貴族院の承諾と新たな御触れ。
すっかり忘れていました。
貴族院……。
貴族の生活を取り締まる機関。
貴族の代表からなるこの貴族院では、主に政治の話し合いがなされるのですが、貴族同士の婚約や商売、土地の管理などなど、細かいところも話し合われていて、それなりの決まり事と、報告義務があるのです。
それは、国の政治の頂点を担う貴族だからこそ大切なことで、本来二人の同意さえあれば叶う婚姻も、ここでは慎重に取り扱われる。
……貴族院の了承を、得られなかった……?
「……」
わたくしは、眉をひそめる。
多分、ラディリアスさまは、この婚約解消を強引に推し進めたのでしょう。
貴族院で、一旦取り消した契約を復活させる事は、ほとんど不可能に近い。
それが一夜で覆されたのは、《婚約解消》の方の報告を怠っていたとしか考えられません……。
おそらく流れは、皇太子の勝手な婚約解消宣言……として、処理されたに違いない。貴族院を通さず、言葉だけの解消……。
そしてそれはきっと、あの場におられた陛下に申し上げた通り、まだ功績を残していない自分にとって、この婚約は相応しくない……皇太子のその不安から来る失言として、処理されたのでしょう。
ですから、わたくし達の処分も《謹慎三日間》と言う軽いものだったのに違いありません。三日? まるでお話にもなりません。それではタダの、連休ではありませんか……!
それに保留とは。
ならばこれは、《功績を残す》事ができれば、また復活してしまうの……?
「……」
「私は、皇太子の婚約者として、フィアが王弟派から狙われる危険性も心配したんだ。けれど、それは私が傍で守り抜けばいいことだから……。フィアは私が騎士になる事を許してはくれなかったけれど、婚約者として守るのはいいだろう? 正直私は、フィアの事が嫌いなわけではない。むしろ、出来ることなら、一緒にいたいと思っている」
言ってわたくしを優しく見つめる。
「……」
けれどわたくしの心は複雑で、素直に受け入れられない。
わたくしは静かに目を伏せる。
ラディリアスさまは、そんなわたくしをなだめるように、言葉を続ける。
「……だから今後私から婚約が解消されるような要望は、もう一切出さない。その上で今後君たちが婚約破棄に向けて、コトを起こそうとするのなら、私は断固阻止しようと思う。……《婚約解消》と、一度は私から言っておきながら、こんな事を言うのはおかしいと、自分でも重々承知している。……けれど、察して欲しい。私は君に、傍にいて欲しい。父上から言われた婚約者だからじゃない。私自身が、君を手放せない。だから君が私から離れようと、行動を起こすようなことがあるならば、婚約を復活させた上で、君には皇宮に来てもらう。変な噂が立つ隙など与えない。誰にも触れさせないし、見せもしない。私は、いつでもフィアを歓迎するよ? ……通達は既に各界へ送られている。変更は、もうきかない」
そう言うとラディリアスさまはわたくしの髪を撫で、そのひと房にそっと口づけをする。
全てを話し、ホッと安堵した……そんな表情だった。
「……私の、フィア」
ぽつりと呟いたその言葉に、わたくしはゾッとする。
「ラ、ラディリアスさま……っ」
悲鳴にも似た叫びを、わたくしはあげる。
これでは話が違う。
そもそも最初に婚約破棄を願ったのは、ラディリアスさまではないの!
確かにわたくし達も、そう望んでいましたから、その計画に乗りましたが、状況次第でコロコロと心変わりをされては困ります。
そんな身勝手な考えで、わたくし達ゾフィアルノ家を利用するのなど言語道断。ましてや、ラディリアスさまは次期皇帝となられる方。上に立つ立場の方が、そうコロコロ言葉を変えられては、下に示しなどつくものですか……!
わたくしがそう詰め寄ると、ラディリアスさまは小さく首を振った。
「私の心は、始めから少しも変わってはいない。やり方を変えただけだ。私が心配したのは、この婚約において、フィアの命が狙われるのではという事のみ……」
言ってニヤリと笑う。
その笑みは、ラディリアスさまの誕生パーティーの席で見た、何かを企むあの皇帝陛下の微笑みとそっくりで、わたくしの背筋がゾクリと戦慄いた。
「そうだ。そう言えばフィア……?」
ゾッとするような笑みをたたえて、ラディリアスさまは続ける。
「前に私は、西の森へ踏み込む事を禁止したよね……?」
そう言って目を細め、わたくしを見る。
「けれどフィアは、あの《西の森》へ行っているね? ダメだと言った《あの日》以降も?」
ラディリアスさまは、微笑む……が、目は笑っていない……。
微笑みつつ、鼻で小さく息をつく。
「私の傍にいれば賊に命を狙われることもあるから、フィデルと侯爵家の屋敷にいさえすれば、安全かとも思ったんだ。だけど、西の森へ自由に行き来しているとなると、話は違う。賊に襲われる危険性とはまた違った危険性にフィアは晒されているって事だよ……?」
ラディリアスさまの口調は優しい。
けれど怒っている。
絶対、怒っている……! 思わず俺の肩が跳ねた。
そうだ。忘れていた……。
前に一度ラディリアスに、西の森へ行っていることがバレた時があった。
魔力の話になって、友人のひとりが調子に乗って、フィデルと俺の事を話してしまった。
その時俺とフィデルもその場にいたから、上手い具合に話をそらし、事なきを得たが、あの時のラディリアスの顔といったら……!
まるで鬼の形相……。
「……っ、」
思い出しただけで、震えが来る。
ラディリアスは、物凄い目で口を滑らせた友人を睨むと、有り得ないことだが、自分の腰に差してある剣に手をかけた。
その殺気は尋常ではなくて、居合わせた者みんな、思わず膝をついた……。
多分あの時、俺たちが必死になって取りなさなければ、有無を言わさず斬り付ける気だったんじゃないだろうか……?
フィデルと俺は真っ青になって、そんなのことを話した。
……普段大人しいヤツは、怒らせると何をしでかすか分からない。
そう言って──。
ラディリアスは、静かに物を考える事があるが、何故なのかそれは俺に関する事柄のみ、常識を遥かに超えて、突拍子もない結論を出す傾向にある。
……ゴクリと唾を飲み込み、わたくしは冷や汗を掻く。
出来る限り、怒らせないよう、気をつけなければなりません……。
わたくしは静かに目を逸らす。
「し……仕方ありませんでしたの。……食材が、西の森にしかないものでしたから……」
消えゆくわたくしの言葉に、ラディリアスさまはくすりと笑って抱きしめる。
「別にもう構わないよ。おかげで、私も罪悪感なしにフィアとの婚約を再開出来る。思えば西の森と比べれば、皇宮はいくらかは安全だからね。例え政権争いに巻き込まれても、西の森程ではない。もしもあなたの危険を少しでも感じたら、その時もまた、私は迷わず君を皇宮に連れて行く。フィデルがいるから安心……とも思っていたが、今の私にとっては、フィデルも危ないと今回学習した。フィアに関することでは、フィデルですら信用出来ない。もう誰も信用しない。自分自身の想いを素直に貫くつもりだよ……」
言ってわたくしを抱きしめる。
「……え?」
……えっと? それはどういう事?
よく意味が分からない……。
わたくしは冷や汗を掻きつつ、首を傾げ微笑むことしか出来ない。
「あなたは、私が守る。もう、誰にも譲らないし、自分がしたいと思うことを誤魔化したりするのもやめた。……婚約解消を、自分の誕生日に口にしたあの時の喪失感を考えたら、例えあなたに嫌われたとしても、もう構わない。フィアとは絶対に結婚する。もう絶対に逃がさない……」
言ってわたくしの頬に、頬擦りする。
え? ち、近い……。俺はゴクリと唾を飲み込む。
慌てて顔を背けようとしたら、逃げ道を手で塞がれ、後頭部を支えられた。
コツン……とおでこを重ねられる。
え? これって、……やばくない……?
「ラ、ラディリアスさま……?」
恐怖の声を俺はあげ、俺は身を捩るが、腰に回された腕には、逃がさない! という想いと共に力が入り、身動きすら取れない。
え、ちょっ……待っ……!
「……フィア、私は君が好きなんだ。愛してる……」
「!?」
ほとんどの女子が泣いて喜ぶかと思うほどの甘い言葉を、近距離から囁かれ、俺はもう生きた心地がしない。
いやいや、俺は喜ばないから! そんなの望んでないから!
半泣きになりながら、必死に抗う。もうダメだ。
そんな言葉、俺が喜ぶと思うのか? 恐怖以外の何物でもないんだぞ……?
涙目になりながら、身を強ばらせる。
ラディリアスの唇が接近する……!
う、うわぁあぁあぁ……、やばい。
やばい。やばい。やばい……っっっ!!!
フィデル! フィデル! 助けてっ!
ギュッと目をつぶったその刹那──!
「何をしているのですか……っ!!」
突如叫ばれたその声に、ラディリアスはビクッと体を震わせ、一瞬のためらいを見せる。
声の主は、言わずと知れたフィデルだった。
お茶会をする予定だったのが、功を奏した。
フィデルは乗馬の後、そのまま駆けて来たらしく、漆黒の青毛の馬に跨っていた。こちらを見ながら、どうどう……と馬を宥めている。
助かった。これでどうにかなる。
「……っ、」
けれど、状況は違った。
フィデルの登場に、ラディリアスは怯まなかったのだ。
そのまま顔を俺に寄せる。
「え……?」
じょ、冗談だろ!? 俺は慄く。
「フィデル、フィデル……助けて……!」
思わずフィデルに手を差し伸べ、俺はフィデルの名を呼んだ。
俺の声に、ビクッとラディリアスの体が揺れた。
俺はこの日、何度も失敗を重ねた。
それがコレ。
これも失敗だった。
……そもそも俺は、フィデルを《フィデル》とは呼ばない。『お兄さま』と呼ぶ。
状況に呑まれ、思わず男の俺が普段呼んでいた名前呼びの方が出てしまい、俺はハッとする。
目の前のラディリアスの顔が、みるみる恐ろしく歪んでいくのが見えた。
「《フィデル》……?」
信じられないほど低い声で、ラディリアスが唸る。
俺はハッとして、慌てて否定した。
「ラディリアスさま、違……っ」
と言いかけて、俺は口ごもる。
なんて言い訳する? 言い訳……無くない?
……ん? いやいやそれよりも……。
俺は考える。でもこれは、考えようによっては、いい進み具合なのでは?
《兄妹で、恋愛関係にある》そういうことで、婚約破棄に繋げればいいんじゃないだろうか?
「……」
俺は新たな作戦に、にんまりする。
そうか、これは盲点だった。
灯台もと暗しとは、この事。
こんなにも近くに、いい人材がいたのに、使わない手はない。
けれど、これも俺の誤算だったんだ。
そもそもフィデルの存在は、触れてはいけない、ラディリアスの逆鱗だったらしいのだ。
しかしそんな事、俺が知る由もない。
結果ラディリアスとフィデルは、この日を境に、最悪の関係となってしまったんだ。
× × × つづく× × ×