揺れる心
煌びやかなシャンデリアがいくつもキラキラと輝く大広間。
複雑な幾何学模様をあしらった天井に、重厚な葡萄色のカーテンに、それから柔らかそうなベルベットのソファ。
所々に置かれた大輪の花々は、それでも自分たちは主役じゃないのよ……と、楚々と添えられる。
様々な料理が所狭しと並べられ、見る人が見れば、おとぎ噺の国のよう。
ただ、食事に手をつける者はあまりなく、美しく着飾った貴族たちは、そのほとんどが談笑し、ダンスを踊ることに忙しい。
楽団が奏でる軽快な音楽に酔いしれて、噴水のある大きな中庭では美しい花々が咲き誇る。ほんのりとあかりの灯るその中庭の片隅では、恋人たちが密やかな逢瀬を楽しんでいる。
……そんな香水の匂いがむせ返る、魅惑的な夜のこと。
今日わたくしは、双子の兄であるフィデル=フォン=ゾフィアルノにエスコートされ、ラディリアス=フィル=ド=プラテリス第一皇太子の誕生日パーティーに出席している。
……。
正直、名前が覚えられない。
いやいやいや。分かってはいるのよ? わたくしも侯爵家の一員として、主要な貴族の名前くらい覚えられなくて、どうするのって。
……けれど、そう思ってはいるのですけれど、こうも長い名前にしなくても良いのではなくって? とも、思っている。
そもそもそんな事を思うのも、わたくしがかつて、日本と言う国の国民だったからかも知れない。
日本では、こんなに長い名前はなかったから。
苗字と名前だけ。
でも、それだけで十分だったのよ? どこの誰だか分かるし、困った事もなかった。
だからわたくしは、この長ったらしい名前が気に食わない。苗字と名前だけでいいと、わたくしは本気で思っているの。
けれど、今のわたくしは、日本人ではない……。
今は、ヴァルキルア帝国という国の、ゾフィアルノ侯爵家の娘、フィリシア=フォン=ゾフィアルノ。
何が悲しくって、こんなにも長い名前を考えたのかしら?
いったい誰が考えたのかしら……?
どれだけ暇だったのかしらね……?
あれかしら。あの妙な悪霊に取り憑かれないように……とか、そんな迷信じみた理由からかしら? それとも、家の威厳を保つため?
「はぁ……」
わたくしは静かに溜め息をつく。
時々起こる笑いの渦に、嫌気がさす。
どんな噂話をしているのでしょう?
もしかしたら、わたくしの事かしら……?
いいえ。あのことはまだ、皆さんご存知ではありませんもの。それは有り得ない。
わたくしは、軽く頭を振る。
爵位だの、家の歴史だのを盛り込んだその長たらしい名前は、わたくしには重すぎて、どうにも耐えられそうにない。
いっそ町娘のように、『川岸の近くのフィリシア』……とか、そんな簡単な名前であれば良かったのに……。いつも、そんな風に思う。
確かに、身分が低ければ、暮らしは苦しいかも知れない。けれど、この窮屈な生活よりかは、幾分自由なのではないかしら?
……そう思うと、悲しくなる。
どんなに願っても、わたくしはただの『フィリシア』にはなれない。
どんなに願っても、わたくしはこのヴァルキルア帝国の侯爵家の娘『フィリシア=フォン=ゾフィアルノ』なのですもの。
どんなに足掻いても、嫌だと駄々をこねても、その事実は、消えてはなくならない。
煌びやかな衣装を着飾り、お化粧をして、ほほほほほ……と笑いながら、どうでもいいような、つまらない噂話に花を咲かせる。
何をするでもなく、日がな一日お茶会や舞踏会。
仕事といえば、家の使用人がそつなくこなしてくれて、寝ていても生活が出来る……。そんな人生の、いったい何が楽しいのかしら……?
……けれどそんな事を言ったら、《楽をして、飢えることのない生活に何が不満なんだ!》と平民たちは、きっと怒るのでしょうね……。
けれど、わたくしは、わたくしの今の生活が幸せなものだとは、けして思えない。
いつも何処かしら逃げ出したくて、ぼんやりと外を眺める。
「……」
そしてその事実を、今、傍にいてくれるお兄さまには、けして知られてはならない。
もちろんお父さまや、お母さまにも……。
あぁ、空を飛ぶ鳥になれたら、どんなにいいだろう……と、わたくしはいつも窓の外を見る。
わたくしのこの生活の中で、やる事といったら、虚勢を張りまくった貴族たちの、長たらしい名前を覚えることくらい。
……それがいったい、何の役に立つというのかしら。
名前など簡潔にして、ただの『フィリシア』として生きていきたい。そうできたら、どんなにいいだろう?
「ふふ……」
わたくしは嬉しくて、思わず微笑む。
どうしてかって? 遂におかしくなったんだろうって?
いいえ違うわ。
今日! わたくしは、やっと自由になれるの! ずっと思い描いてきた、自由への第一歩。それが今日この日、やっとその願いが叶うのよ?
ふふふ……凄いでしょう? わたくし、この日のために、本当に頑張ったんですもの。色々な方々に力をお借りして、迷惑も掛けてしまったけれど、今日はいよいよ正念場。この期を逃したら、次はどうなるか分からない。
必ず……か・な・ら・ず! このチャンスをモノにしなくてはっ!
純白の扇で顔を隠し、こっそり笑ったつもりなのに、近くにいるお兄さまにはすぐにバレてしまいました。……わたくしとした事が、とんだ失態ですわ……。
お兄さまはしかめっ面で、こちらを覗く。
「……。フィア? 何を笑っているの? 今日は沈痛な面持ちでいてくれないと困るのだけれど……」
そう囁いた。
わたくしは慌てて、扇で顔を隠すと、目を伏せる。
「ええ。分かっていますわ。……お兄さま」
けれどこの微笑みは、なかなか消えてはくれない。
だって、本当に嬉しくて仕方がないんですもの……!
何が今日、起こるのか……。
ここに居並ぶ煌びやかなお客さま方は、想像もつかないのに違いない。
その事を知った時、皆さまはどう反応するのかしら?
「……」
その事を想像して、わたくしは暗く押し沈む。
……そう、……そうでしたわ。《沈痛な面持ち》……確かに喜ぶべきことではありませんものね……。
何が起こるのか。
それはおそらく今日、この場で、今現在わたくしの婚約者である、ヴァルキルア帝国の第一皇子であるラディリアス皇太子殿下から、婚約破棄の報告があるはずなのです。
婚約破棄……!
おそらくそれは、とてつもなく不名誉な事なのでしょうが、わたくしたち家族にとって、ありがたい事でもあるのです。
どういうことなのかって……?
まぁ、それはおいおい分かる事ですわ。
とにかく、この婚約自体が、我がゾフィアルノ家にとっては恐れ多い事で、悩みの種だったのでございます。
けれどそれが今日! この日に! 開放されるのです。
わたくしにとっても、自由になる日。
《王妃》という縛られた地位など、わたくしには無用の産物。ただの《フィリシア》として生きていける可能性が、再び私の手元へと戻る日!
こんなに晴れ晴れとした気持ちになったのは、いつぶりでしょう!
お兄さまは《沈痛な面持ちで》……とは言いますけれど、確かにそれはそうなのですけれども、それはなかなかに難しいことでもありました。
思わず、くすくすという含み笑いが、漏れてしまうのです。
そんなわたくしをお兄さまは、その澄んだ湖のように濃く美しいエメラルド色の瞳で覗き見る。
わたくしは思わず目を細める。
お兄さまの困った顔を見ると、少し申し訳なくもなる。
わたくしとお兄さまは双子だからか、すごく似通った《色》をしている。
わたくしの瞳もお兄さまと同じエメラルド色。髪はチョコレートのような深いブラウン。
少し癖のあるお兄さまのその髪は、短く切りそろえていている。毛先のみふわりと跳ねるものだから、お兄さまは嫌がってらしたけれど、その優しいカーブはむしろ好感が持てる。
一方わたくしはと言うと、他のご令嬢たちと同じように長く伸ばしているので、邪魔にならないよう、編み込んで結い上げている。
その結い上げに入り損ねて、いく筋かの髪がくるりと螺旋を描き、下へと伸びているのだけれど、それが可愛らしいと、わたくしのお母さまはおっしゃって、わざと数本残すように侍女たちに指示を出す。
けれどわたくしは、嬉しくない。
可愛らしくも美しくもあろうと、わたくしは思っていないのだから。
多分わたくしは、常識はずれなのでしょう。
生まれ出たその瞬間から、わたくしの人生は大きく傾いた。
そのこと自体が不幸だとは思わない。けれど息苦しいこの貴族社会の中で、わたくしは生きていく自信がない。
今日のこの状況は、皇帝陛下が急にラディリアスさまとわたくしの婚約をご命じになられたが為に、起こってしまった、予想外の出来事なのですけれども、結果的には、当初お父さまとお母さまが提示してくれていた、わたくしの希望に添う未来へと繋げられたのです。これはもう、僥倖としか言いようがありません。
ようやく、元々あった鞘の中に、収まってくれるのですから、これが喜ばずにいられるものでしょうか……?
ずっとずっと待ち望んでいた、わたくしがわたくしであったからこそ許された、約束された自由な《時》の始まり。
わたくしはそれを実感して、一人ほくそ笑む。
笑いを堪え、扇の後ろで細かく震える。
「……。フィア? ……皇太子さまが見ているよ……」
「……っ!」
お兄さまのその言葉に、わたくしはビクッと肩を揺らす。
そしてそっと扇から、顔を覗かせる。
「!」
一瞬、皇太子さまと目が合い、慌ててお兄さまの後ろへと隠れた。
「フィア……」
困ったようなお兄さまの声に、わたくしは小さく謝った。
「お兄さま……ごめんなさい。でも、もう終わりにしたいのです……」
わたくしはお兄さまの服の端を掴み、そう呟いた。
お兄さまからは、仕方がない……と言ったような溜め息が漏れる。
そして、皇太子さまから隠すように、わたくしの頬を撫でた。
お兄さまはわたくしと双子なのだけれど、わたくしよりも遥かに大きい。本当に双子なのかしら?
それが本当は悔しくて、すごく嫌だったのだけれども、今はそれが有難い。
お兄さまの背に隠れると、わたくしはきっとラディリアス皇太子さまからは、全く見えないはず。
わたくしは上機嫌になって、お兄さまにもたれ掛かる。
「あの……。フィア……?」
お兄さまの悲痛な声がわたくしに届く。
「……はい? お兄さま。あ、重かった……ですか……?」
恐る恐る尋ねてみる。
けれどお兄さまは、少し苦笑して言葉を続ける。
「いいや。重くはないよ。えっと、そうじゃなくてね……」
お兄さまは困った顔をこちらへ近づける。
「あの、それが……まだ、見てるんだけど。ラディリアスが……」
耳元で小さく囁いた。
「……」
わたくしは黙り込む。
そう言われても、わたくし、どうすれば良いのか分からない。
ただそっと、身を縮めてお兄さまの影に隠れたのでした。
× × × つづく× × ×
お読みいただき、ありがとうございます。
本作品の更新は月曜日と木曜日を予定しています(*^^*)
0時更新です。
更新ペースを少し緩やかにした分、
後書きも書こうかなぁ……なんて思った今日この頃。
フィアを可愛く仕上げたいなと
思ってますᕙ( ˙-˙ )ᕗふぬ!