるお兄さまの表情は微笑んでおられました。
……背の低いわたくしだけが気づく……そんな一瞬の笑み。
「……どうしてもか?」
陛下は眉をしかめ鼻で息を吐く。
「どうしてもです……!」
ギリッとお兄さまは陛下を睨む。
不敬だと言われ、斬られはしまいかと、わたくしは心がおさまらない。
とても不安で、お兄さまの傍へ行こうとするのだけれど、ラディリアスさまが離してくれない。お兄さまが言葉を重ねる度に、わたくしを掴むその手が強くなる。
《婚約》の話に移ったあたりから、陛下の顔色が少しかげった事に、わたくしは気づいたけれど、だからどうなるというのでしょう?
わたくしには何もできることなどなく、ただ強くなっていくラディリアスさまの手の力に耐えながら、わたくしは微かに呻くしかなかった。
離して……! 離して欲しい。
「お兄さま……!」
その声に、お兄さまがわたくし達を仰ぎ見る。
ラディリアスさまに掴まれ、もがくわたくしを見て、お兄さまの顔色が変わる。ギリっとラディリアスさまを睨み、口を開かれた。
「それに……無礼を承知で言わせて頂きますが……」
言いながらお兄さまは立ち上がり、わたくしの方へと歩を進める。
「もう婚約者でないのであれば、離せ! ラディリアス……!」
怒りを露にしたお兄さまのその言葉は、とても静かで低く、傍にいるわたくし達にだけ聞こえる声でした。なので、《不敬だ!》などと誰も言わない。言うことが出来ない。誰もがただただ固唾を飲む。
「フィデル……」
縋るようなその声を無視するように、お兄さまはわたくしを救い出すと、陛下へ視線を戻す。
「……私たちは、ひとまず屋敷にて謹慎致します。この度の沙汰は追ってお知らせ下さい……」
「うむ。分かった。下がるがよい」
「ありがとうございます……」
お兄さまは退出の礼をし、そのままわたくしたちは、王城を後にしました。
引き摺られるように連れ戻されながら、わたくしは、お兄さまへ言葉を掛ける。
「あ、あの。……お兄さま……?」
どう、繕えればいいのか分からない。
凄く怒っているだろうお兄さまを、私は不安げに見上げる。
「フィリシア。上出来だ。これでいい……!」
「お兄さま……?」
けれど意外にもお兄さまは上機嫌で、薄く微笑んでおられたのでした。
× × × つづく× × ×