裏切り者
「……」
フィデルは静かに、ルルを見下ろした。
その顔には確かに仮面をしていたのだが、ルルは確信を持ってフィデルだと分かった。
あのような目をしている貴族は、フィデルとフィリシアしかルルは知らない。
ルルは今までずっと、フィデルのエメラルド色の瞳は、優しくてあたたかい春の新緑のようだと思って見ていた。
けれど今目の前にいるフィデルの瞳は、月の青白い光と相まって、ひどく冷たい氷の色に見えた。
「あ、……あ、フィ……」
「しっ……!」
フィデルの名を呼ぼうと、口を開いたルルの唇に、細く冷たい指先が当たる。
ルルはその冷たさに、ビクッと身を強ばらせ、息を呑んだ。
「どうした、誰かいたのか……!?」
室内から詰問するかのような、鋭い声が上がる。
ルルは自分の置かれた状況を理解し、ブルブルと震えた。
(こ、殺されるかも……っ!)
貴族の非情さなど、ルルが一番よく知っている。
幼い我が子に苦痛を伴う刺青を施し、魔物に貢ぐ。……親ですらそうなのだ。赤の他人ともなれば、それ以上に非情であることはまず違いない。
それに、今ここにいる貴族たちは、あの皇太子の命を狙うような不逞の輩たちなのだ。常識など通用するはずがない。何をされるか分からないこの状況下で、ルルは震えた。
どうにか逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、残念なことに目の前にいるフィデルは、ルルのよく知る人物……。
自分だけではない。
フィデルも自分のことはよく知っているはずだ。何回も言葉を交わしたことがある。
(な、なんで? なんでフィデルさまが……)
ルルは今の状況が理解出来ず、戸惑う。
グルグルと、目の前と頭の中が回った。
まさかあの、天使のようなフィリシアの兄が、皇太子の命を狙うような者たちとつるんでいたなど、誰が想像出来ただろう?
フィデルの冷たい視線を受けながら、ルルは生きた心地がしない。
もう、自分の命はここで尽きるのだと、ルルは人知れず覚悟を決めた。
けれどルルはまだ、十歳になったばかり。
一人で生きていかなければならない状況に置かれ、普通の十歳とは思えないほど大人びてはいたが、中身は年相応である。当然死ぬのは怖かった。
出来ることなら逃げ出したい……! けれど逃げ道はない……。
逃げたとしても、今フィデルに顔を見られてしまったからには、必ず捕まってしまうだろう……。
ルルの目から、涙が溢れた。
目の前にいるのは、明らかにあのフィデルだ。疑いようもない。
深い焦げ茶色の髪は、夜目には漆黒色に輝いた。
少しくせっ毛のあるその短髪は、品よく整えられている。
あの醜悪な室内にいたと言うのに、フィデルから薫る香りは優しくて、ルルの心をより一層傷つけた。
(誰か……ウソって、言って……!)
フィデルは最初、ルルを見て驚いたように一瞬目を見開いたが、室内から上がった声に、すぐ我に返る。
ルルの知るあの優しいフィデルはなりを潜め、捕らえた獲物をいたぶるのを楽しむかのように、目を細めた。
「静かに。……何も喋るな……!」
そう素早くルルに言って、フィデルは後方に向かって声を上げた。
「何でもない。……テラスの木材が朽ちただけだ」
言って手を振る。
シュン……ッ。
「!」
瞬間、テラスの一部が音もなく砕け落ちた。フィデルの魔法に違いなかった。
「そこから逃げろ……」
フィデルはルルの耳元で、そう囁くと、ゆっくり立ち上がる。
ルルは目を見張る。
フィデルが何を考えているのか、さっぱり分からなかった。
(逃がして……くれるの……?)
けれど、皇太子暗殺の話を聞いてしまった自分を許してくれるとは、到底思えなかった。
ルルの目が泳ぐ……。
「……っ、」
フィデルは何事も無かったかのように、ルルに背を向けたが、ふと思い出したように振り向いた。
そして再び、あの冷たい目をルルに向け、自分の口の前に人差し指を立てた。
その指はひどく繊細で、白く細い。
まるで骸骨の様な指だと、ルルは思う。
ルルはゴクリと、唾を飲み込んだ。
恐ろしくて身動き一つ出来やしない。
そんなルルを見て、フィデルは薄く笑った。
その指の後ろで、口が動く。
──でも、誰にも言うな……。
細い指先を自分の唇に押し当て、フィデルは無言の圧力をルルにかけた。
ルルはガクガクと震えつつ、頷くので精一杯だった。
他に、何が出来るというのだろう?
フィデルはそれを確認してから、何事もなかったかの如く、室内へと戻って行った。
「あ……あぁ……」
恐怖と安堵と、それから裏切られた絶望感。
……そんな気持ちが混ざりあったゴチャゴチャな状況下で、ルルは自分を奮い立たせ、どうにかフィデルの開けた穴に、その身を滑り込ませた。
「テラスが朽ちた? 本っ当にここって古臭いんだから……っ」
ルルが床下へと潜り込むその刹那、フィデルとは別の若い令嬢が掃き出し窓を開く。
ルルの喉が、微かに鳴る。
一瞬フィリシアかと思い、ルルは青ざめたが、明らかに声の質が違った。
(こんなところに、フィリシアさまがいるわけない……っ)
ルルはギュッと体を縮めた。
「まぁ、本当ですわ……! もう! だから言ったでありませんか。こんな古い城などさっさと壊して、新しいものを造ればよろしいのに……!」
令嬢はフィリシアとは似ても似つかない、甲高い声をあげた。
ルルはブルブルと震え、物陰に身を隠す。
(……あ、危なかった……っ)
冷や汗を流しつつ、ルルは自分の体を抱きしめた。
ガクガクと小さな震えが、全身を襲う……!
あのまま呆けていたら、今頃捕まっていたかも知れない。
すぐに動いて正解だった。ルルは人知れず自分を褒める。
けれど危機が去ったわけではない。ルルは未だ敵陣真っ只中にいる。見つかれば、一巻の終わりだ。
恐怖のために、口を開いてもいないのに、奥歯がガチガチとなった。
それが相手に聞こえるのではないかと、ルルは更に怯え、必死になって自分の口を両手で押さえた。
隠れても隠れても、ルルは安心できなかった。早くここから立ち去りたかった。けれど今は無理だ……!
ドキドキと心臓の音がうるさい。
口を押さえた為に息がしづらい。ひどく苦しかったけれど、ルルは我慢した。
捕まって酷い目に合うより、ずっとマシだと思ったからだ。
(早く……早く、どっかに行って……っ!)
ルルは心の中で祈る。
けれど寄りにもよってその令嬢は、フィデルと別の話題で盛り上がった。
(あぁ……もう。いい加減にして……っ)
真っ青になりながら、ルルは必死で耐えた。
暫くして、パタンと扉の閉まる音が聞こえる。
掃き出し窓を閉めた音に違いなかった。
待ちに待った令嬢の退場。
けれどルルには、それを確かめる余裕など、ない。
ほんの少しでも動けば見つかる……! そんな疑心暗鬼に囚われ、身動き一つ取れなかった。
「う。……うぅ……」
いつしかルルは気を失う。
酷い恐怖と口を押さえたが為に足りなくなった酸素に、目の前がクラクラし始め、テラスの下の細い溝にピッタリと体をはめ込ませたまま、深い眠りに落ちていった。
遠くで魔物の威嚇音が、聞こえたような気がした。
その威嚇音は、サルキア修道院にずっと住んでいるはずのルルではあったけれど、一度も聞いたことがない不思議な鳴き声だった。
× × × つづく× × ×




