氷の城
だったら、もういっそ──。
俺は、そんな事を思った。
もう何もかもが、どうでもよかった。
だから俺は、家を出ようと決心したんだ。
自分が自分らしくいられないのなら、ここにいても仕方がない。遠く離れた異国の地で、ひとり静かに生きていこう。そう思った。
俺は自室へ戻ろうと、立ち上がる。
宵闇国の服の保管場所は、知っている。それに着替えて、それから──。
「お、お待ちくださいぃぃ……!」
「!」
いきなりメリサが、俺の足に縋り付いて来た。
「ニ、メリサ……!?」
俺は転けそうになって、慌てて踏ん張る。
んだよ、いきなり……。
俺は舌打ちして、メリサを見た。
メリサは必死になって、俺のドレスの裾に顔を押し付けている。
いやいや、ただでさえ歩きにくいドレスなんだぞ! 縋りつかれたら、下手すると転けるんだぞ? 危険なんだぞ!!
俺はムッとする。
……やめろって、歩けないだろ……?
「待って、待って下さい……」
顔を伏せ、泣き出しそうな震える声で、メリサは訴える。
「……」
俺は大袈裟に溜め息をつき、思わず足を止めた。
泣き出しそうなメリサを見ると、心が折れそうになる。
「……」
俺はなんと言って、返そうかと悩む。
せっかく振り切ろうと思ったんだ。何もかも……。
それなのに、心が苦しくなる。
振り切ってしまえば、簡単なハズだった。
振り切ってしまえば、そしたら俺は、自由になれるんだぞ……?
そう自分に、言い聞かせた。
けど……だけど……。
メリサは俺にとって、母親と同等……いや、今世での実母とは、ほとんど接点がない。産まれてこの方、ずっと傍にいてくれて、世話をしてくれたのは、乳母であるメリサだった。
勉強だって教えてくれた。
メリサは優秀だったから、普通の令嬢が知らない事も知っていて、色々と教えてくれた。
作法も剣技も、基本は全て、このメリサが教えてくれたんだ。
だから、ここまで成長する事が出来た。
……それは、有難く思っている。
母親よりも、母親であるメリサ……。
そして、教師でもあるメリサ。
……だからそんなメリサを、俺はぞんざいに扱うことが出来ない……。
「メリサ……」
俺は……。
いえ、……わたくしは、そう呟いて、メリサの前に座りました。
わたくしの足を掴んでいたメリサが、その事に気づいて、手を離す。
「……」
けれどわたくしは、……本当は、とても悔しいのです。
泣きたくなるほど、悔しい……。
そして、とても……悲しい。
わたくしは、お人形ではないのですよ?
これでも、心ある人なのですから……!
「メリサ」
わたくしは、目の前のメリサをじっと見つめ、諭すように口を開きました。
「メリサ……、わたくしは今、動かなくてはいけないと思うの。それには、今のこの国の状況が知りたかった……。ねぇメリサ、よく考えて? 川の水が枯れたのですよ? ゾフィアルノ侯爵家の敷地内の川だけではなくて、帝国内の川が枯れたのです。……メリサには、その意味が分かって……?」
わたくしは、メリサに尋ねました。
メリサは、苦しげな表情をするだけで、答えてはくれません。
いいえ、おそらくは答えなど、とうに分かっているはずなのです。けれどメリサは、敢えて答えないのでしょう……。グッと唇を噛んで、黙り込んでいるのです。
わたくしは、深い溜め息をつき、先を続けました。
「水がないと、わたくしたちは生きてはいけない。けれど、わたくしはこれまで、大量の水をたくわえてきましたでしょ? ……もちろん、たくわえるつもりではなくて、魔術の練習でしたけれど……」
わたくしは呟く。
そう。
実は、このゾフィアルノ侯爵家には、大量の水がたくわえられている。何故ならこの俺が、面白半分に作ったから。
だって魔法だよ? 前世では無縁だった魔法!
それが当たり前のように存在するこの世界に転生して、俺が使わないわけがないじゃないか……! しかもこの異世界では、位が高いほど魔力も高い。
侯爵家同士の婚姻で生まれた俺の魔力は、ほとんど底がなくて、面白いほど俺の考えていた通りに、力を発揮することが出来た。
最初は、自分の得意な《水魔法》を使って、水のブロックを作っていた。無詠唱で、ポンポンと簡単に出来るものだから、どこまで作れるのか、やってみたくなった。
だけど永遠、水ブロックばかり作っていたら、当然飽きてしまう。
飽きたついでに、ふと気になった。
──フィデルが炎を出せるなら、双子の俺も、出来るかも?
って。
別に、炎が出したかった訳じゃない。
水の温度を変える事が出来るのか……って思ったんだ。
だって、便利だよね? 水を《お湯》に出来たら!
そんな事を考えちゃったものだから、ただでさえ、多くの水ブロックを作り上げていたと言うのに、その上さらに、必要以上の水ブロックのストックを抱え込んでしまった。
ホント、何やってんだろね、俺って……。
結果、分かったことは──。
『俺はフィデルのように、分子を動かせない』
…………。
本当に、本気で落ち込んだよ?
だってお湯……出せないんだもん。お湯、便利なのに。
だから、当然の事ながら、俺は火を操ることも出来ないわけだ。
だけど俺は逆に、出来ることも知ることができた。
俺に、出来る事。
それは──。
『分子を動かなくする事』
それは、どういうことなのかと言うと、俺は物を凍らせる事が出来る……と言うことだ。
だから魔術の練習のために……とか言いつつ、たくさんの水ブロックを氷の塊に変えていった。
氷にしておけば、水のままよりも、鮮度が保てる。そんな単純な考えからだった。
けれど、問題が発生する……。
作りすぎてしまって、その……なんと言うか、正直……処分に、困ってしまったんだ……。
氷の塊は、気づけば俺の手に負えるような量ではなくなっていて、《触るな危険!》な状況になっていた。
仕方がないから、屋敷の片隅に積み上げたままにしていたんだけど、いつしか誰かがソレを氷の城などと呼び始めた。
呼び名が決まった当初、ソレは、そんな大層な物じゃなかった。
……だって、ただ放置してただけだし。
だけど俺の父親が、どこからか屈強な石工たちを呼んで、ソレを城の形に積み上げさせた。
……まぁ、ゴロゴロその辺に転がしてたから、目障りだったのかも知れない。
もちろん、処分しようとも試みたんだよ? ずっと放置しているのもあんまりかなって、思っていたから。
だけどフィデルに調べてもらってみたら、この大量の氷を水に戻して流してしまうと、帝都が全て、水底に沈んでしまう恐れがある……という事が判明した。……要は、水害……?
言われて俺は笑った。
いや、そんな事、あるわけないじゃん?
だって、たかが城レベルだよ?
「……」
だけど、フィデルが言った。
『普通、氷にすれば、体積が増えるんだけど、フィアの魔法、何故だか凝縮されてるみたいなんだ』
凝縮……?
どうやら、水に戻すと、相当な量になってしまうらしい。
……。
だよね? そうだよね? いくつか水に戻してみたけど、なんかおかしかったもの。水が溢れて止まらないって焦ったから。
だけどそれが、まさかの凝縮とか……。
……もう、どうしようもないじゃん……?
だから俺は、この水を少しずつ、屋敷の生活用水に利用する事を思いついた。端から取っていけば、いつかはなくなるだろうと思った。
だって侯爵家って、広い上に、使用人たち家族も住んでいて、簡単な都市化している。
その人たち全員で、この水を消化してくれたら、どうにかなるんじゃないかって思った。
父上にもその話をすると、喜んでくれた。
その反応に、やっぱり邪魔に思ってたんだと俺は確信して、ずいぶん落ち込みもしたけれど、この策は使用人たちには好評だった。
だって水源まで、汲みに行かなくていいから。楽だよね。
……でもまあ、それが盲点で……。
俺のダメなところが、再び露見したというか、なんと言うか……。
俺は、使用人たちが喜んでくれたことに気分を良くして、《更に在庫を抱えてしまった》……なんて、口が裂けても絶対に言えない。特に家族……。
本当にどうかしてた。
……心の底から、反省している。
でも……それはまぁ、その事は、今は関係ないんだよね。
過剰ストック抱えてるとか。
そうじゃなくって、……とにかくその話は、そこら辺に置いといて、……現実問題、今この瞬間にも、川が枯れて、多分帝国の人たちは困ってるって事なんだ。
それなのに、このゾフィアルノ侯爵では、大量の水を貯蔵している所為で、そんな重大な事が起こっていた事にすら、気づけなかった。
人々が困っている時に、このゾフィアルノ侯爵家の人間は、悠々自適に生活を送っていたんだよ。
とんだ世間知らずだよね。俺たちって……。
でもその世間知らずでいられたのは、この氷の城のおかげでもあったって事だから、俺がこの帝国の水不足に、貢献でき、尚且つ余剰有り余る水の在庫を減らすことの出来るこの今の状況は、逃すことが出来ない好機なんだ……!
ここは何としても、力になるべきなのだと、俺は思う!
……それなのに、そんな俺を除け者とか、有り得ないよね?
思い出して俺は、ぶすくれる。
「氷の……城……、ですか?」
メリサが微かに、呟きました。
わたくしはその呟きに、ハッとして慌てて顔に、微笑みをたたえる。
「そう。その《氷の城》……」
氷の城──。
実際は城じゃないから、内部には入れない。
中は、ギッシリと凍った水が積み重なっている。
その量を持ってすれば恐らくは、帝都内での人々の生活を支えられるくらいは、あると思う。東京ドーム弱……くらいの大きさだけど、それくらいあれば、しばらくはどうにかなると思うんだ。
……こちらは、処分にも困ってるし、民は水が欲しい。それってウィンウィンってことだよね?
だけどいかんせん、状況が全く分からない。
どう動けばいいのかも、誰に相談すればいいのかも、さっぱり分からない。
分からないどころか、除け者状態のこの俺は、いったい何をすればいいというのか!
イライラばかりが募って、メリサに当たり散らした。
悪いとは思うよ? 思うけど、どうにかしないと、大変なことになるってのも分かる。
俺はメリサを見た。
メリサが泣こうが喚こうが、これから俺がしようとしてる事に、口出しされるのだけは嫌だった。
文句があるなら、追い出せばいい。
どうせこの後は、宵闇にでも逃げるつもりだし……。
俺は口を開く。
「氷の城を切り出せば、帝都は救えるのです。……メリサ、分かって欲しいの。わたくしは、謹慎中の身。外へは出れない。……けれど六月としてなら出れるでしょ? それに修道院にもいくつかの氷を保管させて貰っていますもの。あれをひとまず使えば……」
「なりません……! あれは、フィアさまが設置されたもの……六月さまが解放されては、誤解を生みます……!」
「……」
確かに、水と氷を操るのは、この帝都では俺しかいない。でも──。
「メリサ。六月は宵闇国の人物なのですよ? 宵闇には、氷を操る者など、腐るほどいるのですよ? ですから、『この危機に大量の水を抱えているクセに、侯爵家は何をしているのだ! 俺が責任を持つ』……なんて臭いこといいつつ、解放すれば良いだけのことなのです」
間違いではない。
宵闇国は、その凍てつく土地柄のせいなのかは知らないけれど、水や氷を操る者は多い。おそらく、俺が使えるのも、宵闇国の血が少なからずとも、流れているせいだと思っている。
「けれど、フィアさま──」
「メリサ。事は一刻を争うのです。メリサが賛同してくれなくとも、わたくしは一人でも行きます! その為に、ゾフィアルノ侯爵家から縁を切られても、文句は言いません」
「フィアさまっ!」
メリサが金切り声を上げる。
けれど俺はそっぽを向いた。
「これはもう、俺が決めたことだ。メリサには覆すことは出来ない……!」
ハッキリと言った。
「……」
メリサはしばらく考えてはいたが、深い溜め息をつくと、最終的には折れてくれた。
「……分かりました。けれど、しばらくお待ちください。六月さまが城外へ出られた後、馬が使えるように、支度をして参ります。……まさか、帝国内をその足で飛んで回ろうとか、バカな事は思ってはいらっしゃらないでしようね?」
メリサが、ギロリ……と俺を睨む。
う。バレてたのね……。
俺はそっぽを向き、冷や汗を垂らす。
目立つかも知れないけど、それが速いんだもん……。
するとメリサは、大袈裟に溜め息をついた。
「……お願いですから、出来るだけ、目立たないようにして下さいませ。……六月さまのその足で駆けた方が、馬よりも速いかも知れませんが、世間一般的に申しますと、馬より速い乗り物はございませんゆえ……!」
「わ、分かった。でも──」
「『でも』ではありません!」
キッパリとメリサは言う。
ヤバい……これは長引くお説教か……? 俺は冷や汗を掻き、そう覚悟する。
けれど、メリサは諦めたように息を吐いた。
「事は一刻を争うのでしたら、もうこれ以上は申しません。……けれどフィアさま。メリサは、フィアさまにもしもの事があれば、生きてはおられません。死して侯爵さまにお詫び申し上げる覚悟がある事だけは、心にとどめておいて頂きとうございます……」
「う……。メリサ、それって、重すぎ……」
「当然です! ではフィアさまは、先にお着替えをされていて下さい。服は出しておきますから……」
メリサは深い溜め息をつく。
さっきから溜め息ばかりだ。
それほど俺は、メリサに心配を掛けているのだろう。
そう思うと、いたたまれなくなった。
「……メリサ」
俺はメリサの顔色を伺う。
けれどメリサは、困った顔をしつつも優しく微笑み、ゆっくり立ち上がった。
「けして、無茶はしないで下さいまし……。そう、約束して下さいませ……」
そう言ってメリサは、わたくしの頬を優しく撫でてくれました。
「メリサ。……分かりました」
わたくしは軽く目をつぶり、メリサの手に、頬を寄せる。
あたたかく、優しいメリサの香り……。
「きっと、大丈夫。用心……致しますわ……」
わたくしはそう、静かに呟いたのでした。
フィアの乳母は『メリサ』でした。
書き換えました。R4.1.30




