アジサイ
ある日の夕方。午後のお昼寝も終わってしまい、私はベッドの上でぼんやりとしていた。無理な体勢で痺れかけていた腕に、どくどくと血液が送り込まれるのを感じる。
広い部屋だ。窓は一箇所だけ、ただしカーテンが閉まってる。天蓋付きのベッドにいるからいいものの、床で仰向けに寝っ転がりでもすれば、くらくらするような高さの天井が目に入る。多分立方体に近い縦横比だ。
扉も窓と同じ一箇所のみで、以前と変わりなければ外から鍵が閉められている。扉のそばには小さな棚があって、その上に花瓶が飾られている。壁と同化しそうな薄い黄色の花瓶には青いアジサイが活けられていて、多分夏が近いのだと分かる。
枕を背もたれにして、分厚い掛け布団を引き寄せる。少し上体を起こしてむにゃむにゃするこの時間が、私は大好きだ。運がいいとまた眠れるのだ。
布団を引き寄せる時に必要なのは、出来るだけ暖かい空気を逃さない事。持ち上げるだなんてもっての他だ。枕ごと上手にくるまるのが出来るようになったのはここ数年。
私のくるまり癖に気づいたお父さんが、ベッドからはみ出て床につきそうなくらいに大きい掛け布団を特注してくれた。何よりこの重みがいい。私を絶対に逃さないという、お布団の強い意志を感じる。
体全身が水の中に浸かってるくらいの重みがかかって、暖気は布団の下に満ち満ちて、そんなだから私の体温はぐっと上がり、ぐらぐらと頭の回線が焼き切れたように一瞬で眠れるのだ。
重い布団を引き寄せ、枕ごと背中の後ろにくるりと回して1ミリたりと冷気の入る隙間を塞ぐ。今起きたばかりとはいえ、まだ頭はぼんやりしてる。ここからもう一度夢の世界に旅立って、さっき撫でそこねた白猫を今度こそ撫で回したい。布団の準備は整った、あとは適当に考え事をしてればすぐだ。
瞼の重みに抗う事なく目を閉じて、呼吸を落ち着けると(さっき布団を引き寄せたせいで乱れていたのだ)、だらりと伸ばした右手が何かを掴む。
目の前に飛んできた白い球を、右手のそれで打ち返す。不思議と当たった感触は無くて、でも球はネットを超え、紺色の卓球台で弾むと、重力がないかのように飛んで行く。
大きな体育館だ。ステージには第六十八回卒業生贈呈と刺繍された赤紫色の幕が下がっていて、アーチ状の天井には等間隔で大きな照明が吊られている。
床にはコートの境界線を表しているのだろう、色とりどりのテープが貼ってあった。
前からは白い球がたくさん飛んでくる。そりゃそうだ、県大会の常連なのだから、球を一度に飛ばすくらい朝飯前だ。胸を借りるくらいの気持ちで、返せそうな球だけ打てばいいや。
ちらっと横を見ると、得点板が凄いことになっている。ストップウォッチと変わらないくらいの早さで数字が増えていくのだ。板をめくる今までのアナログ仕様では間に合わないから、今シーズンからデジタル板が採用されたんだと突然思い出した。
とにかく足を動かさなきゃ。体勢を低くして、足を軽くハの字に構え、左右どちらにも対応出来るように。一歩踏み出すたび布の擦れる感覚がある。前に踏み出すだけなのに、やけに足が重い。
ぐらっと視点が揺れたと思うと、目が開いて体育館の幻は吹き飛んだ。座った状態で、立っている夢を見たから、三半規管が狂ったのだ。足はまだ前に進もうと、布団を押し上げる虚しい作業を続けている。
一瞬落ちる、浮遊する感覚。
足の方に、
吸い込まれて、
布団の中に落ちていく。
私の上半身がくらりと揺れて、思わず身構える。こめかみの脈拍がどんどん早くなって、頭蓋骨がずきずき揺れて、目の前に布団が迫って
……はふう。ドリーム終了。
まだ心臓がどくどくしてる。視界の端には黄色い花瓶とアジサイ。ちょっと汗かいたかも。私は上半身だけ布団から抜け出す。
(ドリーム?トリップじゃなくて?)
全然違うし。
そこは譲れない。
卓球の夢、久しぶりに見たなあ。あんまりにも今世に中身が無さすぎるからか、前世の夢を見るのは結構多いんだけど、卓球なんて授業でやったくらい。
(なんだっけ?確かほら、授業中にさ)
あー。あの、足のやつだ。
(『そこ足曲げすぎだよー。ほら、そこ!お前だよ!気づけよ!』ってさ)
いや、私変なことしなかったし。足内側に曲げろって言われたからスキーの要領でやったら曲げすぎただけだから、セーフだよね?
(でも少しって言われてたじゃん?大体そこじゃなくて、呼ばれてんのに気づかないのが問題じゃん?)
知らない。
(周りの人がこっちをちらちら見てくるから、おかしいとは思ってたよね。まさか本当に私だったとは)
うるさい黙れ。
「あー、あー、あー」
うるさい。うるさい。
(あれはしょうがない。どうせみんな忘れてるから。誰にでもある失敗だし全然いけるって、大丈夫大丈夫)
もう転生もしたっていうのに、いつまで引きずらないと行けないの?
(うるさい、黙れ、黙れ、黙れ)
その次の休み時間。私の真似をするクラスメート。よかったじゃん、クラスの人気者になれて。
(黙れ、黙れ、黙れ、黙れ)
昔からよく言われてたもんね。冗談を冗談と分からないなら会話に入って来ないでくれ、とか。あの時もだいぶ間が悪かったからしょうがない。
まだ引きずってる。
「あー……うああ‼︎…………ぁ」
(あれでしょ、カレー食べてた時のやつだ。給食だっけ?なんかあの日めっちゃテンション高かったんだよね)
だからなんだって言うの、大丈夫。ここには誰もいない。ここには誰もいない。
芋づる式に続く記憶の連鎖。
胸の奥が鉄の棒で押し上げられているような感じで、何にも考えられなくなっていく。そのくせ、私の脳みそは際限なく記憶を引っ張り出し続けるのだ。
足が熱い。なんで梅雨なのにこんな布団被ってるんだろ、馬鹿じゃないの?こもった暖気からは不快感しか感じない。
(カレーといえば給食当番のやつも酷かった。配分が分かんなくてあっちこっちからブーイング受けたよね。懐かしい。他の子が食缶持って、クラスの中回るのを端っこで見てた時。あの時の奴らの視線ときたら!)
大丈夫。ここには誰もいない。みんな消えた。消してやった。
消えたのは私?
分からない。
でも私は今誰にも会わない。奴らはいない。
(でも本当に失敗したと思ったのはそこじゃなくて、使うおたまを間違えてたこと。私のせいで味噌汁担当の人が普段より小さいおたまで配膳することになってて、いつ気づかれるかびくびくしながら作業してた。味噌汁担当の彼女はそう言うことに厳しい人だったから)
大丈夫。私はこういう時どうしたらいいか知ってる。数知れぬ失敗と敗北を繰り返した私なら分かる。
バランスを取るように腕を前に突き出し、思うままに声を出す。大事なことは溜め込まないこと。なんかみんな言ってたし、多分正しいんだと思う。
「あー、うう、『うるさいうるさいうるさいうるさい、黙れ死ね、わたしは大丈夫だから。みんないなくなったし私は大丈夫で黙れ!死ね、死ね、死ね、死ね、だって悪いのはあいつらだから本当にうるさかったんだし』」
「姫さま、どうされました⁉︎」
はっ……と気がついて横を見る。メイドさんだ。はたきを持っているところからして、どうやら彼女は部屋を掃除していたらしい。
いや、大事なのは。
(どこから聞かれてた⁉︎)
分かんない……。でもこれやばい。私多分日本語で喋ってた。
(多分?自分の事なのに多分?3秒前も覚えてないって、私やばくない?)
だからやばいって言ってんでしょ。また説教、お祓い、おまじないだよ。
(あの妙ちきりんな儀式をおまじないで済ませるんだ……)
不審そうにこちらを見るメイドさんから目をそらして、逃げ道を探す。どうも彼らには、私の日本語が得体の知れない呪いか何かに聞こえるらしい。もし間違えて目の前で使ったりしたならば、それはそれは恐ろしい儀式が待っているのだ。
(まあ実際死ね死ね言ってたもんね)
もう回る極彩色部屋には入りたくない。延々と外から聞こえてくる太鼓の音も合わせて、自分が崩壊しそうになる。
(さんせーい)
ちなみにこの件に関しては、『この子の呪い程度なら私には無害だ』って言いきったお父さんが一番男前だったりする。さすがラスボスって感じ。
そんな馬鹿なこと考えながらも、私は極彩色部屋の危機を回避しようと頭を働かせて
働かせて……。
あ、駄目だ。めんどくさい。
もーいいや。
寝起きに解決する問題じゃないでしょこんなん。
(やっばい、急に気力と語彙力が抜けてく……)
寝る子は育つって言うし、多分大丈夫でしょ。
(まじでだるい)
「姫さま?返事してください。さっきから虚空を見つめてどうしました?」
え?なんて?
(おい異検4級)
そーゆーの後でにしよ、なんか疲れた……。
「姫さま?姫さま⁉︎」
「眠いから寝る」
メイドの反対を向いてベッドに倒れこむと、布団を肩まで引き上げる。膝を曲げて、お腹の方に引き寄せて、両脚で手を挟んで固定。
なんだか全部終わってる感じがして、このポーズ大好き。
おやすみー。
私の頭はどろどろと、布団の中に溶けていく。