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皇太子

 皇太子の噂は、孤児院で過ごすルルの耳にも良く入ってくる。


 孤児院が国直下の施設である為でもあるが、ゾフィアルノ侯爵家と同様、皇太子も、よくこのサルキア修道院へ立ち寄ってくれていた。


 たった一人しかいない、この国の皇子。

 何度かルルのいる孤児院の方にもやって来て、修道院とは別に寄付をしてくれた。


 皇太子がお忍びで現れると、ルルは決まって、その姿をこっそり覗き見に行く。いや、それは自分だけではない。好奇心旺盛な孤児院の子どもたちが除き見ないはずがない。当然みんなで覗きに行った。



 自分よりも十歳年上のその青年は、修道院に手伝いに来る下働きの男たちよりも、ほっそりしていた。そして自分と同じ黒髪の皇子。


 黒髪……と言うより濃い色の髪は貴族に多い。ゾフィアルノ侯爵家の双子たちも、限りなく黒に近いチョコレート色の髪色をしている。


 建国した初代皇帝が、漆黒の髪であったことに由来しているらしい。貴族たちの間では薄い色の髪よりも、黒に近い髪の者が美しいとされる。


(まぁ、貴族のみなんだけどね。平民の私にはその恩恵はないんだけど……)

 けれどそんな妙なところで、ルルは皇太子に対して近親感を感じていた。だって同じ黒髪だから。


 自分が貴族の私生児だという証拠でもある、嫌悪すべきものの一つではあったが、皇太子と()()……と言うのは、少し誇らしかった。

 皇太子のサファイアのようなその瞳に、うっとりしつつルルは眺めていたのを覚えている。


 男……と言うより、どちらかと言うと女性的で、身長があるものの優しい顔立ちの皇太子は、女性に人気がありそうだった。


 どんな人を妃に迎えるのだろう? 私が貴族として育っていたら、候補に上がっていたかしら……? そんな夢物語のような夢を見つつ、ルルは溜め息をついたものだった。


 うっとりしたのは、なにもルルだけではない。

 純血を誇りとするシスターたちも頬を赤らめる者が何人も出始めた。当然面白くないのは施設で働く男たちだ。

 嫉妬とは醜いもので、『あれで国が守れるのか!?』とみんなは陰で笑って(はやし)し立てた。



 それが去年、男たちが皇太子に戦いを挑む。


 なんの事はない。毎年秋に行われる収穫祭の余興の武闘大会に、皇太子を誘っただけだ。


 青くなったのは、皇太子のお付きの者たち。

 不備があっては大変なことになる! と、お付きの者たちは丁寧に断ったが、皇太子がまさかの興味を持ってしまったのだ。普段は大人しい皇太子が珍しく『自分も参加したい!』と言い放つ。

豪語してしまったから収取がつかない。わっと歓声が上がり、侍従たちが止めるのも聞かず、皇太子は準備を始める。


(あれは多分、ゾフィアルノ侯爵家のフィリシアさまがいらっしゃていたせいね……)

 ルルは苦笑する。


 皇太子のお相手が、やっぱり自分でなかったと、少し寂しかったが、相手があのフィリシアなら頷けた。

 それ程フィリシアは完璧だった。


 祭りに参加すると聞いて、フィリシアは初め、少し驚いた表情を見せはしたが、すぐに花のように微笑んだ。

 それならば、戦いの女神の加護がありますように……と、跪く皇太子の額に優しく口づけた。


(あの時の皇太子の顔と言ったら……!)

 思い出してもルルは赤くなる。


 フィリシアと皇太子は皇帝の命令で、婚約したばかりだとルルは聞いていた。

 親同士が決めた婚約ともなると、どこかしらぎこちなさが出るものだが、皇太子は、フィリシアが好きなのだと、ルルにはすぐピンときた。


 多分それはルルだけではない。

 恋心を抱いていたシスターたちは諦めの溜め息をつき、屈強な男たちは生暖かい視線を皇太子に向けていたから、きっとみんな気づいていたに違いない。

 皇太子はそんなどよめく観衆の視線の中、競技に挑んだ。


(あの華奢(きゃしゃ)な体のどこに、あんな力があるんだろう?)

 舞踏大会が始まって、ルルは驚いた。

 屈強な男たちをものともせず、皇太子は見事勝利を手に掴んだのだ。


 誰がどう見ても、文句のつけようがない皇太子の圧勝。


 相手の襲い来る力を利用して、面白いほどに皇太子は男たちを投げ飛ばした。会場はどよめいた。みんな一様に、皇太子の凄さに感嘆の声を上げた。


 けれど肝心の婚約者であるフィリシアは、ただただ花のように微笑んだだけだった。

 明らかに皇太子の片思いだった。

 会場からは、歓声の他に痛恨の溜め息も漏れていたことを、ルルは知っている。誰もが天使のようなフィリシアと、見目麗しい皇太子が結ばれることを期待し、祝福していた。




 その皇太子を狙った──?




 それは明らかに謀反であり、犯してはならない最悪の犯罪である。

 ルルは後ずさる。


(大変なこと!聞いちゃったよぉ……)

 ゴクリと唾を飲んだ。




 ギシッ……!




「!」

 ようやく動けるようになって、焦ってその場を離れようとしたのが悪かった。

 足がもつれたのだ。

 ドタッとその場に倒れ込む。


(テラスが軋んでいたのを、すっかり忘れていた……!)

 ルルは青くなる。


 今まで何度か音を立てたが、貴族たちは気づかなかった。

(今度も気づかないで……っ)

 ルルは祈る。


 けれど、それは無理な願いだった。

 あれほど騒がしかった貴族たちの話し声が、水を打ったように、静かになる。


 ルルは息を呑む。

 目だけを動かし、逃げ道を探った……!




 キィ……ッ。




「!」

 けれど逃げるよりも先に、掃き出し窓が開く。

 ルルはビクッと身を強ばらせた。


(いいえ、落ち着くのよ。……今は月が隠れてるから……)

 そう思って、逃げる準備をする。


 逃げ切れる自信はあった。

 こう見えても、足の速さは孤児院一位。ドルビー寄宿所の騎士たち相手ですら、勝ったことがある。

 《絶対に逃げきってやる……!》そう思ったその時だった。


 分厚く垂れ込んでいた雲の合間から、月が顔を出す。

(なんで!? 神さまは非情なの……!?)

 顔を見られてはならないと思ったが、逆にルルは相手の顔も見たくなった。

 いけないと思いつつも、ルルは動けない。じっと開かれ始めた掃き出し窓を見つめた。



「……っ!?」



 月の青白い光に照らされながら、掃き出し窓から一人の貴族が顔を出した。


 その顔に、ルルは見覚えがあった。

 ルルは信じられないと言った様子で首を横に振る。


 そして震える声で、微かに呟いた。




 ──フィデル……さま……?




 と。





 × × × つづく× × ×


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