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氷華の舞  作者: 楠 冬野
第2章 鬼姫の涙
33/70

33 氷華の巫女

   -33-

 ――森の奥にひっそりと佇む社に一人の女児が生まれた。


「義兄様、もう少しお静かに」


 上狛かみこま和男かずおの様子を見て呆れていた。優佳ゆかは、産室の前で妻の出産を案じ右往左往する夫に少し落ち着くようにと声を掛けた。


「いやしかし、しかしね優佳ちゃん。今年は例年にも増して雪が深いだろ。このような時に何かあればどうするんだい。……だから僕はあれ程、お産をするなら病院でといっていたのに……」

「義兄様、それは今更言っても詮無きこと。千佳せんか姉様は既に産気づいており動かせませぬ。全ては千佳姉様の思う通りで事も上々に進んでおりますれば――」

「いやしかし、しかしね優佳ちゃん。化け物退治を生業とする一族の者としてこんなことを言うのもなんだけどね、今更さ、伝聞に従うのもどうかと思うんだよ僕は。それにやっぱりこういう人の事は現代医療に任せる方が安心だと、そうは思わないかい?」

「義兄様、案ずるより何とかと昔から申しますでしょう。大丈夫ですよ皆も付いております」


 これが筆頭陰陽師の姿かと思えば情けない。優佳は憧れの陰陽師のあまりの狼狽ぶりに大きな溜め息をついた。

 優佳の憧れであり敬愛する姉の夫であるこの男は「極月ごくげつ」の称号を与えられた破格の陰陽師である。目にしている義兄の姿にげんなりとはしたが、だからといってその力に対して信を置く気持ちは些かも揺らぐことはなかった。


「義兄様!」

「あ、はいはい。わかってますよ。わかってますって」


 和男は悪びれていうがしかしどうにも優佳の言葉を理解しているふうには思えなかった。

 魔性を調伏することにおいては比類なきと謳われる剛の者でさえも、我が子の出産に立ち会えばこうなってしまう。子の誕生はこれほどに親の心を躍らせるものなのか。普段の姿からは想像も出来ぬ義兄の様子が段々と可愛らしく見えてくるのだから不思議である。優佳は思わず頬が緩むのを隠し切れなかった。


「ちょっと笑わないでよ、優佳ちゃん、僕は真面目に言ってるんだよ」


 数時間前に産気づき産室に入った姉の千佳せんかと妻を落ち着かない様子で見守る義兄。

 姉の出産に付き添う一五歳の優佳が目にしている光景は穏やかであった。ここが病院でないことを除けば、それはどこにでもあるありふれた家族の光景であっただろう。


 ――緊張しているのか……。

 優佳は、頬に感じる強ばりに苦笑を浮かべた。


「私も少し構え過ぎていたらしい。ああそうだな、もっと楽になっていいんだ。――千佳姉様の子供かぁ……。姪、でもあるのよね……どんなだろうか? 千佳姉様の子だ、きっと可愛いのだろうなぁ……」

 静かに呟きを漏らす。

 優佳は血縁の誕生に高揚した。愛らしい赤子との出会いに思いを馳せた。

 しかし突如異変は起きた。それは赤子が生まれ第一声を上げた時と同時に起こった。

 赤子誕生の時、その産声は普通の子となんら変わらず、弱々しくまた愛らしい泣き声であった。だがその産声を耳にするや否や地鳴りが起こり、社は激しい揺れに襲われた。


「千佳!」


 異変の直後、赤子の父親は母子を守るため直ぐに産室に飛び込み、妹は来襲に備えるために外へ向かった。


 ――おかしい……妖の気配などどこにも感じなかったのだが……。


 優佳は、違和感を覚えながら襲い来る危機に対して様々な事態を想定し外へ向かった。


 ――敵意はない。殺気も感じない。それどころか清いものさえ感じる。なんだ?


 社を包み込む空気は異様なほどに清冽せいれつを感じさせていた。その清新さはどこか畏怖さえも感じさせていた。極寒を感じながらも、走る優佳の周囲には何故か包み込むような暖かさがあった。

 それでも気を抜かずに走る。――おかしい。

 外へ外へと向かっていくが危険は感じなかった。地鳴りを耳にした後は音も聞こえてこなかった。


「眩しい……。これは、なんなんだ……」

 

 一番近い出口から中庭に出るとそこに尋常ならざる景色があった。


「なんだこれは!」


 乱反射する光が目を開けていられない程に煌めいている。

 社の周囲で世界が全て凍りついていた。

 それは霜や雪に覆われたといった程度ではない。建物も地面も森の木々までも、一面が透明な青い氷で覆われていたのだ。そればかりではない。六角形の透き通る氷柱ひょうちゅうが雪の森の至る所で天に向かって隆起していた。

 その荘厳な絶景を目の当たりにして優佳は立ち尽くし息をのんだ。

 優佳の後を追ってきた義兄が優佳の隣に立ち白い息を吐く。

 義兄もまた目の前の光景を見て言葉を失い固まった。

 和男が呆然としながらいった。


「――氷……。これは全て氷なのか……」

「義兄様、これは、これは如何した事なのでしょうか……」

「……僕に、これが何かと問われてもね……参ったねぇこれは……」


 神々しく輝く氷の世界。

 それは雪のような白肌の見目麗しい女児が生まれ落ちてすぐに発現させた力であり、その赤子が水の陰陽師として初めて顕現させた世界であった。


 天賦の才を示した赤子は直ぐに水音みずねと命名された。

 この水音という名は古の巫女の名前に由来する。

 豪壮を見せた赤子は、古の巫女、犬童いんどうれいから名を貰い受けることとなった。しかしいくら優秀な子どもを授かったとしても氷華の巫女の名前をそのまま頂戴することは一族としてもはばかられた。

 そこでまずは、れいの文字を「みお」と別に読み、それを「水音みおん」と換え、水を称えその再来の寿ぎを奏でるという意味を与えて「水音みずね」と名付けられたのだった。



 古来「鬼姫生誕」に備えてきた上狛は陰陽五家の影として在り、その長い年月の間にも一度として陰陽五家の目の前に姿を現さなかった。

 常に陰に潜み、世に蔓延る魑魅魍魎の類を監視し、その化け物が人に害をなすとなれば直ちにそれを滅する。

 陰陽五家の者達が時と共に己が使命を忘れていく様を横目にしながらも頑なに伝承を絶やさず技の継承を行ってきた。それでも、時の流れはその上狛一族でさえも蝕んでいた。

 古文書に記された「鬼姫再来の時」は出現が預言されていた桃花の没後千年が過ぎても一向に訪れる事がなく、真中家には鬼姫が再誕する気配すら見えなかった。

 予見されていた「鬼姫再来の時」から更に二百年を過ぎた現在では上狛の者でさえも鬼姫の出現などもう無いと思われるようになっていた。長らく続いた平穏に危機感は薄れ一族全体が弛緩することを余儀なくされていた。

 そんな上狛一族にあってこの時、強大な力を授かって生まれてきた水音の存在は慶事であるとともにある種の予兆を匂わせた。一族に再び緊張もたらせたのは言うまでもない事である。


 水の巫女の再来とまでいわれた上狛優佳は、陰陽師としての才がずば抜けていたこともあり後々は一族を纏めてその使命を後世に引き継ぐ役割を担うのだと期待される存在であった。

 その優佳が十五のとき、実姉が自分を遥かに凌ぐ天才児を産んだ。

 神童と謳われた姪の存在は上狛から優佳の存在を忘れさせるほど強力であったのだが優佳は水音に嫉妬など抱かなかった。強者には強者の目がある。優佳は生まれたばかりの姪を一目見て次元が違うと思ったのだ。

 やがて上狛水音の存在は優佳に伝承の呪縛からの解放という期待を抱かせることになる。



 物思いに耽る優佳に神楽の旋律と声が届いた。


「――優佳さん、どこか具合でも?」

「あ、いえ大丈夫です」


 気が付けば加茂美里が顔を覗き込んで心配そうに優佳を見ていた。


「優佳も初めての育児だからねぇ、まぁ色々と不慣れで心配ごとも多いでしょうけど、あんまり生真面目に考え込んでも駄目よ。子供なんて知らない間に勝手に育っていくものなんだから」

「は、はい」

「ダメダメ。優佳ちゃん、十和子さんをあんまり見習っても駄目よ。十和子さんって放任に過ぎるのだから。女の子はやはりそれなりに淑女として育てなくてはいけないわ」

「淑女かぁ、良い響きですわ。うちも女の子が欲しかったのに」

「何言っての美里、加茂家の後継は男でしょう。まずは男の子が生まれて良かったのよ。それに見てみなさいよ。あんたんとこの坊や天才よ。もうあんなに舞えちゃってるんだから」

「そうよね、樹君って凄いわよね。流石は未来の鈴の旦那様だわ」

「あら、何言ってるの、樹君は蘭子のお婿様になるのよ」

「まぁまぁ、お二人ともそのような先の話はね、今はね」


 睨み合う猿楽十和子と白雉恵子、それをとりなす加茂美里。それは親しい友人達のごくありふれた仲睦まじい光景であり、まさに平穏を現す景色だった。


「ちょっと、優佳、あんた何笑ってるの? 誰の子が樹君のお嫁さんになるかって話なら、あんたのところの唯ちゃんもライバルなんだからね!」

「はぁ……」


 優佳は十和子の勢いに苦笑を浮かべる。


「はぁじゃないわよ、はぁじゃ、真中の子も女の子なんだからね!」


 不意に出た十和子の言葉が優佳の胸に突き刺さる。

 勿論、千二百年以上の歴史の中で真中の家に女児の誕生が無かったという特異性を十和子が知る由もなく、ましてやそのことが陰陽五家が抱える「鬼姫伝承」なる憂い事に連なることであるとは彼女達には想像も及ばない事であろう。しかし今、優佳の腕の中で笑う愛らしい我が子はここに集う家の全ての者を将来、絶望の淵へと落とし込む因を抱えている。

 春を寿ぐ歌舞が最高潮に達し今年も氷狼神社の例祭が平和裏に終わりを告げようとしていた。

 優佳はただただ己が愛娘の生涯の平穏を祈った。

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