挙動不審
わたくしが、全ての用意を済ませ出てきた時には、既に殿下は帰っておられ、そこにはもうフィデルしかいませんでした。
「……」
……うん。まあ、そうだよね?
だって、準備にどれだけ時間がかかったと思ってんの?
軽い湯浴みから始まって、香油を塗って、下着とコルセットつけて、ドレスを着て、髪の毛を整えて、それからお化粧をして……。
ついさっき朝食を食べたはずなのに、日はもう頭のてっぺんまで上り詰めている。
んー……。でも何かがおかしい。
いつもはこんなに、時間はかからない。何に手間取った……?
……朝起きるのが……遅かった……?
「……」
俺は口元に手を当て、考える。
いやいや、確かにベッドの上でグダグダしていたけれど、メリサに怒ら れたから、そんなにグダグダ出来なかった。だからそんなに遅くは、なかったハズだ。
……じゃあ、シチュー作りに手間取った?
「……」
そんな事はない。
シチューは、手の込んだ食べ物ではないから。
じゃあ、湯浴み?
「……あ、れ……?」
わたくしは思わず声を上げる。
そう言えば、いつもは夜に洗うハズの髪をさっき洗ったような気がします……。
わたくしはそう思って、自分の髪に触れる。
髪はさらりと、わたくしの指の間を滑り落ち、柔らかい優しい香りを辺りに振り撒きました。
「……」
……半分、眠りかぶっていたから、気づかなかった……。
え? これ……洗ってあるよな……?
俺は、ふんふん……と自分の髪に、鼻を寄せる。
髪を洗うと、乾かすのにかなりの時間がかかるのです。
メリサは風魔法が使えるし、わたくしは水を操ることが出来ますから、一般的な乾かし方よりも、ずっと早く髪を乾かすことが出来ます。けれど、わたくしの髪はとても長いのです。
なぜなら、伸ばしているから。
……好き好んで、伸ばしているわけではありません。勝手に切れないのです。
「……」
おかしいとは思うのですが、フィデルがわたくしの髪の毛をとても気に入っていて、ほんの少し切っただけでも、すぐにバレてしまうのです。
普段わたくしは髪を結い上げていますから、少し切ったくらいでは分からないと思うのですが、何故なのかフィデルには気づかれてしまう。
切ったその日は、フィデルが恨みがましくわたくしを見つつ、ずっと傍にいるのものですから、わたくしはあまり髪を切らないようにしているのです。
……まぁ、あれだ。
あのデカさで、ずっと傍にいられたらウザくて叶わない。
フィデルの好きなタイミングで、あいつに切らせた方が、恨まれないし早いしで、結局まかせっきりになってしまった。
けれど、さすがに戦闘ともなると、この長い髪が邪魔だ。
西の森へ魔物討伐に行く時には、大抵フィデルに切ってもらうんだけど、あれはもう恒例になっちゃったよね。討伐前の儀式的な?
……それもまあ、どうかなと思うんだけどね。仕方ない。
だから俺が美容師を呼ぶことってのが、ほとんどない。舞踏会前くらいかな?
……これってどうなんだろうな? 令嬢として、失格なんじゃないだろうか……?
噂になってなければいいんだけどね……。
……ですからわたくしは、討伐へ行かない限りは、髪を切ることはなく、そのまま長く伸ばしているのです。それだけに、長くなったその髪を乾かすのは、簡単ではありません。
本当なら、何人ものメイドの手を借りて、タオルでパタパタ……パタパタと乾かすのが一般的なのですが、わたくしの屋敷にはメイドはいない。メリサだけなのです。
ですから、時間のない朝に髪を洗う……なんてことは、ここではあまりしないのです。
それなのに、なぜメリサは髪を洗ったのかしら?
わたくしがボーッとしてさえいなければ、拒みも出来たでしょうが、いかんせん今日は眠かったのです。
わたくしは、髪を洗われていることすら気づいていなくて、乾かす時も、メリサだけで乾かしたのでしょう。
……そうなると、こんなにも支度に時間が掛かったのにも頷けました。
ラベンダーの良い香りが、わたくしを優しく包む。
「……」
……別に、洗われるのが嫌なのではないのですよ?
むしろ心地いいので大好きなのですが、そのせいでわたくしは、ラディリアスさまに会い損ねてしまったことに、再び罪悪感に苛まれる。
きっと今頃ラディリアスさまは、凄く怒っていらっしゃるに違いない……。
ラディリアスさまは皇太子。《不敬だ!》と処罰の対象となっても、文句は言えないのです。
……どんな制裁が下るのでしょう? わたくしはひとり慄く。
ラディリアスさまの事ですから、そのような事にはならないかも知れませんが……。
……あぁ、メリサ。なぜ洗ってしまったの?
いいえ、もしかしたら、気のせいかも。ただの香油の香りかもしれませんし……。
けれど髪から香るその優しい香りと、サラサラとした手触りは、間違いなく気のせいなどではなく、確実に髪を洗ったのは《事実だ》……と伝えてくる。
「……」
……え? だから、なんで洗った?
「メリサ」
わたくしは少し戦慄きながら、メリサを呼ぶ。
「はい。フィアさま? 何でございましょう?」
「なぜ、さきほど髪を洗ったの? いつもは夜に洗うでしょう?」
首を傾げながら、わたくしは尋ねる。
するとメリサは、ほほほと笑った。
「あぁ、アレでございますか」
メリサはそう言うと、目を細め少し威圧的にわたくしを見る。
……。
なに、アレ? アレって何なの?
そして、なんなのその目……。
少し小馬鹿にしたようなメリサの目に、わたくしは少しムッとする。
するとメリサは、大きくわざとらしく、溜め息をついた。
「……さきほど、フィアさまの髪にシチューがついておりましたゆえ、洗わせていただきましたわ。殿下が来られていましたのに、汚れたままでは失礼にあたりますもの」
言ってメリサは、キッとわたくしを睨む。
「フィアさま。フィアさまはもう、子どもではないのですよ? 謹慎中は、だらける為ではないと、さきほど申し上げたはずです。たとえ、ダラダラと過ごしたいと思われていたとしても、髪の毛にシチューが飛び散るくらいにだらけて食事をされるのは、いかがなものでしょうか……! はね散らかして食べるのは令嬢の恥でございます! 絶対におやめ下さい!」
キッパリとメリサは言い切った。
わたくしは思わず、ぐっと息を呑む。
「……」
確かに俺は疲れていた。今日くらいは、だらけて過ごしたいと思ったよ? だけど、はね散らかして食べてないからね? そんな事するわけないし!
俺が、批判がましくメリサを見ていると、メリサは俺が言いたいことを察知したのだろう。すぐに威嚇の表情になる。
「いいえ。確かについていましたわ!」
メリサは断言する。
けれどわたくしは、それを認める訳にはいきません。
かりにもわたくしは、侯爵令嬢なのですよ? そんなマナーを欠くようなことをするわけがありませんもの!
わたくしはムキになって、口を開きました。
「わたくしがそのように、食べるはずはありません。作る時も調理用の帽子を着用しましたし、髪は結い上げてもいましたから、食べる時にシチューに触れる事すらありえません。……それに、結い上げたのは、メリサなのですよ? 少しの乱れもなかったはずです!」
わたくしはムキになって、反論する。
だって、ありえないだろ?
俺は、食べ物を扱う仕事がしたいと思うようになってから、野菜のかけら一つとってしても、何かに活用できないかと考えながら過ごしてきたんだぞ?
自分の作ったものですら、もっと美味しくできないだろうかと思って、何かしら考えながら食べている。
その俺が食べ散らかすわけがない。
手につくとか、膝にこぼすことはあったとしても、髪だぞ?
子どもじゃないんだから、髪につける……なんてこと、滅多にないだろ!?
結んでなかったんなら、あれだけど、結んでたからね? 垂れ落ちる隙すらないんだからな? しかも結い上げたのはメリサじゃないか……!
ジャンクフードがそこここにあった前世と違い、ここでの食材は色々なものが貴重なのです。
全てのものが簡単に手に入っていた前世とは、わけが違うのです。
ましてやわたくしは今、侯爵令嬢。
マナーに関して、とても厳しい教育を受けた身として、メリサの言葉は断じて認めるわけにはいかないのです……!
「……」
わたくしの剣幕を見て、メリサは口元に手を当てました。
明らかに、戸惑いの表情をこちらへ向ける。
そう。違うから、絶対に……!
俺はじっとメリサを見た。
「……そう、……ですわよね……? 私も変だとは思ったのです。フィアさまが食べこぼすなど、幼い頃は別としても、今までなかった事ですから……。けれど、本当についていて……」
そこまで言って、メリサは突然、言葉を切る。
「……まさか!」
言ってパッと、フィデルを振り向いた。
「……」
フィデルはそれに気づいて、ゆっくりと目を逸らす。
明らかにフィデルの行動は、挙動不審だった。
「……フィデル」
「髪が汚れていた理由なんて、どうでもいいじゃないか。もう、綺麗になっているんだから……」
そっぽを向き、フィデルは確かに、そう呟いた。
フィアの乳母は『メリサ』でした。
書き換えました。R4.1.30




