勉強
その日は朝から機嫌が良かった。
まず頭が靄がかってないのだ。これだけでもうなんでもできそうな気がする。次に体が軽い。やっぱり、怒涛の1日13時間睡眠は人を変えるね。
なんかしたいなーって思えるくらいには絶好調だった私はいつも通りの三度寝をせず、程よい難易度でいい感じにやりがいのある何かを求め、部屋をうろついていた。
そんな気分を見透かされていたのだろうか?
自室で探検隊ごっこを始めた私に、メイドさんがこんな事を言ったのだ。
「姫さま、今日はちょっとだけ、作法のお勉強をしてみませんか?」
脳みその足りない私は(最近の自分の行動を振り返ると、どうも転生ハンデがなかったとしてもやっぱり馬鹿なんじゃないかって思うようになってきてる)、10歳児対象のお作法なんて簡単じゃん!と、
「はいらい。たまにはやる」
おっけーしてしまったのだった。
「はい。それでは姫さま、まずは正しい座り方と立ち方、歩き方から始めましょう」
どこからか持ってきた椅子の前でメイドさんが言う。
(この部屋に椅子があるのって何年ぶりだっけ?)
さあ?私が転んで、頭ぶつけて、お父さんがキレて以来だから……5年前とかその辺じゃない?
クッション生活の長い今世の私にとって、部屋の中央に鎮座している木製の椅子はなかなかに異物である。私は早速近づいて、椅子の周りを一巡り。クッションがついてて、背もたれに装飾が彫られているところを見ると、結構高級なやつではなかろうか。
(それよりもさ、なんか床が絨毯になってんだけど)
あ、それ気になってた。内履き越しでも伝わるもこもこ感。多分あれじゃない?花瓶。
そう、この前アジサイの入った花瓶を叩き割ってやったのだ。なんか起きるたびに目に入るからムカついた。生活には変化が必要なのだ。
その時、私は花瓶を床に叩きつけるという方法を採ったので、おそらくそのせいで床がふかふかになったのだ。
(だってあれは花瓶が悪いじゃん。私はただ、花瓶はどこまで花瓶なのか気になっただけだもの)
は?
(つまり、花瓶っていうのはすなわち、花が入った瓶でしょう?壺にしろ、甕にしろ、グラスにしろ、花が入ってさえいれば花瓶と呼ばれるわけ。私的に。ここで問題なのは、花が入っていない花瓶を花瓶と言えるかだと思うの。花が入っていない壺を花瓶と言い張れるかどうか、もしそうでないなら一体どのタイミングで花瓶は花瓶でなくなるのか。飽くなき精神的探求によって、私は花瓶が花瓶でなくなるのは花瓶が花以外のものを入れられた時だということに気がついたの。
本来花瓶というものは存在しない、つまり花瓶というのは物の名前じゃなくて役割の名前だったということね。おじさん、とか幼女、とかじゃなくて、警察官、とかお花屋さん、とか。『おじさんの幼女』はいないけど、『警察官の幼女』なら存在してもおかしくはないでしょう?……それがありならおじさんの幼女もいそうっていうのは置いといて。うん、例えが悪かった。
つまり、花瓶は花を入れるから花瓶なのであって、『花瓶として使われる壺』みたいな言い回しが可能ってことなの。花瓶は職業みたいなものだから。物の名称ではなく、役割の名称だから。でも、職業って事は、終わりもまたあるという事。花瓶として、花を入れて飾る容器として以外の使われ方をしたその時、花瓶は花瓶じゃなくなる。壺なら壺、瓶なら瓶と、本来の名称でしか呼ばれなくなる。
そこで私はさらに考えた。どうしたらそんな悲劇を防げるか?花瓶が花瓶でなくなる、という現象は花瓶にとって、人間で言うところの辞職や失業にあたるはずだ。物の意志が伴っていないからリストラっていうのが正確かもしれない。さすがにそれはかわいそう。
私だって自分の身の回りの雇用を守ることくらいするのだ。私のために雇われて花瓶としての地位を手に入れたのだから、私にはそれを守る義務がある。
じゃあ、どうやって花瓶の花瓶たる地位を確固たる物にするのか。私は先程、花瓶というのを職業に例えた。ならば話は早い。例えば生命保険なんかが参考になると思う。生涯でその人が稼いだであろうお金は、その時のお給料で決まるのだ。
つまり!私は花瓶を殉職させてあげたのだ。一度割れてしまえば、もはやそれは割れた花瓶。原型が壺だったか瓶だったかなんて気にする人はいない。ただ花瓶の破片として扱われる事だろう。ニュースとかだって、おじさん殉職、とは知らされない。職務に殉じると書いて殉職だから。花瓶だって割られるのは仕事の範疇みたいなところあるじゃん?警察官殉職、と発表さ)
私のはずなのに訳分かんねーこと言い始めたので、一旦思考放棄。
脳みそがクリア過ぎるのも考えものだって思った。
とりあえず目の前に集中。
「えー、姫さま、椅子には背すじを伸ばしてお座りください」
うるさいなぁ。こちとら椅子に座るなんて数年ぶりなのだ。いつものでっかいクッションがいい。
(大丈夫?また暴れるパターン入る?)
いや、そんないつも暴れてるみたく言われても……。
(私には分かるよー。あと30分もしてごらんなさい、私は絶対飽きる。そんでもってメイドさんの指示がうるさくなって、寝る。賭けてもいいね)
そりゃ私の体なんだから私が分かって当然でしょうが。
駄目だ、意外とテンション上がってる。
まだこの体の持ち主が私以外にいると考えていた頃、私は1度知能テストみたいなのをやらされたのだ。あんまりみんなを期待させて、本来の体の持ち主の負担になるのも悪いかな?と思って、何にもしなかったのが運の尽き。
あれ以来頭が空っぽだと思われて、この手の勉強はご無沙汰してたのだ。
ふっふっふ。
あの時と今とでは状況が違う。今の私は、一切合切手加減する必要が無いのだ。心の思うままに、この転生者たる私本来のスペックを余すところなく発揮して、馬鹿な子リアちゃんという不名誉を払拭してくれる。
たかが10年のブランクがなんだというのか、私は転生者なのだ。この体の持ち主は私だけだ。どこにも遠慮する必要なんてない!
(まあ4、5年前その事に気付いてからもだらだらしてたんだけどね?)
……そうだけど。でもさ、黙ってた方が人生イージーモードじゃないかって思っちゃったならしょうがないじゃん?
(うん。それはしょうがない。飽きるまで布団でゴロゴロしたあと、クッションにぼすっと座り込んで食べるドーナツは最高だし)
でも私は変わるのだ。さすがにやばいとみた。このまま行くと破滅一直線である。
ゲーム……つまり本来の歴史なら、私は物語の中盤あたりで殺される。私の護衛騎士が主人公ちゃん達の反乱軍に参加する時、手土産に私の首を持ってくるイベントがあるのだ。
まだまだ時間はあると思うけど、今のままだと為すすべが無い気がする。
せめて配下に裏切られ末路は回避して……。
「姫さま、姫さま!もっと背すじを伸ばして、まっすぐ前を見てください。そうです、手は指の先まで伸ばして。まったく、今まで何をやってきたのか……ぁあなんでもございません!姫さまは初回にしてはよく頑張っていらっしゃいます!」
うん。そうだね。
(自分で言うのもあれだけど、酷い)
まず背すじが伸びない。クッションに寄っかかるのを常とする私のの背筋は、私の上半身をまっすぐ保つことができない。あと座ってるのがきつい。足が地面につかないのが地味にストレスたまる。
まさか人の指示に従って動くということが、こんなにもストレスになるなんて。失礼します、とか言いながら手を使って背を伸ばさせにくるメイドさんに軽く殺意が湧いた。
(これやっぱり暴れよっか。この椅子とか適当に投げればそれで済むよね?)
ちょっと忍耐力なさすぎない?
(はあ?私もうかれこれ5年はこの部屋に引きこもってますけど?)
忍耐力が無いから引きこもったんでしょ……!
そうだった。
(いや、だってさ、まだ椅子に座っただけだよ?こっから立ったり喋ったりがあるんだよ?)
あー。それちょっと無理かも。校歌も歌わないタイプの私だから。
(じゃあさ、もう十分頑張ったって事で)
ん、んんん……。分かった。分かったよ。これは私には無理だ。死ぬまで天国ですごそう。
「さ、姫さま。次は立つ練習です。立ち上がり方にも作法というものがありまして……」
(ほら、暴れよ?私の本性が獣と大して変わらんという事を思い知らせてやれ!くふふ、大丈夫大丈夫。今さら発狂したとかの話にはならないもの。もう落ちるとこまで落ちてるっうっひゃっひゃっひゃ!)
よっし、やろっか!暴れよう。長い付き合いだったねメイドさん、残念ながらあなたの教育は全て無駄だったのだ!だってねぇ、そんなお上品なお勉強を忍耐深くできるようなら初めっからこんなとこには引きこもってないって話だもの!
(ふふ、はじまる前からザマアミロ。ちょっとは心を開いたと思ったか?残念、確かに私はメイドさんとお父さんくらいとしか話さないけど、それは他の人が話しかけないからでしようと思えば誰にだってコミュができるのだ!知らなかったでしょ?)
私はもう落ちるとこまで落ちてるからね、失うものなどなーんにもない。考えてもみてごらんなさい、もう10歳だっていうのに、食っちゃ寝するだけだよ?まだその辺の町の子連れてきた方がマシな頭してるよ?
…………。
(で、どうしてそんな素敵な企画を始めないの?)
そりゃだって、私にそんな事が出来ると思って?
(……花瓶だって1人の時に殺ったしね)
長年私の面倒を辛抱強く見てくれたメイドさんの前で野生に帰る勇気があるなら、私引きこもってない……。
「はい、よくできました。立ち上がり方はまあ及第点ですよ、姫さま。次はお辞儀の作法です。お辞儀をする時は、腰を……」
私の臆病が恨めしい。きっとホンモノなら、ここで駄々こねてそのまま眠れるのだろう。
意識だけはずっとクリアなままで、いろいろ諦めた私の代わりにメイドさんの指示に素直に従っている。
あー、今日の夕飯なにかなー。パンケーキでありますように。この間メイドさんに、メープルシロップとパンケーキをリクエストしておいたのだ。
いつも使っていない筋肉を使うから、(使わない部位の、ではないところが我ながら恐ろしい)だいぶ疲れてくる。
私は死んだ目でお作法の勉強をしながら、心をパンケーキで埋め尽くしていた。