めざめ。
チュン、チュンチュン……
チュンチュン……
「おはようございます。お嬢さま……」
毎朝、侍女のメリサが起こしに来る。
「ん……。おはよ」
俺は髪を掻き上げ起き上がる。
……寝ている時まで女……ではない。だから侍女は俺の秘密を知るものに限られていて、新参の使用人は近づくことすら許されていない。
「あぁ……昨日は、しんどかった……」
ポツリと呟くと、花瓶の花を活け替えていたメリサが微笑む。
「ふふふ。フィアさまは、ラディリアスさまに好かれていますもの。婚約を解消して頂けただけでも、良しとしなければ……」
言って振り返る。
「うん。俺が皇太子妃なんて、恐ろしくて生きていけない……」
「ほほほほ。まぁ、フィアさまったら」
メリサは花のように微笑む。
メリサは、俺がこの侯爵家に産まれる前から働いている、ゾフィアルノ侯爵家の使用人だ。
すでに五十を超えていて、綺麗に整え結い上げられているその髪には、所々白いものが見受けられる。
前世の日本だったら、母親代わりだったのかも知れないが、婚期の早い今世では、母親……と言うよりも、祖母の代わり……と言った方が近い。
けれど今世での父方の祖父母は、俺が産まれる前にすでにこの世にはいなかったし、母方の祖父母は皇弟派だから、会う機会もない。
前世では核家族ってやつだったから、盆と正月くらいにしか祖父母に会う機会はなくて、正直俺は、祖父母と言うものをよく知らない。
あ……いや、前世の父方のじいちゃんとは、よく会ってたか……。
前世の俺のじいちゃんは、剣道の道場を開いていた。
俺も小さい頃にはよくそこに通っていて、基本的な剣術を教えてもらった。
けど、このじいちゃん。ひどい高血圧を患っていて、ある寒い冬の朝、ポックリと逝ってしまった。
だから俺が、じいちゃんの事で覚えていることと言ったら、躾の厳しい人だったって事くらいだ。
『お前が孫で幼かろうが、みんなと同じように剣術を学んでいるのだから、生徒には変わりない。俺のことは先生と呼べ!』
事ある毎にそう言って、祖父という位置づけをけして許さなかった。だから俺はじいちゃんを《じいちゃん》と呼べないばかりか、じいちゃんの事を《習い事の先生》という位置づけでしか見れなかった……。
……それを思うと、ちょっと寂しい気もする。
だって父さんは、一人っ子だったから。だから孫は俺と姉ちゃんの二人きり。
その孫が《じいちゃんとは思えない》とか……、悲し過ぎると思う。
けど実際、実の息子である父さんにも、同じ対応だったというから、それはそれで、じいちゃんなりの愛情表現だったのかも知れない。
そんなこんなで、俺は祖父母というものをよくは知らないけれど、メリサは多分、《ばあちゃん》て感じなんだと思う。
仕事の都合上、ほとんど一緒にいてくれなかった今世の父と母に代わり、メリサは俺たち双子の面倒をよく見てくれた。
義務的な愛情ではなくて、ちゃんと家族として見てくれた。特殊な状況に置かれている俺たちに、一身に愛情を注いでくれたんだ。
本当に、感謝してもしきれない。
メリサは五十代にしては多いんじゃないのかと思うくらい、白髪が生えている。顔立ちはそう年くってる様には見えないから、少し変な感じだ。
茶色の瞳と髪の毛の優しい色合いが、メリサの性格を物語っていた。
メリサは優しい。
本当なら、実家のあるトーマ村で、家族と住むはずだった。けど、俺たちが産まれたが為に、帰れなくなった。
……俺たち、というより、俺が産まれたせいかな。
俺たちが双子じゃなかったら、今頃は自分の子どもと共に、畑でも耕していたかもしんない。だけどそれは叶わなかった。
実家に戻る自由どころか、結婚する権利すら奪われた。
メリサは、産婆の資格を持っていた。
……そう、産まれて来る俺たちを取り上げてくれたんだ。だからその時に、秘密を知ってしまい、帰るに帰れなくなってしまった……と言うのが現状だ。
無理強いをされたわけではない……とメリサは言ったけれど、本当のことはよく分からない。そう言って、俺が責任を感じないようにしてくれたのかも知れないし。
巷では《人格者》……と言われている父と母だけれど、所詮、侯爵家……お貴族さまなのだ。ここまで秘密を知った者を、簡単に帰すはずがない。
きれい事ばかりじゃなく、……当然、汚いこともしているんじゃないかと思う。
……無言の圧力……と言うものが《全くなかった》……とは言いきれないはずだ。
ただ、そんな秘密を知るメリサだからこそ、普通の侍女よりも給金が高いし、待遇もそれなりにいい。
お金でどうこう出来るとも思えないが、それなりに、折り合いはついているのかも知れない。
……でも、俺なら多分、納得いかない……。
だってそうだろ? ただの赤ん坊二人に、自分の人生を潰されるんだぞ? 我が子ならまだいい。だけど我が子じゃない。俺たちのせいで、メリサは自分の子どもすら、その手に抱けなかったんだから……。
だけど、メリサは、泣き言一つ言わないんだ。
秘密を抱え、俺と同じように他の圧力を感じながら生活しているはずのメリサだけど、そんな感じは微塵も見せず、いつもニコニコと俺の相手をしてくれている。
その笑顔にいつも俺は救われて、女の姿で生きていかなければならないこの状況下でも、なんとか卑屈にならずに過ごすことが出来た。
本当に、有難い存在なんだ。
「メリサ……今日は絞り出しクッキーを作ろうと思うんだ」
俺は髪を梳いてもらいながら、鏡越しにメリサに言った。
メリサは微笑む。
「ラディリアスさまにも、お持ち致しますか……?」
「……」
尋ねられて、俺は押し黙る。
「ううん。行かない。……俺たちは謹慎中だから」
「……それは残念ですね。絞り出しクッキーは、ラディリアスさまのお気に入りでもありましたのに」
メリサは困った様な顔をする。
「ふふ。アイツさ、本当は男が作ったクッキーだと知ったら、どんな顔するんだろうな?」
俺はおどけて言う。
「ふふ。そうでございますね。……けれど、フィアさまは女性であっても、男性であっても、見目麗しくございますから、さほど驚きはしないと思いますけれどね……?」
そう言ってメリサは悪戯っぽく笑いながら、髪を結い上げてくれる。
メリサは指先が器用で、複雑な編み込みも素早く綺麗に仕上げてくれる。
……いや、男の俺が言うのも何なんだけどさ。この状況で生まれ育つと、男でいるよりも女の姿でいる方が多いものだから、思考的に女性的になるのはしょうがないような気もする。
どちらにせよ、ぐちゃぐちゃに結い上げられて、途中ずり落ちてくるような髪型よりも、綺麗に結い上げて一日中気にせず過ごせる方がいいに決まっている。
結い上げてもらった後に、俺は自分に魔法をかけ、体型を女性に近づける。
身長がそう伸びなかったから、変化させると言ってもそう変わりはしない。体に丸みを帯びさせるくらいだ。
メリサが《驚きはしない》と言うのも、満更嘘でもないかも知れない。
体型を女性に近づけた後は、衣装を選ぶ。
「んー。お料理をなされるのなら、コルセットを使用しないドレスに致しましょう。……どのみち、お出かけにはならないのでしょう?」
メリサが俺を振り返る。
「ん? あぁ。行くとしても、フィデルの所にしか行かない。……フィデル、落ち込んでいなければいいけど……」
兄であるフィデルの住む居住区と、俺の住む場所は違う。
正確に言うと、俺のいる部屋……屋敷は離れになる。
侯爵家と言えば、広大な敷地の中に、いくつかの建物が建ち並び、そこに主人である父や母、兄が過ごす。
当然、その敷地を管理するだけの使用人を雇っているから、その者たちの住む居住区もある。
だけど俺は、この秘密を抱えているから、少し離れた一軒家をもらって、生活をしていた。
不自由はない。
ないどころか、すこぶる快適だ。
一般的な家屋であるが為に、部屋がいくつかあり、風呂もトイレもある。ベランダもついていて、そこには日除け付きのテーブルセットが置いてある。天気のいい日には、そこで作ったお菓子を並べて、メリサやフィデルとお茶会をする事もある。
前庭には、簡単な菜園を作った。
バジルやローズマリー、それからオリーブやミントなどのハーブや香辛料は、そのほとんどが魔物の住む西の森に生えていたので、引っこ抜いて植えただけだ。
西の森の植物は、前世の農作物がたんまりとあった上に、そのまま植え替えても、なかなか枯れない丈夫なものだった。
農業……植物を育てる知識なんて、ほとんどなかったんだけどね。なんの問題もなく、全部すくすくと育ってくれている。
しかも西の森にあるものは、植物ですら魔物なのかも知れない。何故って、冬でも枯れることがないんだ。……いったい、どんな仕組みになっているんだろう?
そしてその菜園の近くには小川がある。
正確にいうと、菜園の植物が育てやすいように、小川の近くに畑を作った。
俺は水魔法が得意だから、こうやって環境を整えるだけで、面白いほどに植物たちは育ってくれるんだ。育ってるっていいよな。メリサも喜んで、菜園の手伝いをしてくれる。
この小川は、なにも菜園の水やりだけの為にあるわけじゃないんだ。
小さい頃はこの川で、川遊びも楽しんだ。
上流の方へ行けば小川は本流と繋がる。その本流では、魚釣りだって出来た。
それに虫取り。
……あの頃はラディリアスもよく遊びに来ていて、本当に楽しかった。
今はもう大人になって、遊びになんて行かなくなったけれど、その分この屋敷に設置されているキッチンで、俺はお菓子作りや食事作りを楽しんでいる。
「まぁ、あのフィデルさまが落ち込むですって?」
メリサが素っ頓狂な声をあげた。
「落ち込んでなんて、おられやしませんよ? むしろ『今日は休みだぁ!』と喜んで、馬に乗って駆けておられました。……フィデルさまは動物がお好きですから、仕事が忙しい間は乗馬も出来ないと言って、ブツブツ言っておられましたからね。ちょうど良かったのでございますよ」
そう言って笑った。
「……じゃあ、良かった。絞り出しクッキーは少し甘めにしよう。刻んだ紅茶の茶葉を入れたヤツと、それからココア味。あとプレーンのやつ。アップルティーと合わせて。たまには三人でお茶会をしよう?」
そう言うとメリサは喜んだ。
「まぁ! フィアさまとフィデルさまでお茶会! 随分久しぶりですこと。それは張り切ってクッキーを作らないといけませんね。……ですがフィアさま? 私は本邸の方で今後の取り決めなどがありますから、少し席を外させていただきますが……」
申し訳なさそうに言うメリサに、俺は笑って言葉を返す。
「あ。いいんだ。俺だけでも大丈夫だから」
それに……と話を続ける。
「俺たちのした事の後始末なのだろ……? いつも迷惑を掛けてしまって……ごめん。でももう、これで最後だから……」
俺は苦笑する。
思えばラディリアスと婚約してからのこの一年、心が休まらなかった。
いつ向こうが《婚礼の日取りを……》と言い出すのかと、ゾフィアルノ家みんなで、震えていたのだから。
まだまだ後処理に悩まされるかも知れないけれど、これでようやく平穏な日々が戻ってくる。
俺はそう思って、にっこりと笑った。
けれどメリサの表情は複雑だ。
「まぁ、そんな恐縮ですわ。……けれど、ねぇ……? それは、どうでしょう……?」
困った顔で俺に微笑み返す。意味ありげなその言葉に、俺は戸惑う。
「? 『どうでしょう?』……それって、どういう意味……?」
俺が首を傾げると、メリサはふわりと笑う。
「……ふふ。そうですわね。このメリサが、まだまだフィアさまのお傍にいたい……と言う意味でございますよ。……さぁ、姫さま、お手をお上げくださいまし」
そう言ってメリサは、手首のリボンを結んでくれた。
フリル少なめのそのドレスは、比較的動きやすく、手首を飾るその大きめのリボンが可愛いかった。
男から女へと変貌を遂げたわたくしは、くすりと笑う。
こうも馴染んでしまうと、もう前世のような生活は、送れないかも知れません。
わたくしはフィリシア。
ゾフィアルノ侯爵家の娘。
本当は男でも、女性として、問題なく過ごせるちょっと変わった境遇の侯爵令嬢。
早いところ貴族社会を抜け出して、一人静かにお菓子屋さんを営みながら過ごしたい。
それがわたくし唯一の、大切な《夢》なのです。
× × × つづく× × ×




