金の魔法
──どうして……。
どうしてここに、ラディリアスさまが……?
驚きのあまり、わたくしは後ずさり、飛び出したイチョウの木の根っこに気づかずに、つまづいた。あっという間にバランスを崩す。
「ひゃっ……」
「!?……フィア!」
うわっ、やばっ……!
咄嗟にそう感じ、受け身を取ろうとしてハッとする。
だ、ダメだ……俺……じゃなかった、わたくしは今、侯爵令嬢なのでした……。
護身術を習ってるとはいえ基本、上級貴族の令嬢など要領の悪い方が多い。
例えわたくしが、どんなに運動神経がいいように日々振舞っていたとしても、倒れる時に受け身をとってしまえば、騎士の資格を持つラディリアスさまならば、わたくしがどれだけ武芸を身につけているのか、簡単に見抜かれてしまう……。
ほどほどの受け身を取ればいいのかも知れないけれど、そんな器用なことは、わたくしには出来ない。
前にコケていれば、手を出せばいい事かもしれないけれど、今は明らかに後ろに倒れている。
えー……。これを、どうしろと?
わたくしは、頭の中が真っ白になる。
どんな時も、わたくしは気を許してはならない。
それは確かにそう。
そんな事は、分かりきっている。
分かってはいるけれど、なんなの? この状況は……?
いるはずのないラディリアスさまが、今、目の前にいらっしゃる。
それから今まさに、焦げそうになってるクッキー。
そして無防備に後ろへ倒れようとしている、わたくしのこの状況……。
色んなことがごちゃ混ぜになって、わたくしを混乱させる。
正直、頭が回らない……。
けれどどこで、わたくしが男であると言うことがバレるのか分からないのですから、常に貴族令嬢の立ち振る舞いを考えて、行動しなければならないのです。
バレれてしまえば、一族は消えてなくなるのだから……!
倒れゆくその一瞬の間に、わたくしは色々なことを思い浮かべる。
このまま受け身をとるのは簡単なこと。
けれど、この世界の令嬢は武道を嗜まない。
わたくしが受け身を取るのは、不自然過ぎる……!
だからここでは、そのままコケるのが最善策なのかも知れません。わたくしは、そう結論づけました。
けれど、分かってはいるけれど怖い……。
だって、後ろに転けてるんだよ!?
いつ地面が背中に当たるか分からないんだよ!?
外だから木の根っこもボコボコ出ているし、直ぐにすがりつけそうな物すらない。
このままいくと、見事に転がるしかないんだけれど、打ちどころが悪かったら最悪、骨が折れる。
──『骨』!?
コケて、骨を折るとか……!?
しかもこの場合、ものすごい確率で、それって背骨なんじゃない……!?
きっと、めちゃくちゃ痛いに違いない。
「……っ、」
想像して、俺は必要以上に体が強ばる。
ひゅっと喉が鳴った。
いやいやいや、俺は俺じゃない。今はフィリシアだった……!
本当に全く、なにをしているのフィリシア! 今の今まで、令嬢として頑張ってきたのではないの? たかがコケることに、なにを躊躇うというの……?
必死に自分を叱咤する。
「……っ、」
わたくしは恐ろしくて、ギュッと目をつぶった。
コケて擦りむくなど、前世ではよくあった事。今更どうって事などありません。
……けれど擦りむくだけでは、済まないかもしれない。
もしかしたら、恐怖の背骨骨折……?
いやいやいやきっと、俺の背骨なら、この程度の衝撃くらい、耐えてくれるに違いない。
だって俺、毎日鍛えてるし。
牛乳飲んでるし。カルシウムもちゃんと摂ってるし。
柔軟性だってかなりのものだと思っている……!
………………。
けれど、出来る受け身をあえて取らない……という状況が、わたくしには辛くもある。
必要以上に身を強ばらせ、襲い来るだろう衝撃に覚悟を決めた。
あぁ。もう、なんなんだよ。
どうしてこうも、俺の自由は奪われなくちゃいけないんだ……! 自分の身が危険な時くらい、思う存分自分守ったっていいじゃないか……っ!
男の俺は、そうも考える。
考えると泣きたくなった。
だってそうだろ?
今まで女として過ごしてきたけど、本当の俺は女じゃない。
本当は俺だって、男として生きていきたい。
それなのにその自由は、未だに手に入れることすら叶わない。
「……っ、」
……あぁ、もういっそ、消えてしまいたい!
誰の目からも触れられない、西の森の奥地にでも投げ捨ててくれればいい……! たったそれだけのことだ!
今の俺なら、どんな所だって、生きていける自信がある。
だからもう、俺のことなんか、ひと思いに捨ててくれ……。
……もう、どうなってもいいんだから。
ギュッと目をつぶり、俺は本気でそう思った。
けれど、そんな風に思ったその瞬間──。
──ふわ……っ。
「……え?」
ふわりと体が宙に浮いた……!
実際倒れ込む選択を俺はしたけれど、想像していたような衝撃は、襲っては来なかった。
地面と俺の間に、別の何かが突如現れたのだ。
「え? な……に?」
予測していた衝撃とは全く異なる感覚に、俺は恐る恐る目を開ける。
信じられない事だけど、キラキラとした不思議な空間が、自分の下にあった……。
え? なに……これ……?
俺は目を見張った。
キラキラ光るその小さな粒子は、見た目はとても儚げで、壊れてしまいそうなくらい繊細だ。
それなのに、触れるとそれは、とてもしっかりとしていて、難なく俺を支えてくれる。
それにとても、柔らかい……。
優しくふわりと俺を包み込んでくれた。
「……。」
えっ、と……これは、なに?
これはもしかして、ラディリアスの……魔法……と言うやつなのだろうか?
驚いて、俺は顔をあげる。
昨日の誕生会の夜会で初めて見た、ラディリアスの魔法。
確かあれも、金の粒子が飛び散っていたのを思い出す。
とても似通ったその魔力の質に、俺は少し動揺する。
ラディリアスを見れば、これの正体が分かるのではないか……と、そう思った。
俺はラディリアスを見上げる。
すると──。
「ひぅ……!」
思わず変な声が漏れた。
見上げればそこに、心配げなラディリアスの顔が、物凄い近さで見えたのだ。
俺は驚いて目を見張る……
息が……いや、心臓が止まるかと思った。
「……っ」
ゴクリと唾を飲み込んで、少し仰け反る。
近い!
……ラディリアスの顔が近い! 近すぎる!!
近過ぎて、思わず《素》の自分が出ていたことに動転する。
……やば。このままだとバレる……!
俺は慌ててうつむいた。
バクバクと激しく心臓が鳴る……!
胸が……、胸が痛い……っ。
「フィ……フィア? 大丈夫だった? どこも……どこも、怪我してはいない……?」
目の前のラディリアスは、俺に怪我がないか、ひどく狼狽えながら、俺の両腕や両足を目視で確認している。
ひぃ、ちょ、どこ見てるの……っ!
わたくしは思わずドレスの裾を押さえる。
真っ赤になって、身を捩った。
ホントなに!? なんなの!?
怪我を確認しているだけなんだろうけど、近い……! 明らかに近過ぎる!
毛穴が見えるんじゃないかと思うほどのドアップに、わたくしは狼狽えた。
「ラ、ラディリアスさま……っ!」
うわぁ……。近い近い近い近いっっ……。
思わず出た素の自分に焦って、慌ててラディリアスから目をそらす。
うわっ、バレる! バレる……! 落ち着かなくちゃ。落ち着かなくちゃ……っ。
俺はぎゅっと目をつぶり、必死に平常心を取り戻す努力をした。
けれど焦りが邪魔をして、上手くいかない……。
ドキドキと激しく波打つ心臓が、痛くてかなわない……。
思わず目が潤んだ。なんなの? この状況は……っ!
《素》が出た上に、これほど至近距離ともなると繕いようがない。
俺は震えるように、息をついた。
× × × つづく× × ×