婚約破棄……ではなく、解消?
『私、ラディリアス=フィル=ド=プラテリスは、昨年この場で表明した、ゾフィアルノ侯爵家のフィリシアとの婚約を、今ここで解消する』
……ラディリアスさまは、そうおっしゃられると、ふわりと微笑まれる。
「……とは言っても私はまだ、結婚するつもりはないのだから、当分婚約者枠は設けない。そして、この件においての追及は認めない。これは私の一存であるから、フィリシア嬢にはなんら不備はない」
途端、息を呑むようなどよめきと、一部吹き出すような失笑と、それを咎める令嬢たちの非難する声……それから何やらコソコソと話し合うような囁き声が辺りに響き渡る。
「……婚約……《解消》……? 不備……は、……ない?」
わたくしはそんな中、思わず眉をしかめる。
あれだけ駆けずり回り、婚約破棄に向けて頑張ったと言うのに、その説明だけで終わり……なのでしょうか?
皇族の婚約破棄が、そのように簡単に出来るはずはありません。《追及を認めない》などとおしゃられましたが、ラディリアスさまは皇太子。そのようなことは認められないのでは……と、わたくしは思うのです。
国の手本たる皇太子……。
その存在は大きすぎて、わたくしなどの考えが及ぶ……とは到底思われないのですが、その《見本》たる皇太子さまが《私の一存》などと言う言葉で、婚約をなかった事にする……。
それは独裁とも言える、言わばやってはいけない悪手……なのではないでしょうか……?
「……っ、」
わたくしは別の意味で不安になる。
婚約破棄は、わたくしたち家族が望むもの。……けれどその為に、皇太子であられるラディリアスさまを貶めようなどとは、思っていないのです。
この様な説明では、反感を買うだけなのでは ……と周りを見渡せば、案の定、不可解な表情の貴族の方たちが見えました。
一度取り決められた約束事をなかった事にする……。簡単なようで簡単ではないのが皇族と言うものなのです。その辺で遊ぶ子どもたちの約束事とは、格が違います。
けれど、ラディリアスさまのその言葉には、そのような重さは微塵も感じさせず、ましてや理由をおっしゃられる訳でもなく、周りの動揺を盾に、そのままそっと退室されようとなされました。
わたくしはハッとする。
こんなうやむやに解消を申し上げられ、逃げられても困ります! ハッキリ《破棄する!》と断言した上で、謹慎……もしくは国外追放あたりの断罪を言い渡される事を、わたくしは望んでいるのですから……!
「! フィア……!」
思わずラディリアスさまを追いかけそうになったわたくしを、お兄さまが引き止める。
ぐっと腕を掴まれ、わたくしはもがく……!
「お兄さま……! けれど……!」
非難がましく振り返れば、お兄さまは困った顔で首を横にお振りになった。
「……ダメだ。これ以上は不自然だ」
「……っ」
その言葉に、わたくしは目を伏せた。
確かに不自然……。
本来なら誉となる婚約。
けれどわたくしの行動は、まるで婚約破棄を望んでいるように見えてしまう。それはひどく不自然で、わたくし達の思惑とはまた別の状況を生み出してしまう……。
わたくしはぐっと唇を噛み締めた。
釈然としない皇太子の報告。
確かに《解消》は出来たけれど、あまりにも曖昧過ぎて、逆に人々の不審を招いた。
そんな中、突然、人々のどよめきを打ち消すかのように、一人の男爵が声を上げた。
『それは、いかなる理由ででしょうか──?』
その場が、しん……と沈まる。そこでわたくしは息を呑む。
「!」
少し、希望が見えた気がしたのです。
わたくしは思わずラディリアスさまを見上げる。
《追及は認めない》と言われ動揺した貴族たちもまた、一様にラディリアスさまを見上げました。思うところは、みんな同じなのでしょう。理由を聞きたいのに違いありません。
……いいえ、理由など初めからみなさんは知っているはずなのです。何故ならそうなるよう仕向けたのはわたくし達なのですもの。
正確に申し上げますと、皇太子に断罪される侯爵令嬢……を、みなさまは見たいのに違いないのですから。
わたくしは、ほくそ笑む。
日がな一日暇を持て余している貴族の方々ですもの。噂は大好物。頂点に立つ者が転がり落ちるさまほど、甘美なものはないのですから……!
退室しようとしていた皇太子はその場で足を止め、小さく溜め息をついて振り返る。
振り返ると共に、男爵を睨んだ。
さも、『余計なことを……!』と言わんばかりの、憎々しげな表情で……。
けれど、……そう……わたくしだって思いましたもの。皇太子の婚約破棄。
例えそれが《解消》という柔らかい言葉にすり変わったとしても、元々あったものをなかった事にする事には変わりがありません。理由は必要です。
ましてや国の要である皇太子の婚約。
みなさまが、理由を知りたくないはずはないのですから!
わたくしはぐっと息を呑み、ラディリアスさまの言葉を待つ。
遂に……遂に、断罪の時は来るのです……!
わたくしの手を握りしめていたお兄さまの手が、更に力を増す。
「……っ、」
わたくしは片目を閉じ、その痛みに耐えました。
婚約破棄の理由……。
……ないわけではない。
立派な理由を、わたくしたちは用意致しましたもの。
わたくしたちはその理由を作るために、本当に必死になって駆けずり回ったのですから……!
その理由作りをする許可を、ラディリアスさま本人から得たわけではありませんが、わたくし一人で計画したものでもありません。
国の主要人物である父の助言を得ながら、確実に婚約破棄が出来るような理由を考え、家族総出で計画し、行動に移したのです。
ですので、ラディリアスさま自身もこの噂を耳にすれば、きっと嫌悪感を露わにし、このわたくしを再び婚約者に……などとはもう、思わないでしょう。
いえ、そんな風に思うどころか、重大な罰が科せられてもおかしくはありません。
謹慎処分? それとも領地没収? はたまた降格処分? いえいえ国外追放……という状況に発展しても頷けますし、それを受ける覚悟が、わたくし達にはあるのです。
そのくらい、この婚約は、破棄せねばならないものなのですから……!
わたくし達が、徹底的に作り上げたその、《婚約破棄の理由》は、衝撃的であったはずです。
それなのに何故、その噂を耳にしてもなお婚約解消……しかも理由なし……に、出来るのでしょうか……?
わたくしや、お兄さま……そしてゾフィアルノ家の信頼のおける知人、友人たちに協力を求め、この計画は用意周到に進められました。
そう──。
さもわたくしが、淫らな女性であるかのように……!
様々な男性と、逢瀬を重ねたのです。
皇太子の妃になる……という誉高い地位を得ながら、この醜態はけして見逃されることはありません。
他のどのような理由よりも、この事実は決定的で重い罪だと思うのです。ですからわたくしたちは、この不実の罪を理由に、婚約破棄を心置きなくして頂こうと思ったのです。
計画は完璧でした。
家族総出で……しかも友人知人も参加しての計画ですもの。完璧でないわけはありませんよね?
当然そんな素振りを見せる……だけではダメです。ちゃんと目撃者がいないといけません。
それも多くの人が目撃してはダメなのです。わざとらしくなりますから。
そう。これは、コソコソ隠れるように、そして数人の目撃者がいるように。……しかもその目撃者は、我がゾフィアルノ侯爵や皇太子を忌み嫌っている人たちを選び抜き、コトを推し進めたのです。
……結構、骨が折れたのですよ?
自分の自由な未来のために、わたくしはとても頑張りました。未だかつてない頑張りです! 自分で自分を褒めたいくらいなのです。
家族だって覚悟を決めているのです。
このヴァルキルア帝国を捨て、新天地を探す準備までしているのですから!
「……」
それなのに、その証拠をなかった事にされるなんて……。
わたくしは悔しさのあまり、思わず指を噛む。
……もちろん、実際に浮気をしたわけではありません。そんなこと、わたくしに出来るはずがないもの。
ただ、噂好きの貴族たちの事、その醜聞は皇太子のみならず、この婚約を取り決めた皇帝陛下にも届いているはずなのです。
けれどその皇帝陛下が、未だに沈黙を決め込んでおられる……。それが少し、不気味なのではあるのですが、そのような噂が流れ、こうして皇太子の誕生日の席で、改めて婚約破棄の宣言を行ったのですもの。いくら皇帝陛下であっても覆すことは、難しいと思われるのです。
けれど、わたくしたちは断罪されなければなりません。
《婚約破棄》……これを完璧なものにする為に……!
確かに、いくら殿下の希望として仕組んだものであったとしても、仮にも殿下の婚約者としての地位を得ながら、他の男性と淫欲に耽ったとされるその噂は、わたくしにとっても、はたまたゾフィアルノ侯爵家にとっても、ひどい汚点になることは確実なのです。
自分の自由の為に、家族を犠牲にする……。
それはひどく、心の痛む状況でもありました。
わたくしの胸は張り裂けそうで、目の前がチカチカと光り、今にも倒れそう……。
「フィア……」
お兄さまは、そんなわたくしに声を掛け、支えて下さる……。
お兄さまも同じように、倒れてしまいたいはずなのに……!
──けして、悪いようにはしない。
ラディリアス殿下は、そうおっしゃいましたが、殿下にどこまでのことが出来るのか。
殿下が皇帝陛下となるその日には、もしかすれば名誉も挽回出来るかも知れませんが、それまではこの汚名にまみれる生活に耐えてゆかねばなりません。
それを思うと、目の前が真っ暗になるのです。
どのような罪になるのか……もしかしたら、最悪、死罪を言い渡されるかもしれないのです。
「……」
そこまで考えて、わたくしは首を振る。
……いいえ。だからこそ、その為の新天地。
逃げる国など、既に見つけているのですから、恐れるものは何もないのです。
けれど出来ることなら、そうならないようにと、願わずにはいられない。
わたくしは大きく息を吸い込み、殿下と、……それから殿下に相対する、目の前の男爵を見たのでした。
× × × つづく× × ×