絞り出しクッキー
──シャカシャカシャカ……。
軽快なリズムと共に、わたくしは泡立て器を動かす。
今日は絞り出しクッキーを作るから、泡立てる必要はないのですけれど、柔らかくしたバターに砂糖を加え、クリーム状に練っていく工程がわたくしは大好きで、いつも必要以上に混ぜてしまう。
柔らかいバターの感触と、ザリザリとした砂糖の感じ。不思議とバターと砂糖は相性がよくて、これはこのままパンに塗って食べてもおいしいの。
今日は絞り出しクッキーを作るから、そんな事はしないけれど、今度パンも一緒に焼いて食べてみようかしら……?
そんな風に思いつつ、溶き卵入れる。
もちろん溶き卵も、色が均一になるまでしっかり混ぜたものを使う。
料理を初めてしたときは、徹底的に混ぜるなんて事はしたことがなかった。
前世での母さんも、『卵焼きは卵をあまり混ぜずに作るのが美味しいのよ!』と言っていたから、そういうものなのだろうと思っていたの。
けれど作っていくに従って、その考えは消えていった。
まぁ、そのやり方でも美味しいものは作れますが、作るものによって、やっぱり工程は変わっていく。
今回の搾り出しクッキーは、徹底的に混ぜる。そうしなければ、分離しちゃいますからね。舌触りが。
あ。……でも、わたくしの場合、卵はほとんど徹底的に混ぜる事が多いかも知れません。
卵焼きでも、しっかり色が均一になるまで混ぜ込んでから、焼き上げる方がわたくしは好き。
あつく熱したフライパンに、ほんの少しだけ溶き卵を入れ、何層にも何層にも重ねていく。
均一に混ぜ、薄く重ねた卵焼きは、歯触りがよくって美味しいの。
そこに下ろし大根と醤油。それから、マヨネーズを掛けて頂くのも、わたくしは大好き!
……残念ながら、この国には『醤油』なるものが存在しない。
そもそも『大根』すら存在しない。……いや、存在しないわけではなくて《出回っていない》と言った方が正しい。
何故出回っていないのか……。
前世で当たり前とされてきた野菜たちは、さっきも伝えたように、この異世界では有り得ない食べ物。何故なら魔物の住む森──『西の森』にしか生えていないから。
そこはとても危険な場所で、この世界の人たちは、その野菜たちの存在すら知らない。そんなのって、考えられる?
だからわたくしは時々『素材集め』と称して、お兄さまを引っ張り出して収穫に行く。
その食材で作る料理は、前世の頃のそれと何ら変わりはなく、とても美味しいものだから、その話を聞き知ったお兄さまのご友人方も、時々一緒に来て下さるようになったの。
わたくしはこんなだから、滅多に人と関われないのですけれど、そんな《秘密の料理》を共有する方々とはそれなりの信頼関係が成立していまして、いわゆるわたくしが男というのもバラしてしまってはいる訳なのです。
ですから、今回婚約解消の原因として作り上げた《不義》のお相手方も、この秘密を共有する、貴族の御令息方に協力して頂いたのでございます。
本当なら、嫌な役回りですわよね? だって下手をすればこの帝国の皇家を敵に回すかも知れないのですから。……けれど皆さま、本当に快く承諾してくださいました。その婚約者の方々も巻き込んで……。
《秘密がない》と言うのは、素晴らしいですよね。
けれど《秘密》は、必ず誰しも持っているもの。全てをさらけ出して平気でいられる人なんて、そうそういるわけじゃありませんもの。大なり小なり、人は誰しも《秘密》を抱えている……。
わたくしにとってそれは、《男》だと言うことなのですけれども、その方々は、わたくしが《男》だとご存知ですので、我が国の皇太子に男を娶らせるわけにはいかないっ!! と言って、含み笑いしつつ、快く協力して頂けました。
……まぁ今考えれば、無謀……ではありますよね。この秘密をバラしちゃうとか。
わたくしたちが幼すぎて、事の深刻さを深く考えていなかった事と、重大さを失念していた……というのもあります。
けれどわたくし達は、友人に恵まれていたのでしょうね……誰一人として、この秘密を他へ漏らす方などいませんでした。
……悪巧み? する楽しさもあるので、面白半分なのかも知れませんけれどね。
いえいえ、もしかすると、そのご友人方も、自分の信頼出来る方にはお話しているのかも知れません。わたくし達が気づいていないだけで。
《誰にも言ってはいけない》というルールは、あってないようなもの。
呪文のようにそう繰り返すその言葉に安心して、本当はみなさん、わたくしの秘密をみんなにバラしてしまっているのかも知れない。『これは秘密で、誰にも言うなよ!』と言いおいて、ね……?
そんな事を思い、わたくしは料理の手を止める。
「……」
バレれば命はない……。
たくさんの人が路頭に迷う……。そのようにずっと思っていましたから、今の今まで、必死に秘密にして参りました。
けれどそれは、本当は違うのかも知れない。
現に一部の方々はご存知ですのに、わたくしはこうしてのんびりお菓子なんて作ってる。……それは少し、不思議な事でもありました。
「……いいえ。それでも、油断してはなりません」
わたくしはそうも思う。
かろうじて、みなさんは秘密を守って下さっている。
それを鵜呑みにして、胡座をかいてはいけないのです。この国はけして穏やかな国ではない。皇弟派と呼ばれる者たちがいる限り、安心など出来るはずもないのですから……。
「……」
わたくしは小さく溜め息をついて、再びお菓子に向き直る。
《誰も信じてはいけない》……呪文のように繰り返し呟いたその言葉を、改めて胸に刻み込む。
人との繋がりは必要だけれど、けして心を許してはならない。それはラディリアス皇太子殿下でも例外ではありません。
いくらわたくしに好意を持たれてはいようとも、幼なじみで気心が知れていようとも、超えてはならない壁というものは存在するのです。
夢に見たお菓子を作る生活を送りたいのであれば、けして心を開いてはいけません。
「……」
そう心に言い聞かせつつわたくしはハッとする。
……そう、でした……わたくし、お菓子を作っていたのでしたわ……。
つい考え事に夢中になって、手が止まっていた事に気づく。
……けれど、それも仕方のないこと。
いくら予想がついていたとしても、昨日の出来事は、わたくしの心を深く抉った。
わたくしは気づいてしまった。
今世で大切にしようと築き上げた人との繋がり。けれど、わたくしがこの貴族社会から抜け出し、自由を手に入れる時、それらは全て、捨て去らなければいけないと言うことを……。
「はぁ……」
小さく溜め息をついて、わたくしは泡立て器を再び動かした。
──カシャカシャカシャ……。
小気味よい、泡立て器の音がする。
この音を聞くと、わたくしは何故かホッとする。
気分を切り替え、お菓子作りに専念する。
溶き卵を加え、小麦粉を振るい入れ、粉っぽさがなくなったら、絞り出しクッキーの生地は完成。
絞り出しクッキーはその名の通り、絞り器から絞り出し成形してオーブンで焼いたクッキーなのです。
型抜きのクッキーよりも、小麦粉の量が少ないから、甘みと風味が全然違うのです。
バターをたっぷり使うので、サクサクとした歯ごたえのあるそのクッキーは、ラディリアスさまも大好きで、あっという間に召し上がる。
けれど今日は持って行くわけにも行かないので、あまった材料でアメリカンクッキーでも作ってみようかしら?
手作りのグラノーラを混ぜ合わせ、大きめのクッキーを手で成形する。
食べ応えのあるそのクッキーは、わたくしの好物でもある。むふふと笑いつつ、わたくしは作業に取り掛かる。
本当は量って作った方が良いのでしょうけれど……いかんせん、わたくしは不精者なのですよ。適当さが命なのです……って、褒められることではないのでしょうが……。
まぁ、どちらにせよ、今作っているのはただのクッキーですので、……しかもわたくし達だけで食べるものなのですから、そう気負わなくても良いかなと思うのです。
……献上するわけでもありませんし、ね……?
砂糖とバターは同じくらい。
小麦粉は砂糖の倍くらい。卵は様子を見ながら、一個使ったり半分使ったり……と、こんな具合で作り上げていく。
ふふ。本当に適当ですよね。こんな調子だと、もしかしたらお菓子屋さんは無理かも知れない。
日によって変わる味……とか、有り得ませんもの。
わたくしは肩をすくめる。
けれど、いつも作っていると、大体の分量は分かるもの……。それに色々工夫して作ろうと思うと、決まった分量通りにいかないことも、ままあるのです。
……まぁ、言い訳ですけれど。
ええっと、搾り出しクッキーの生地は、これで完成。
後は生地を三等分に分けて、ひとつは刻んだ紅茶。ひとつはココアをまぶして、そしてもう一つはちょっぴりバニラビーンズを入れ込んで、そのまま焼く。
もちろん忘れてはいけないのが、さきほど言ったアメリカンクッキー。
余った溶き卵の量に合わせて、再びバターと砂糖を混ぜ合わせ、小麦粉を振る。そして今度はグラノーラ。ちょっぴりキャラメル味のグラノーラは、少し前に手作りしたもの。
もうそろそろなくなるから、また作っておきましょう。
さてさてそれはいいとして、本題の絞り出しクッキー。
絞り出しクッキーだから絞り出す……そう思うでしょ? ふふふ。私がそんな事をする訳はないのです。使うのはスプーン二本。
生地を一つのスプーンで掬って、もう一つで丸く形を作って、プレートへ乗せる。そうすると綺麗に同じ量の丸い形が完成するのです。
ちょんちょんとつついてツノをつけ、焼いたら出来上がり。
あたためたオーブンの中に、クッキー生地を敷き詰めたプレートを入れて、わたくしは後片付けをする。
あぁ、そうでした。庭にお花が咲いていたのです。
テーブルの用意をしたら、クッキーが焼き上がる間に花を摘みに行きましょう。テーブルに飾ったら、心が和むかも知れませんから。
そんな風に思いながら、わたくしは傍にある藤の蔓で編んだカゴを手に取る。
ほんのり甘い匂いが部屋中に立ち込めてきて、わたくしは少しだけ幸せを実感する。
上手く出来るかしら?
お兄さまは、喜んでくれるかしら?
用意したアップルティーは、クッキーに合うかしら?
砂糖は少し多めにしたけれど、甘すぎてはいないかしら。
そんなことを思いながら、わたくしは庭へと出ました。
× × × つづく× × ×