不意打ち
少し目を伏せつつ、微笑みながら、わたくしはラディリアスさまの方を向き、そっと口を開く。
倒れるわたくしを助けてくれ、手を差し伸べてくれたラディリアスさま……。
それなのにわたくしは、その手を払い除けてしまった。
その行動は、けして褒められたものではありません。
……ましてや怒らせるなど……、わたくしは何をしているのかしら?
人知れず反省しながら、わたくしはラディリアスさまの方を向く。
微笑みを顔に貼り付けてはみたものの、それはきっと悲しげな色を含んでいるのに違いない。
けれど今は、それを直す心のゆとりなんて、わたくしにはありません……。
わたくしは、大きく息を吸って、言葉を紡ぐ。
「ラディリアスさま……。お世辞などではありませんわ。本当に、すごく綺麗な……」
ラディリアスさまの方を向きつつ、そこまで言ってわたくしはゾワッとする。妙な悪寒が走った。
う……。
な、なに? この気配……。
ゾクッとして目を見開いた。
「……っ」
瞬間、ラディリアスさまの手がわたくしの頬に伸びる。
わたくしは自然、ラディリアスさまを見上げる。
……っ、近いっ!
すごく近いのに、目線が合わない。
真っ青なその瞳に、漆黒の睫毛を緩やかに被せ、わたくしの《目》の位置ではなく、少し下の方を見ておられます。
……下?
ラディリアスさまの見ているもの……って、まさか俺の唇!?
そう思った途端、更にラディリアスさまの顔が近づく……!
え? ちょ、……っ。
事もあろうかラディリアスは俺に、キスを迫って来たのだ。
待って? なに? これ、どういう状況……!?
俺は焦る。
地につけていた膝を少し浮かせ、俺に近づくラディリアス。
ま、待て待て待て待て!
待てって、俺は男だ!
絶対にバラせないけど、実は俺は男なんだ!
申し訳ないが、俺にはそんな趣味はないっっっ!
ぎいぃやあぁぁあぁぁあ……!!!
「……」
断末魔の叫びを心の中であげつつ、俺は必死に自分の唇を両手で守り抜いた。
するとすぐさまラディリアスの柔らかい唇が、俺の手のひらに触れる……!
ひ、ひいぃ……っ!
悲鳴をあげながら、俺は顔を背ける。
あ、危なかった……。危なかった。
あと少し、あと少し遅かったら……っ。
想像して気分が悪くなる。
うっ……、もう、耐えられない……。
震えるように息を吸う。
あまりの動悸で、息が苦しかった。
良かった、今日はコルセットなしで……。
あの凶暴じみた衣装で縛り上げられていたら、きっと酸欠で倒れていたに違いない。
……ったく、何なんだ! こいつといると、少しも心が休まらない……っ。
「ラ、ラディリアスさま……っ」
悲鳴をあげつつ、俺は横を向く。
早くこの場から、逃げ出したかった。
「フィア……!」
拒まれて、ラディリアスは少し狼狽えた。
……そりゃそうだろうな。
ラディリアスは紛うことなきイケメン……。
《拒まれる》……なんて経験は皆無に等しいのだろう。
いやいや、狼狽えて良いのは俺だろ!?
拒まれて当たり前って思わなかったのか?
ほんの少しも?
どうしてキス出来ると思った?
俺らもう、婚約者同士じゃねーし!
心の中で、俺は悪態をつく。
涙が出そうになる。
何なんだよ!
俺にどうしろってんだよ……っ!!
「……」
でも、……ラディリアスは誰がどう見ても、完璧な存在だ。
《拒まれるハズはない!》そう思っていたとしても、不思議じゃない。
地位も名誉もある上に、この容姿……。
きっとどんな女でも、迫られたならメロメロになるのに違いない。
サラサラの烏の濡れ羽色とでも言うのだろうか? 艶やかなその髪は、絹糸のように顔に掛かる。
透き通るほどきめ細いその白い肌には、凛としたサファイアのような瞳がアクセントになって、ラディリアスを引き立てる。
けれどけしてキツい感じは受けない。その瞳に憂いを持たせるかのように、そっとかぶさる漆黒の長い睫毛。
すっと通った鼻筋に、形の良い唇は血色のいいピンク色をしていた。
……分かる。
そりゃ、嫌でも分かる!
これは絶対に女にモテる顔だってことは、男の俺ですら嫌でも分かるんだよ!
その上、性格もいいときている……。
つまづきそうになった俺を、咄嗟の事だったにも関わらず、確実に魔法で庇った。
そのコントロールの正確さや冷静さは、評価に値する。
なかなか出来る事じゃない。
倒れ込んだ俺の目線に合わせ、当たり前のように膝を折れるのも、プラス評価だ。
でもだからといって、キスをしてもいいとは限らない。
断じてならない!
特に俺は男だ!
今は女の姿かも知れないが、中身は……いや魔法で、本当の俺とは若干姿も変わってるけど、身も心も男なんだ!!
俺に拒まれ、ラディリアスはハッとする。
「フィア、フィア……すまない。どうかしていた。……こんな事するつもりはなかったんだ……」
「……」
一瞬、拒まれて怒り出すと思われたラディリアスは、哀れな程に真っ青になって謝り始めた。
……見ているこっちが、恐縮してしまう程に。
「……」
俺は目を逸らす。
ラディリアスから逃げたい気持ちもあったけど、一番の理由は俺自身が気持ちを立て直せないでいたからだ。
このまま視線を合わせたままだと、本当に男だとバレてしまう。それは、どうしても避けたかった。
けれどラディリアスは、俺から目線を逸らされ、更に戸惑いの色を大きくした。
喉の奥で、息を呑む音が聞こえる。
「フィア……!」
ラディリアスは叫ぶ!
「こっちを向いて。……お願いだから、お願いだから嫌わないで……!」
悲鳴のようにラディリアスが唸った。
顔を隠す俺の手を、必死になって開こうとしているが、当然こっちも必死だ。今、顔を見られるわけにはいかない。
左手を取られ、残る右手で必死に顔を守った。
身を捩るように顔を背ける。
「……フィア。お願い。こっちを見て……」
震えるような、ラディリアスの声。
そう……言われ、俺……わたくしは、迷う。
どんなに謝られても、それでも恐ろしい。
また、迫られるのではないかと、身を強ばらせる。
唇を奪われないように、手の甲でそっと守りつつ、わたくしはラディリアスさまを仰ぎ見る。
「あ……フィア」
目を合わせるとラディリアスさまは、安心したような表情をされました。
ふわりと笑い、優しいその声に、わたくしも少し、ホッと胸を撫で下ろす。
感情が昂っている間は、何をされるか分かりません。けれど今なら、大丈夫。
いつものラディリアスさまの微笑みに、わたくしはホッと息を吐き、言葉をかける。
そしてできる限り、微笑むようにわたくしは努力したのです。
「き、嫌いになどなるはずもございません。わたくしは貴方の臣下なのですもの。……けれどラディリアスさま? わたくし達はもう、婚約者ではありませんでしょ? ……ラディリアスさまは皇太子殿下であられるのです。お戯れはほどほどにして下さいませね……?」
わたくしは、微笑みを顔に貼り付けるのに、必死でした。
口元が自分でも、引きつっているのが分かります。
きっとラディリアスさまにも、分かったことでしょう。けれどこれが、今のわたくしに出来る、精一杯。
「……フィアっ!」
非難にも似た叱責が飛び、わたくしは肩を揺らす。
ギリっとラディリアスさまから、歯ぎしりが聞こえた気がしました。
「……っ、」
わたくしは身を強ばらせる。
けれど本当に、自重して頂かなくてはいけないのです。
ラディリアスさまはこの国にとって、なくてはならない大切な存在。けして、皇弟派に弱味を握られるようなことをされては、ならないのです。
わたくしとの間柄を、勘違いなさったままでは、きっと罠にも嵌りやすくもなるのですから……!
わたくしはそっと、そんなラディリアスさまから距離を置いたのでした。
× × × つづく× × ×