首都ベルゼ近郊
ヴァルキルア王国の首都ベルゼ。
そこからさほどはなれていない近郊の町シュツァーレの田舎道で、一台の馬車が通りかかった。
今日は月が出ていない。
分厚い雲が立ち込めていて、その光を遮断し、ただでさえ真っ暗な山道が更に真っ暗だった。
「うわぁ……最悪。もっと早くに帰り始めれば良かった……」
真っ暗な夜道をルルは急ぐ。
ルルは、このシュツァーレの町の端にある、サルキア修道院の孤児院で生活をしている。
今年十歳になる。
十歳と言えば、もうそろそろ修道院を出なくてはいけないという歳だ。ルルは手に職をつけるため、近くの首都ベルゼで針子の手伝いをしていた。
六歳の頃から手習いを始め、針を握ってもうかれこれ四年。
幼い小さな手と言えども、毎日針を握っていれば、もう立派な針職人。孤児院を出ても、どうにか食べていけるだけの目星がついて、浮かれていた。
調子に乗って仕事をしていたら、こんな時間になってしまったのだ。
思いもよらぬ暗い夜道に、ルルはぶるるっと身震いする。
首都近郊の田舎町シュツァーレは、比較的治安がいい。
何故かと言うと、交通の便が悪く住むのには適していない。あるのはルルの住んでいるサルキア修道院と、騎士たちの鍛錬場となっている、ドルビー寄宿所くらいだ。
このシュツァーレの町の四分の三は、山林地帯となっていて、残りの僅かな土地に、このサルキア修道院とドルビー寄宿所が建っている。他には何も無い。
あるのは広大な草原と密林で覆われた標高一千メートルほどの山。そしてその場所が曲者なのである。
そこは『西の森』と言われ、魔物の住処となっていた。
祈りを捧げ、魔物を鎮める修道院。
万が一魔物が森を抜けた時の牽制の場としての、ドルビー寄宿所……なのである。こんな過酷な場所に、わざわざ住もうと思う者などいない。
厳しい規律の元で生活する騎士見習いと、巡礼の為に立ち寄る聖職者がいたとしても、日が暮れた今の時間帯に、このようなもの寂しい場所に立ち寄る者などいない。
当然悪さをしようとする者もいない。いや、いることが出来ない。
悲鳴一つでも上げようものなら、ありがたくも血気盛んな騎士見習いたちがこぞってやって来るのである。
相手が魔物であろうと人であろうと、彼らには関係ない。
このシュツァーレの地では、等しく剣を振るう許可が降りている。
常識あるチンピラであるならば、こんな郊外に居を構えるよりも、首都ベルゼの路地裏にでも住んでいた方が、よほどましである。
そんなわけで、例えば十歳になったばかりの孤児娘のルルが、ひとりトボトボと歩いていたとしても、襲う者など誰一人としていない。
というかそもそも人がいない。
ルルが恐れるとすれば、遠くで微かに聞こえるオオカミの遠吠えと、お化けくらいのものだった。
「ひぃ〜怖いよう……早く帰ろう……」
心なし足は早くなる。
むしろ誰かが歩いていてくれたら、明かりの一つでもあれば、安心したのに……。そんな風に考えた。
どれくらい歩いただろう。
もうすぐ修道院……というところで、ルルは一台の馬車を見た。
月明かりすらも差さない真っ暗な夜道を、音がしないよう気をつけているのか、馬車にしてはゆっくり進むその様子に、ルルは不審感を覚えた。
「……こんなところに、馬車……?」
ルルは眉をひそめた。
最小限の光だけにとどめ、進むその馬車は、一種の異様さを醸し出していた。
黒塗りの重厚な造りをしたその馬車は、おそらく高貴な人物の乗り物だと思われたが、いかんせん場所が場所。異様に目立って仕方なかった。
「なんで馬車なんか……」
ルルが首を捻る。
そっと物陰から覗いた。
馬車の目的地は、すぐ近くだった。
「え……。なにここ……」
ルルは目を見張る。
暗闇の中に古ぼけた小さな城が、そこに建っていた。
思わず唖然となる。
ルルは生まれた時に、このシュツァーレに捨てられた。
修道院に引き取られるため……と言うよりも、魔物の餌にするため捨てられたのだと、ルルは以前大人たちが囁きあっているのを聞いたことがある。
《魔物》に我が子を生け贄として、捧げる者がいるのだ。
生活苦……もあるのかも知れないが、一部に妙な《魔物信仰》がある。
魔物を信仰する者たちは、魔物に我が子を差し出せば、その力を得ることが出来る……と信じているのだ。
ルルが捨てられた理由は、おそらくこの魔物信仰のためであると推測された。左首に花の刺青が彫られているのが、その証拠だ。
《我に死を……もしくはその力を。さすれば『花』を手向けよう……》
随分前に発行された小説の名台詞である。
世をはかなみ魔物にその身を捧げ、死のうとした主人公は、思いもよらず、その力を得ることとなる。
魔物の魔力は人のそれよりも膨大だ。
けれど知能の低い魔物では、その魔力を十分に使いこなすことは出来ない。それゆえ、人々は魔物の力を欲した。
我こそが、その魔力に相応しい! と。
だからこそ、こんな小説が生まれたのだろう。
そしてその小説には、魔物に生け贄を捧げる場面がある。
……実際に手向けた《花》は、自分自身ではあったが……。
けれど、その作者が有名な魔術師だった為に話がややこしくなった。
一部実体験が綴られている……との謳い文句で増版を繰り返すほどにベストセラーになった小説《魔力の花》。
既にこの魔術師は亡くなっており、どの部分が実体験なのかは分からない。
けれどその、けして知ることの出来ない真実……として、密かに闇の魔術師を目指す者たちに崇拝されてしまったのだ。
人々が闇の力を欲すると言っても、それ程の覚悟が出来ているわけがない。崇拝しつつも、心の奥底で疑問が湧く。
本当に手に入れられるのだろうか?
危険ではないだろうか? ……と。
だからコレを試すことが出来るのは、決まって貴族だ。
平民であっても、刺青くらいは入れられる。
けれどこの捨て子が流行りだし、子どもに対する刺青は、それがどんなに小さなものであっても、犯罪とされた。
掘った技術者、子の親双方が罰せられる。
それゆえ、この法律が制定された後からは、赤ん坊に刺青を施すことが出来るのは、相当な金持ちであると推測された。
口止め料としての支払いが出来る者。
もしくは施した者を暗殺出来る力のある者。
そして魔力を求める者……それはたいてい、貴族であった。
我が身を捧げるほどの勇気はないが、自分の分身……《我が子》ならば捧げることが出来る。
おそらくは、貴族の私生児が被害にあっているのだと推測された。
自身ではないがゆえ、全ての魔力を受け継げるとは思っていない。
不要な子どもの処分する過程で、多少の魔力が手に入るのならこれほど美味しい話はない。
……そんな風に考える者がいるのだ。
馬鹿なことをするな……と、帝国から禁止のお触れも出たが、未だ信じている者も少なくない。
そんなわけで、おそらくはルルもどこかの貴族の私生児であるとは思われたが、捨てられた身の上で、平民も貴族もないと本人は思っている。
生まれたからには幸せになろう! と必死にもがいた。
おかげで、どうにかやっていけそうなのである。
生まれてから十年間もの期間を、このシュツァーレのサルキア修道院で、前だけを見て、一心不乱に過ごし今の職を手に入れた。
今更、自分を捨てた親に未練も何もない。
サルキア修道院は、比較的良心的な孤児院を併設している。
国直下のこの機関で働くシスターたちは、献身的な信者が多く、恵まれない子どもたちに手を差し伸べることこそ生きがい……と言った者たちばかりだ。
子どもたちが無理なく、ひとり立ち出来るような、そんな独自の取り組みを展開している。
例えそれが魔物信仰の為に捨てられた《花付き孤児》であったとしても、例外ではない。
それゆえ孤児として生きることしか出来なかったルルも、比較的自由な生活が許された。
山道を歩き、薪を集めたり果物を見つけたり。時には狩猟のやり方も教えてくれる。
そんなだから、シュツァーレの町は、ルルにとって庭みたいなものだった。
だから知らないわけがない。
ここに城があるという事を……。
(えー……。知らなかったんだけど……)
城はひどく寂れていた。
黒を基調とした目立たないものではあるが、こんなにも大きな城をルルたちが見落とすハズはない。
けれど今まで一度として見たことがない。
こんなにも修道院から近いと言うのに……!
「……」
怖さを好奇心が上回った。
黒塗りの馬車は、カラカラと乾いた音を静かに立てて、その敷地内へと入っていく。
ルルは決心すると、そろり……とその中へと忍び込んだ。
幸いにも、ルルは忍び込むのに適した姿をしていた。
この国では平民では珍しい、漆黒の髪と黒い瞳。それからみすぼらしい麻の服に身を固めたルルは、例えその姿を咎められたとしても、すぐに草むらへと分け入れば、見つからない自信がある。
「大丈夫。ちょっと覗くだけ……」
屋敷は、比較的大きな木に囲まれ、まるで守られるように、そこに静かに建っていた。
「……たから、気づかなかったのかな……?」
ルルはポツリと呟く。
確かにシュツァーレの町が、自分たちの《庭》と言っても、全て把握しているわけではない。
鬱蒼としている森の中には、危険が待ち受けていることが多い。
必要以上に深入りすることはなかったから、この小さな城の存在に気づかなくても、不思議ではなかった。
(……色も黒いし……私みたい)
多分、木の影に紛れちゃったのね……。ルルはそう思う。
(それにしても、何をしているのかしら……?)
屋敷の周りには、意外にも多くの馬車が止まっていた。
先程入場した馬車から人が出てくる!
「!」
ルルはハッとして、近くの物陰に身を潜めた。
出て来たのは若い男性らしい。暗くてよく見えない。けれどその背格好はどこかで見たような気がして、ルルの好奇心は更に膨れ上がる。
(あぁっ! もう、ままよ……!)
ルルは決心すると、屋敷のすぐ近くに走りよる。幸いにも、番犬はいないようだった。
鼻がよく効くルルに、犬の匂いはすぐにかき分けることが出来た。犬だけではない。森に潜む魔獣の匂いすら嗅ぎ分けられる。そうでなければ、こんな辺鄙なところに住めるわけがない。
ここには犬……動物の気配はない。
ただ室内に、数名の怪しい人影が蠢くだけだ。
ルルはそう判断する。
ルルは一番明かりの強い一室の、掃き出し窓にそろりそろりと近づいた。
木造のテラスが微かに軋み、ルルは肝を冷やす。
(……ひぃっ。音、音……! き、気づかれてないわよね……?)
そっと室内を覗き見た。
明るいと言っても、室内は真っ暗だった。
秘密の会合でも開いているのだろうか? 床に灯された光は驚くほどに弱く、参加者の足元しか見えない。
優雅なその囁き声に、ルルの足音は聞こえなかったようだ。
「ふぅ……」
ルルは、ホッと胸を撫で下ろす。
そして息を殺し、中を覗いた。
「皆さん、お集まりかな……?」
突如響いた壮年の男の声に、ルルは身を縮める。
会合が始まるようだった。
ルルは耳をそば立てる。
身なりからして、集まっているのは上級貴族だろう。
あまりお目にかかる事の出来ない貴族の秘密の会合に、ルルは興奮で目眩がしそうだった。
見つかればただでは済まない。
バクバクと心臓の鼓動がうるさい。
けれど好奇心には勝てなかった。
ちょっとだけ見ていこう……。
そんな安易な考えで、ルルは壁にへばりついたのだった。