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氷華の舞  作者: 楠 冬野
第2章 鬼姫の涙
43/70

43 真中唯

   -43-

「あ、綾香ちゃん……」


 声を聞いて水音は直ぐに累の異常の正体を察知する。

 地面に横たわり手を伸ばす累は曇った瞳で視線の先に何かを見つめていた。

 累を暗闇が覆っていく。傷だらけになった身体から怒気を伴った鬼気が発する。見る間もなく累は形相を変えていった。


「……許さない! ……許さないぞ!」


 累の言葉から、あの時起こった出来事を思い出した。累が朧気に見ていたものは恐らく三紫に喰われてしまった友人の姿であろう。友人の死を目の当たりにして累は鬼姫へと変化していた。これはあの場面の再来であった。――そうか、奴の狙いは。


 累が鬼気を纏い始める。髪と瞳が鮮やかな青紫色に変化し始めた。あの時、累の友人は仲間の機転により救われている。だが、その事を累は知らない。友人は殺されたものだと思っている。


「ダメよ唯! ダメ! それになってはいけない!」


 水音は累に向かって飛び出した。その水音を見て女が笑む。


「あら、見物を決め込んでいるのかと思ったら出てきちゃった。いいのかしら?」

「返してもらうぞ。これは鬼姫などというものではない!」


 累の元に駆けつけた水音は眼で女を牽制しつつ地に伏す累を抱き起こした。


「許さない! 絶対に! 私は私から大切な物を奪っていく者を絶対に許さない!」

「落ち着いて! 唯! 唯、落ち着きなさい!」

「放して! 私は行く! 放せ!」


 水音の腕の中で累が暴れる。足をばたつかせ、体をよじらせて腕を振る。それはまるで母の腕の中で駄々をこねる子供のようであった。だが累はもう子供ではない。身体は大きく、その力は強い。しかも鬼気を発して鬼になろうとしている状態であった。口の中には牙が見え、爪は鋭く伸びた。そんな唯の暴れる手が空を泳ぐ。


「くっ!」


 視界に鋭利な線が走る。水音は咄嗟に首を傾けてそれを躱した。痛みを感じなかったので傷は負わなかったと思ったが水音の頬は累の鋭利な爪によって切られていた。

 ――傷が……だが……。

 一瞬、流れ落ちるであろう血に気を取られそうになったが、水音は向けられた殺気を感じ取り直ぐに構えを取った。

 耳が空気を切り裂く音を捉えた。女が放った殺気が一直線にこちらを目掛けて迫っていた。

 水音はたいをそのままに視線だけを殺意に向けた。そうして暴れる累を強く抱きしめたまま、片手を下ろして地面をトンと叩く。地面の下から分厚い氷壁ひょうへきが突き出すと、その氷壁が放たれた錫杖を阻んだ。間一髪のところだった。


「うぬぬ、小賢しいしやつ」


 女は地団駄を踏んで悔しがったが、直ぐに氷壁を回り込み鬼を殺したあの黒い影を打ち込んできた。


「フッ」


 水音の口元から笑みと共に息が漏れる。

 水音は殺意の方を見ることもせずに、錫杖を防いだ時と同じように氷壁を出現させてその攻撃を防いだ。

 女が懲りずに氷壁を回り込んで攻撃を仕掛けるが水音はそれをまた氷壁で防ぐ。

 やがて水音と累の周りを取り囲むようにして突き出した氷塊は見上げる程の氷山を成した。

 氷壁の向こうでは女の激しい攻撃が断続的に続く。しかし防御壁はビクともせず、山となった氷壁はその内側に静寂を保つ空間を作った。


「戦いの最中に、止めろと叫んでも、待ってくれと言っても、敵はそのようなことには構わない。――これは私がいつか学んだことだったな……」


 言い終えて水音は無意識に口をついた言葉に首を傾げる。

 吐いた言葉は不思議と腑に落ちていた。それでも訝しむ。自分は何を言っているのだろうか……。

 腕の中で、累がぐずった。水音は言葉の出た意味を考えることよりも今は累だと直ぐに気持ちを切り替えた。

 抱いている累はまだ人と鬼との狭間で揺らいでいる。先ずはこちらを止めねばならない。両手できつく累の身体を抱きしめると、少女は幾分か落ち着きを取り戻していた。


「大丈夫よ、唯」


 抱き寄せる累の髪を柔らかく撫でながら彼女の耳元に口を寄せて語る。

 累の強張りが緩んでいく。もがく四肢からは徐々に力が抜けていった。

 水音は鬼気が静まりをみせていくのを感じ取った。どうやら間に合ったようだ。

 静寂を帯びた空間の中でトクン、トクンと二つの鼓動だけが時を刻む。

 合わさる胸の二つの心音がピタリと重なり合って一つに聞こえてくる。

 累との間には不思議な一体感があった。累から伝わる温度にはどこか覚えがあった。

 ふと考えた。どうしてだろう。こんなにも長い間、累の監視を続けていたのに累の手を取ったことも無かった。こんなにも近くにいたのに。会話だって交わしていたのに。ふれあう機会などいくらでもあったのに……。

 不思議だった。累の温もりに何故か懐かしさが込み上げる。感慨を湧かせる。あの頃はまだこんなに小さな赤子だったのにと。赤子の成長を思うと、そこには大きな喜びがあった。


「ああ、唯、大きくなって……」


 また意図しない言葉が口から洩れた。誰が何を思ってこのような台詞を話させているのか。自分はどうしてしまっていたのだろうか。

 水音は、累を見つめる目から溢れて流れる思いを止められなかった。

 累が、正気を取り戻した。少女を腕の中に抱いて水音は優しく語り掛けた。


「よかった、唯、無事に元に戻れた」

「――お世話係、さん? 何故……泣いているのですか?」


 不思議そうな顔をして累が水音を見る。


「ああ、これ、これは、何でもないわ。大丈夫よ。それよりも唯、もうそれになってはいけない」

「――唯?」

「そうよ、唯。あなたは鬼灯累などというものではないわ。そして鬼姫というものでもない」

「鬼灯累ではない。鬼姫でもない……。唯……それが私の本当の名前……」

「そう、それがあなたの真実の名前よ。真中まなかゆい

「ま、な、か?」


 唯の問いに水音は優しく微笑んで応えた。


「――お世話係さん? あなたはいったい……誰? ですか……」

「私……私は……」


 名乗ろうとして言葉に詰まってしまった。自分はいったい何者なのだろうか。

 霞む思考の先に、朧気な輪郭がぼやけて見えた。しかし水音は首を振る。


「私は、私は上狛かみこま水音みずねという。安心しなさい。私はあなたを助ける為にここにいる」

「助ける? 助けに来てくれたのですか? 私を」

「ええ、そうよ」


 これまでぼんやりとしていた唯の目が急に見開いた。


「わ、私、名前を奪われて!」


 意識を取り戻した為なのか助けが来て安堵した為なのか唯が堰を切ったように話し出した。


「おじさんとおばさんが殺されて! 黄玉っていう悪い奴に。そうだ、わたし仇を! それに私、託されたの。あの人達を、あの優しい人たちを助けなきゃ! そしてその為に私の家に戻らなきゃ!」

「心配しなくてもいいわ、唯。名前ならもう分かったでしょう。それにあなたの家は私の仲間が守っている。安心していいのよ。あなたの家族もきっと無事だわ」

「――仲間? あなたの仲間が守ってくれているのですか」


 唯の瞳が水音を見つめる。


 氷の壁の向こうでは女の激しい攻撃が続いていた。


「唯、外にまだうるさい奴がいます。ここで少し待っていなさい。直ぐにあいつを片付けてくるから」

「でも、私……」

「大丈夫よ。安心して待っていなさい。唯」


 水音はもう一度強く唯を抱きしめると笑みを残して外へ出た。


「あら? 閉じこもっているしか能がないのだと思いましたのに。宜しいのかしら? わざわざ死ぬために出てきて。その中にいればもう少しだけ長生きできたかもしれませんことよ」


 女がニタリと笑う。


「――御託はいい。さっさとケリをつける」


 水音の視線が女を睨め下げる。


「フン、この私が、たかが陰陽師如きに舐められたものだ」


 女が錫杖を構え飛び出した。水音は突き出された武器を正面から待った。


「雪水丸!」


 水音が名を呼ぶと、手に持つ太刀がその純白の輝きを増した。

 錫杖と太刀が交差する。水音の太刀、雪水丸は錫杖に触れると裏返り相手の力を刀身の上を滑らせるようにして逃がした。太刀を担ぐような体勢になり錫杖の突きを受け流した水音は、そのまま相手の懐に入り敵の腹を薙いだ。


「な、なかなかやりますわね」


 胴を断たれる寸前に後ろに飛び退った女が口惜しがる。


「どうやら、並の者ではないようですね。ではこちらも本気を出すと――」

「御託はいいと言ったのだが?」

「うぬぬぬぬ! どこまで舐めてくれるのか!」


 水音の言葉に怒気を発した女が形振り構わずに黒い影を連続して放った。

 一撃、二撃、三、四、五と次々と黒い影が水音に迫る。

 しかし水音はその攻撃を鼻で笑って舞う様にして躱す。


「当たらぬぞ。どうした? せっかくの攻撃も当たらぬでは意味が無いと言ってなかったか?」


 水音に揶揄された女の眼が怒りによって赤く染まった。

 敵が更に攻撃の速度を上げる。

 水音の正面で黒い影を繰り出したかと思えば、すぐさま後ろに回り込んで次の攻撃を放つ。いつしかそれは残像を浮かべて水音を取り囲むようになっていた。

 ついに四方からの攻撃が一斉に水音を襲う。これで万事が終わりだというように女から笑みが漏れる。しかし、敵の攻撃はその全てが水音の身体をすり抜けた。


「もういいか、では終わりにさせてもらうぞ」


 水音は雪水丸を構え直して前に歩みでた。だがその時、急に水音の足から力が抜けた。


「――なんだ! どうした!」


 四肢に重りを持たされたようになり思い通りに身体を動かすことが出来なくなっている。直ぐに頭に浮かんだのはあの子供の言葉だった。


 ――肉体を持たない魂は人を現世に留めさせることが出来ない。


『どうやら貴女の強い想いが僕の封を解いてしまったようですね』

 どこからか子供の声が聞こえてきた。

 声の方に目を向けると小さな男の子が悲しそうに水音の方を見ていた。


「……樹ちゃん?」


 顔を見て直ぐに浮かんだ名前を呼ぶと、子供がこくりと頷いた。


『貴女はもう本来の在り様を取り戻してしまった。その仮初めの身体がいつまで持つのか……』

「わ、私は……私は……」


 脳裏に浮かぶ朧げな姿を取り戻そうとした時、再び敵の攻撃が水音を襲った。


「不味い!」


 鋭利なその黒い影が自分の心臓を目掛けて突き進んでくるのが見えたが気を取られた水音には躱すことが出来なかった。――これで終わりか!

 だが、その攻撃は何者かによって防がれた。

 ハッとして見ると、唯が氷の防壁の外に出てきていた。唯の傍には大蛇の姿があった。一瞬、また鬼化したのかと思ったが、様子を見ればどうやら正気を保っているようである。これはどうしたことかと思っていると唯が肩を怒らせて言葉を放つ。


「黄玉! その人を殺させはしないわ! もう私の前で誰も死なせはしない!」

「あらあら、その姿。そして皇陣こうじんまでご登場とはね」


 女は呆れたように両手を持ち上げた。


「累、あなた、どうやってその身で皇陣を呼び出したか知らないけど、だからといってそんな見せかけだけの皇陣に何が出来るというのかしら?」

「うるさい! 皇陣さんは、皇陣さんは強いんだから!」

「ふ、は、ははははは! じゃ、試して御覧なさい」


 笑う女には余裕があった。


「こ、皇陣さん! あいつを、黄玉をやっつけてください!」


 唯は皇陣に命じた。


「…………」

「え?」

「も、申し訳もございませぬ唯様。ど、どうやら唯様に掛けられた呪のせいで、我はあれを攻撃することが出来ませぬ」

「え、ええぇぇ!」

「分かったでしょう? 考えても見なさい。そのような物騒な者を従える鬼姫を扱うのに中途半端な呪をかけるはずもないでしょう。あはははは」

「…………」

「さてと、こうなってしまった以上は、鬼姫を生かす理由もないし、あの陰陽師もどうやら動けぬようす。先ずはお前から片付けてしまいましょう。死んでもらいますよ金色の巫女」


 女がやれやれと言って唯に向けて手を翳した。

 その攻撃に対して唯も皇陣も反応することが出来なかった。


「――唯ぃぃぃ!」


 水音は飛び出していた。どこから力が湧いたのか、何が身体をこのように動かしているのか。

 ――そうか。そうだったのか。

 水音は自然に笑みを浮かべていた。

 気が付けば唯の身体を突き飛ばしていた。水音は身代わりになるように攻撃と唯いの間に割って入っていた。

 押された唯が尻餅をついた。攻撃を受けた自分の左腕が吹き飛んだのが分かった。

 すぐに唯が駆け寄ってくる。皇陣は主人を庇うようにして女と唯の間に割って入った。


「水音さん! 水音さん!」

「――良かった、唯、無事で」

「どうして! どうしてみんな……」

「どうして皆が自分を守ろうとするのかと言いたいのですか?」

「……」

「それは、それはね、唯」

「それは……」

「それは、あなたが皆に希望を託されているからよ」

「希望……」


 水音は唯を守った理由を他の者と同様に語った。しかし本心は違う。

 水音の本当の理由は別のとこにあった。そのことに水音はもう気付いていた。水音の記憶は戻っていた。

 それでも水音は自分の存在を語る事をしなかった。その事をこの場で言ってしまえば、直に消えて無くなる母の姿を見た唯が悲しむことになるのだと分かっていたから。


「そうです。これからあなたには今まで以上に辛い事や悲しい事が起こるでしょう。でも負けないでね。あなたが金色の巫女である以上そこには大きな使命があります。ならば苦難を乗り越えてゆかなければならないことはあなたの定めなのです」

 

 水音は残った腕を唯に向けその頬を優しく撫でた。


「……金色の巫女」

「そうです。真中唯。あなたの定めは鬼姫などというものに縛られたものではなく、金色の巫女としてのもの。金色の巫女は世の全てを慈しみ、世界の安らぎを育む者です」

「水音さん……」


 俯く唯の頭を撫で、水音は立ち上がった。


「唯、もう少し待っていてちょうだい。私はあの者を倒さなければなりません」

「でも、でも水音さん、水音さんは腕が……」

「ああ」


 いって水音は失った左腕の方を見た。痛みは無かった。それどころか血も出てはいなかった。水音は鬼姫に切られた頬を撫で納得する。――なるほど、そういう訳であったか。



「どうやらあの子が言った通り、私は一度死んでいるようです」

「え?」

「いいえ、なんでもないわ。唯、直ぐに終わらせるから、いい子で待っていてちょうだいね。あなたは私が、この私が必ず守って見せる」


 水音は雪水丸の傍に歩みより神器に向けて語りかけた。


「もう少し、もう少しだけ付き合ってちょうだい」


 雪水丸の刀身が水音に応えるように輝きを放った。

 女を牽制していた皇陣の巨体がずるずると動き道を開いた。

 水音の頭の中にまた子供の声が聞こえる。


『優佳さん……』

「ああ、樹ちゃん」

『すみません』

「……樹ちゃん、謝らなくていいよ。私はあの時に死んでいたのだから。でも樹ちゃんのおかげでこうして生き永らえられた。今は感謝しているよ」

『……優佳さん』

「後は頼めるかな? 唯の事を」

『はい。勿論です。唯は僕が必ず守ります』

「信じるよ、樹ちゃん。大丈夫、あなたならきっとやれるでしょう」


 子供の姿の樹は優佳の言葉に力強く頷いた。


「これでもう安心ね」

『優佳さん、まだですよ。まだあなたの命が終わったわけじゃない』

「いいんだよ、樹ちゃん。それよりも奴を倒さねば」

『はい』

「力を貸してくれますか?」

『勿論です』

「では、行きましょうか」



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