皇帝ラサロ
キラキラと細かい粒子になり、光り消えてゆく扉の向こうで、ラディリアスさまは、そのサラサラの黒い髪を掻きあげて、青い顔をしながら大きく溜め息をつく。
そしてそのままバッと後ろを振り返り、憎々しげに言葉を漏らされました……。
「ち、父上……っ!」
え? 父上……?
わたくしはハッとして、消えた扉の奥、そしてその薄暗い廊下の奥に目を凝らしてみました。
するとコツコツコツ……と足音を響かせながら、そこに立派な髭をたくわえた皇帝陛下が現れる……!
「!?」
誰もがハッとして居住まいを正し、その場に平伏した。
ピンッと張り詰めた空気に、息が出来ない……!
な、何が起こって……賊……ではなく、皇帝ラサロ、陛下……?
わたくしは何が何やらさっぱり訳が分からず、目を見開きつつ膝をつく。
「父上、……困ります。そのような暴挙に出られるとは。みな恐れているではありませんか……っ」
非難じみたラディリアスさまの声が響いてくる。
ラディリアスさまにとっても、突然の出来事だったのでしょう。
……まぁ、それも当然と言えば、当然……。ドアを豪快に蹴破って、皇帝陛下が登場するなど、誰が想像出来るものでしょう。
……そうなると知っていさえすれば、ラディリアスさまの事ですから、お止めしたに違いありません……。
ふるふると小さく震えるラディリアスさまに向かって、陛下はさも面白そうに、クククとお笑いになると口をお開きになった。
「何を言うか。どの道お前が何とかすると思っていたからな? それにお前こそ暴挙であろう? 私は聞いていないぞ。婚約解消の話」
ギリッと、皇帝陛下はラディリアスさまを睨む。
「そ、それは……」
ラディリアスさまはたじろぎながら、目を逸らす。
どうやらこの婚約破棄のことは、お父上であられる皇帝には話を通していなかったようです……。わたくしはその事実を知り、再び不安になる。
《話を通していない》までは、なんとなく想像がつきます。
皇帝陛下が提案されたこの婚約。それを勝手に破棄しようとするのですから、多少の後ろめたさはあるのでしょう。
けれど、陛下が全く気づかなかったはずはありません。
あれほど婚約破棄の理由を作るために、わたくし達は奔走したのですもの。当然陛下のお耳にも、わたくしの醜聞は届いているはずなのです。
そのような話、たとえ噂話であったにせよ、皇族の方々にとっては汚点となる。……はずなのです。
本来なら、陛下の方から《破棄せよ》との命が下っても良かったと思うのですけれど……。
……けれどそれはなかった。
それどころか、ラサロ皇帝が何も知らなかった……?
そんな事、有り得るでしょうか……?
「お、お兄さま……これはどういう……」
不安に駆られて、わたくしはお兄さまの方を向く。
できる限り小さな声で尋ねてみたのですが、しん……と静まり返ったその場で、わたくしの声は必要以上に大きく響き渡ってしまいました。
「しっ! フィア……静かに」
お兄さまから注意され、わたくしはハッとし口を扇で覆う。
「……」
けれどこの状況……。
必死に縮こまるわたくしの努力も虚しく、陛下はわたくしの存在に気づかれ、嬉しそうに目を細めました。
う……。笑っておられる。
そのお顔、とっても怖いです……ラサロ陛下……。
「おや? フィリシア嬢もおられるのか? ……フィリシア嬢。こちらへ……」
陛下に手を差し伸べられて、わたくしは戸惑う。
「あ、あの……」
目を彷徨わせてみましたが、この国でラサロ皇帝陛下に逆らえる者など、誰一人としているわけがないのです。
お兄さまですら、息をつめ、行くしかない……と小さく呟き、わたくしの手を取り立たせました。
う……。みなさまの視線が痛い……。
わたくしはお兄さまと離れ。少しよろけつつ青くなりながら前へと出る。
細かく震えていると、それに気づいたラディリアスさまが優しく手を添えてくださる……。わたくしは思わずもたれ掛かるように、その手を取る。
……今ここで倒れる事が出来たら、どんなにいいか。
「フィア……済まない。辛い思いをさせてしまった……」
ラディリアスさまが、そっと耳打ちする。
久しぶりの会話が、こんな事になろうとは……。
「殿下……っ」
泣こうと思ったわけではないのですけれど、自分の意思に反して、涙が溢れてしまいました。
極度の緊張で、ガクガクと体が震えて、どうしようもないのです。
「フィア……!?」
心配げな殿下の声に、わたくしはハッとして、慌ててその手を振り払う。
「い、いいえ、大丈夫です!」
気丈にそう答えて、後ろを向いて目を押さえる。けれどそんな事で涙は止まらない。余計、嗚咽となって溢れてくるのです。
ラディリアスさまの手が、わたくしの後ろから伸びてくる。
「大丈夫じゃない。泣いている。私の方を向いて? 私がその涙を拭いてはダメなの……?」
オロオロとするその言葉に、隣に立つ陛下が冷たく声を掛ける。
「それは……ダメだろうな? 分かっているだろう? 自分でさきほど宣言したのではないのか? お前はもう、フィリシア嬢の婚約者ではないではないか……」
ふふんと鼻で笑いつつ、陛下がおっしゃる。
「……っ、」
その言葉に、ラディリアスさまの手が微かに跳ねた。
「そ、それは……」
反論しようと、口を開いてみるけれど、殿下には何も言えない。グッと言葉を呑み込まれました。
陛下は目を細め、ニヤリと笑い、たった今気づいた……とばかりにお兄さまを見る。
「おぉ。ちょうど兄君のフィデル殿もいるではないか。……こちらに来てもらって、妹君の涙を拭いてもらおうとしよう」
ラサロ皇帝陛下は嬉しそうにお笑いになり、横目でラディリアスさまを見る。
《こちらに》と言う陛下の口調が、少し厳しさを含んでいることに、わたくしは気づく。
……もしかしたら、陛下は全てご存知なのかも知れない。知っていて、あえて知らないフリをしていらっしゃる……?
「……」
わたくしは妙な違和感を覚えて、身を強ばらせる。
たとえそうだとしても、どうしてそのような事をする必要があるのでしょう……?
いくら考えても、答えは出ない。帝国を束ねる皇帝など、立場が違いすぎて。思考が読めない。
けれど体の奥底から来る、何かが警鐘を鳴らすようなその感覚に、わたくしは身震いし、自分を掻き抱く。
……なに? なにが起こっているの……?
……もしかすると、陛下はわたくしたちを大衆の面前で、断罪されるおつもりなのかしら?
そ、……そうですわよね。それだけの事を、わたくし達はしたのですから……。
けれど、それだけではないような気もするのです……。
陛下からお兄さまが呼ばれた瞬間、ラディリアスさまが憎々しげに息を呑んだのが、分かりました。
「……っ」
……ラディリアス、さま……?
その事実を不思議に思ったその瞬間、わたくしの肩を掴んでいたラディリアスさまの手に、力が入った。
「っ!」
ギリッと骨が軋むかと思うほどのその力に、わたくしは思わず呻き声を漏らす。
い、痛い……っ。
その痛みが体中を駆け巡ったけれど、この状況でそれに異を唱えるわけにもいかず、わたくしは一人、顔をしかめ耐える。
「フィア……?」
その事に気づいたお兄さまの目に、怒りの色が宿る。
キッとラディリアスさまを睨んだ。
……ダメ。
お兄さま、ここで感情的になられてはいけません……!
痛みに堪え、わたくしは薄く目を開け、お兄さまに合図を送る。
「……っ、」
わたくしの想いが伝わったのか、グッと堪えるような表情をされ、お兄さまは軽く目を伏せました。
しばらくそうした後、落ち着きを取り戻したのか、《こちらへ》とおっしゃった皇帝ラサロ陛下へ顔を向け、静かに返事をされました。
「……はい」
その声は静かだけれど、凛としていて、貴族たちからは安堵にも似た溜め息が漏れる。……このような場で、余計な争い事は、他の方々も望んではおられないのかも知れません。
笑ってはいらっしゃいますが、恐らくラサロ皇帝陛下は、とても怒っているのに違いない。
ギリギリのところで耐えていらっしゃるようですが、この怒りが爆発した時に、とばっちりを受けたくはないのでしょう。……さきほどの扉事件が、その想いを更に助長させているかのようにも思えました。
あれも、策の一つだったのでしょうか……?
お兄さまは普段から、皇族の方々にも意見をされる。
だから今日ここにいらっしゃる方々も、お兄さまがラサロ皇帝陛下へ反論するのでは……と、半ば血の気の引く思いで見ていたのに違いありません。
けれどお兄さまは、心を落ち着かせるように小さく息を吐き、ゆっくりと立ち上がり、こちらの方へと歩いて来たのです。
少し目を伏せ、必死に怒りを鎮めているようにも見えました。
お兄さま……わたくしのせいで……。
「……」
お兄さまはわたくしの側に来ると、ポケットからハンカチを出し、優しく涙を拭いてくれる。
「……お兄さま。ごめんなさい」
「なぜ、フィアが謝るの……?」
「……」
わたくしは言葉を失くす。
思っていた以上に、お兄さまはお怒りになっているようでした。
ですのでわたくしは、必死に微笑んで、今度はお礼の言葉を口にしようと前へ出ました。
けれど直ぐにラディリアス殿下の手が、わたくしの肩を自分の方へと引き寄せたのです。
「あ……」
不意の出来事で、わたくしはよろけ、不覚にもラディリアスさまの胸に収まってしまう。
「……っ、」
ありえない事だと、わたくしは焦りました。
だってラディリアスさまはもう、わたくしの婚約者ではありませんもの。このように簡単に触れ合うことなど、許されるはずはありません。
わたくしは真っ赤になって、それに抗ったのですが、ラディリアス殿下は離してくれないのです。
見上げると仮面のような微笑みをその顔にはりつけて、お兄さまへと言葉をおかけになりました。
「フィデル……済まない。フィリシアを悲しませるつもりはなかった。もう、大丈夫だから、下がってくれて構わない……」
そしてそれを見て、陛下は再びふふふと忍び笑いを漏らす。
「フィデルを呼んだのは私であろう? 何故お前が下がらせるのだ? さてはお前は、何か隠しておるのだな……? ……いや、正しくは《お前たち》が、何かを隠している……? まぁ、それはいい。ラディリアス。さて、聞かせて貰おう……婚約解消の本当の理由を……!」
「……!」
バレている──。
有無を言わせないその鋭い視線に、わたくしたちは息を呑むしかなかった。
× × × つづく× × ×