藪の中と、呑み込んだ言葉
フィデル──?
「……」
え、フィデル……。
もしかして、フィデルがやったの? フィデルが俺の髪の毛にシチューをつけた……?
え……なんで?
……いや、たとえそうだとしても、いったい何のために……?
俺とメリサとで、フィデルを仰ぎ見た。
フィデルは明らかに動揺していて、どう見ても挙動不審だった。
……フィデル……?
フィデルは一瞬だけ、こっちを振り向いた。
位置的に、俺にはフィデルの顔は見えなかったけれど、メリサとは目が合ったみたいだった。フィデルと目が合った途端、メリサの肩が微かに揺れた。
「……っ」
フィデルを見てからなのか、それとも何かに気づいたのか、こっちを振り向返ったメリサの顔は、ひどく強ばっていた。
「メリサ……?」
メリサの様子に、俺は心配になる。明らかに、さっきとは様子が違う。
俺は、眉を寄せた。
「あ、……フィア、さま」
顔を覗き込んでいた俺に気づき、メリサはハッとする。
「い、いいえ。なんでもありません……」
言って、苦笑いをその顔に貼り付ける。
「あ……。髪の事なのですが。……あの、私の気のせいだったようですわ……。きっと、私の手に、シチューがついてたのに気づかず、フィアさまに触れたのでしょう。とんだ粗相をしてしまいました。心を込めて謝罪致します。申し訳ございませんでした」
そう言って、メリサは仰々しく頭を下げた。
……は?
いや、どうした?
さっきの勢いは、どこへ行った?
メリサ……それは、絶対に違うだろ?
頭を下げられて、俺は戸惑った。どう考えても、おかしかった。
可能性的に犯人は、フィデルだ。
加えて言うなら、様子もおかしかったから……。だから間違いなく、フィデルの仕業なのだと俺は思う。
だけどメリサの表情は、さきほどとは打って変わり、ひどく強ばっていて、誰の言葉も受け付けない、頑とした気配を感じた。
きっと、俺がメリサの言ってることを否定しても、受け入れないだろう。
らしからぬメリサのその行動に、俺は少し、たじろぐ。
別に、そんな風に謝って欲しかったわけじゃない。髪が汚れようが、洗おうが、別にいいんだ。俺が本当に気にしているのは、そこじゃない。
「メリサ……。それはもう、別に……良いのだけれど……。でも……あの、メリサ? なんだか、メリサの顔色が思わしくなくって、わたくし……心配、なのですけれど……」
そう呟きつつ、わたくしはメリサの元へと行きました。
メリサは、そんなわたくしから目を逸らし、頭を振る。
何もかもが拒絶されたような、その反応に、わたくしの心は痛む……。
なぜ? メリサ。……いったい、どうしたというの……?
「い、いいえ。いいえフィアさま。私は、……私は、大丈夫ですわ。ご心配お掛けしてしまい、申し訳ございません。全ては私の勘違い……。ただ、ラディリアスさまとお話できなかったのは、少し残念でございました……。重ねてお詫び申し上げます」
そう言ってメリサは、再び深く頭を下げたのでした。
わたくしの目を一度も見ずに、メリサは震えた声を絞り出す。
ラディリアス……さま……。
急にメリサの口から、ラディリアスさまの名前が出てきて、わたくしの心臓は、ドクンと跳ね上がる。
そう、そこなのです。心配なのは……。
けれどこれは、わたくしの失態。メリサが気にすることではないの。もうどうすることも出来ない、過ぎ去った事なのですから。
わたくしは、人知れず動揺する。
メリサが改めてそう言うからには、メリサの目から見ても、やっぱりお会いして、謝罪すべきものだったのに違いありません。けれどもう、それも遅すぎたのです。ラディリアスさま……殿下はもう、ここには、いらっしゃらないのですもの。
あぁ。わたくしは、どうしたらいいのでしょう……?
「……そう、ね……」
わたくしは言葉を切り、外を見る。
外は晴れ渡っていて、優しい風がふわりと吹き抜けていく……。そしてわたくしは、それをぼんやりと眺めました。
「ラディ……いえ、殿下へ……、わたくし、謝りたかったのです。昨日、殿下がすぐ帰ってしまわれたでしょう? ですから、気が付かないうちに、なにか粗相でもしてしまったのではないかしらと思って……。だから、謝りたくて……でも、殿下はわたくしをお待ちにはなられず、帰ってしまわれました。きっと昨日のことを怒っていらっしゃるのかも知れませんわ……」
わたくしは小さく微笑む。
婚約解消に向けて、わたくし達は、色々と動きはしたけれど、それは何も、殿下から嫌われたかったからではないのです。
殿下は皇太子というご身分ではありますけれど、わたくし達の幼なじみでもあるのです。
出来れば、良い関係を……とは、思ってはいました。けれど婚約を解消して欲しいのも、また事実。わたくしの事を快く思っていないのであれば、婚約も自然解消することでしょう。
ただそれを、わたくしは黙って見てればいいだけの事。
……けれど、殿下から嫌われたとなると、それはそれで心がひどく震えるのです。
「……」
わたくしは静かに、屋敷の門のある方角を見ました。
……可笑しいですよね。
屋敷の門の方角に目を向けながら、わたくしは苦笑する。
屋敷は、とても広いのです。門へ行くにしても、随分と距離があるのです。
わたくしが、そちらへ目を向けたからといって、門が……帰っていくラディリアスさまが見えるわけでもありませんのに……。
「……」
わたくしは、視線を落とす。
貼り付けた笑みが、顔からこぼれ落ちる。
「フィアさま……」
苦しげな、メリサの声が聞こえました。
メリサには、心配を掛けたくはないのです。
わたくしはそっと息を吐き、微笑みを再び顔に貼り付け、メリサを見る。
「……、ちょうど、良かったのですわ。婚約を解消してもらわなければなりませんものね。殿下はお兄……フィデルとお仕事のお話に来られたのでしょう? わたくしに会いに来たわけではありませんのに、お引き留めしても、仕方ありませんもの……」
言って、わたくしは再び門の方へと目を向ける。
今頃殿下は、馬車にお乗りになられて、門をくぐっている頃でしょうか?
「フィア」
静かに佇んでいたフィデルが、わたくしを呼びました。
「……はい」
呼ばれてわたくしは目を上げ、返事をする。
声の方へ顔を向けると、少し不安げなその表情に、優しい笑みを浮かべ、フィデルがこちらを見ていました。
……そう、でした。
わたくしは、フィデルを泣かせてしまったのでした。
フィデルすら、傷つけてしまっていた……。
《二度と触れるな……》と、わたくしはフィデルに忠告したのでした……。
殿下を怒らせ、フィデルとも決別する──。
わたくしは、震えるように、息を吐き出しました。
「……」
二人がいなくなったら、この俺に、何が残るんだろう?
……そんな思いが、頭をよぎる。
自分の夢に必要だかとか、世間体を気にしてだとか、そんな事のために、二人との絆を壊し、それで良かったんだろうか? 簡単に失って良いものだったんだろうか?
俺は顔を歪める。
出来ることなら、失いたくない。
フィデルは大切な兄であるし、殿下は唯一無二の親友。
……まぁ、殿下の方は、そうは思っていないかも知れないけど、少なくとも俺の方は、そう思っている。
……本当は、二人と離れるようなことは、したくない……。
わたくしは溜め息をつくと、ゆっくりとフィデルへと顔を向ける。
傷つけてしまったフィデルとの関係を、どうやったら修復出来るのでしょう?
「殿下の事は、もうあまり気にするな。……俺だけ見てればいい……」
フィデルはそう言って、こちらへ歩いて来る。
わたくしの前まで来て足を止めると、わたくしの髪のひと房を手に取り、背を屈めそっと唇を寄せたのでした。
「……っ、」
わたくしは、息を呑む。
関係を修復させたいとは思うけれど、それは兄弟としてであって、必要以上の親密さを、わたくしは求めてはいない。
フィデルは、わたくしを守っては下さるけれど、それはあまりにも盲目的で、兄弟のそれとは大きく逸脱しているのでは、と思う時が度々あるのです。
だってわたくしは……フィデルには、幸せになって欲しいもの……。
大好きなお兄さま。
わたくしはもう、子どもではないのですから、放っておいて良いのです。これからは、ご自分の幸せの為に、生きて欲しいの……。
たとえ妹としてであったとしても、女性がフィデルの傍にいるのは、《枷》でしかないと思うのです。
特にフィデルの触れ合い方は普通ではないから、わたくしから離れるべきなのでしょう。……だって、フィデル……いくら言っても、聞いてくれませんから……。
フィデルが優しいからと言って、いつまでも甘えてばかりいたら、また、後悔する羽目になるに違いないのです。
わたくしは、フィデルの《枷》になりたくはない……。
身を強ばらせつつ、わたくしは一歩下がりました。
「……」
下がるのと同時に、フィデルは前へと進む。
「……っ」
距離が縮まらず、わたくしは動揺する。
「フィデル……!」
非難じみた声を上げ、わたくしはフィデルを睨みました。
ついさきほど言いましたのに! なぜフィデルはわたくしに、近づこうとするのでしょう? これでは、なんの意味もないではありませんか……!
俺はギリっと、歯ぎしりする。
だから、ダメだろ? 俺に構ってたら、恋人なんて出来ないんだぞ!
俺は声を振り絞る。
「お兄さま! お兄さまがその気なら、わたくしはもう《お兄さま》としか、お呼び致しません……!」
はっきりとそう、フィデルに伝えた。
絆を断ち切るわけじゃない。
兄弟としての一線は、引かなくちゃならない……!
びくりっと、フィデルの肩が揺れ、一瞬歩みが止まる。
「……っ、」
フィデルは、微かに息を呑んだ。
……けれどそれと同時に、更にわたくしへと手を伸ばす。
え? なぜ──。
「……分かった。だったら《お兄さま》でもいい。その代わり、俺はフィアに触れる。フィアから言ったことだからね? 絶対に拒むなよ……っ!」
言ってわたくしを、抱き寄せた。
「!? ……な、お兄さま……っ」
わたくしの喉から悲鳴が上がる。
違う!
そうじゃない!
わたくしは、力の限り抗いました。
その抗いに、お兄さまは眉を寄せる。
「フィア? なぜ嫌がる? 《お兄さま》でいいと俺は言った。だったら俺は、フィアに触れてもいいってことだよね? フィアは自分で言ったんだから、嫌がるのは違うと思うんだけど……?」
「それとコレとは──」
「違わない!!」
言葉を被せるようにフィデルは言って、更に俺の腰を抱き寄せる……!
え。ちょ……っ、待っ……!
「いや……! おやめ下さい……っ」
わたくしは、悲痛な声を上げる……!
「なぜ……? フィア……俺が嫌いになったの?」
傷ついた顔でお兄さまは、わたくしを見下ろす。
その顔があまりにも悲しげで、わたくしは思わず息を呑む。
「そ、そうではありません。わたくしは確かにお兄さまと家族ではありますが、これではまるで──」
そこでわたくしは、言葉を呑み込む。
視界に、メリサが飛び込んで来たのです。
唇を引き締め、小さく……けれど必死に頭を振るメリサ……。
……メリサ?
黙り込んだわたくしを、お兄さまが覗き込む。
「《まるで──》……まるで、何……?」
甘く囁くフィデルの声に、俺の背筋がぞくり……と震えた。
「……っ、」
ゴクリ……と俺の喉が鳴る。
「ねぇ、フィア? まるで……なに? 俺たちは何みたいに見えるの?」
その言葉を俺が言うのを、心待ちにしているように、フィデルが強請るような声を上げた。
「あ……。お兄さま」
わたくしは震える。
「な、何でも……ありませんわ。……わたくし、少し疲れました……。メリサ──」
咄嗟にメリサを呼び、お兄さまの腕を遠ざける。微かに舌打ちの音が聞こえましたが、お兄さまはそっと、わたくしを離して下さいました。
「はい。フィアさま」
メリサが静かに膝を折る。
「少し……休みたいの。お兄さまのお相手を、頼んでもいいかしら?」
「かしこまりました」
「フィア。……調子が悪いのなら、一緒に……」
「いいえ。……ただ、疲れただけですから、ひとりにさせて下さいませ……」
そう言ってわたくしは、お兄さまの手を離れ、二階の奥にある寝室へと入ったのでした。
何かが、変化している──。
「……」
その変化が、自分の手には負えないような、そんな気がして、俺は憂鬱な気持ちになった。
どんな状況なのか、どうしたらいいのか、
まるで掴めない雲のようで、
ひどく、もどかしかった……。
フィアの乳母は『メリサ』でした。
書き換えました。R4.1.30