六話
例え、一度昼に来たことがある場所でも、夜にまた来てみると、その場所の趣が大きく異なっていることに気づく。
数時間ぶりに訪れた、ファスト外れの森の様子は、昼とは大きく異なる印象をライトに与えた。
──何というか、少し幻想的だな。
相変わらずでこぼことした、歩きにくい道だが、ただ鬱陶しいだけだった昼の時とは違い、どことなく木々が人を拒んでいるように思える。
まるで人間がこの世界からいなくなってしまい、この世界が緑に包まれて行っているような────。
そんな馬鹿げた妄想が脳裏を掠めた原因の一つは、寒さ、だろう。
時刻は朝の三時。
ようやく春めいてきたとはいえ、森の中の気温はかなり低い。
寒さは不安を助長させ、不安は人を現実離れした妄想に引きずり込む。
だが、理由の最もたるものは、そこにはない。
それは、ライトの目の前にいる。
目をそらすことをやめ、ライトは先導する鏖殺人に目を向けた。
右手にランタン、左手にハウを入れたケースを持ち、夜の森を器用に歩く彼の姿は、別段焦っているようには見えない。
だが、宿で深く眠りについていたライトを起こした際には、確かに緊急事態だと言っていた。
もう一度現場に向かうから、ついて来い。
それだけを伝えてから、一言も喋らない鏖殺人への恐怖が、ライトを現実逃避に走らせる。
訳も分からぬまま、とるものもとりあえずついてきて三十分。
なぜこんな状況になったかを説明してほしいが、その発端が分かっているだけに聞き辛い。
わざわざここまで鏖殺人が駆け付け、真夜中に再び現場に行こうとしたきっかけは、おそらくライトが彼に送ったあの破片だろう。
あの破片を受け取り、それの持つ何らかの意味に気づいたからこそ、彼は早馬を使ってまでここに来たのだ。
そんなことを考えていると、不意に言葉が投げかけられた。
「最初に言っておくが、別に君が何か仕事の中で間違えて、それを叱責しに来たわけじゃない。その点については安心していい」
「はい……?」
突然のことに驚きながらも、反射的に返事をしておく。
二等職員の本能というのは、なかなか消えないらしい。
「……あの破片に、何かあったんですか?」
話しかけられたついでに、ライトは先ほどから気になっていたことをようやく言葉にする。
このことが分からなければ、きっと何もわからない。
「時間がない。歩きながらの説明になるが、いいか?」
時間がないと言いながらも、鏖殺人からは意外に落ち着いた言葉が返ってくる。
歩くのを邪魔している枝を折りつつ頷くと、そのまま説明が始まった。
「まず、君が送ってきてくれたあの破片だが、間違いなく異世界由来の物質だ。ハウの鼻は、今回も正しかったようだ」
鏖殺人の第一声に、ライトは密かに胸を撫でおろす。
どうやら鏖殺人の言葉通り、あれを送ったこと自体は間違っていなかったようだ。
「君は報告書の中で『水晶のような』と書いていたが、正確には違う。あれは恐らく、ガラスの破片だろう。破片の一つに、異世界で使われているシール────車検シールの切れ端があったから、自動車のフロントガラスの可能性が高い」
「フロントガラス?自動車?」
いきなり聞き覚えの無い言葉が現れ、ライトは鏖殺人に聞き返す。
怒られるか、と一瞬思ったが、気にしてない様子で説明が続けられる。
「ガラス、というのは向こうで透明な仕切りとして扱われている板のようなものだ。それが細かく砕けると君の見た破片のようになる」
「なる、ほど……?」
「そして自動車、というのは異世界での交通手段の一つだ。いろんなパーツから作られる工業製品で、ガラスをパーツとして使っている。まあ、鎧を付けた早馬ぐらいに考えてもらえたらいい」
あらかじめ言葉を練っていたのか、流暢な説明が行われる。
ライトにとっては正直なところ、話についていくのに精一杯なのだが、ここが理解できないと困る、ということだけは明確に理解できたので、必死に透明な鎧を付けた早馬を想像した。
「一応、あれについていた汚れにも説明しておこう。君は分かっていなかったようだが……」
そこで一度、鏖殺人は言葉を切って口をつぐむ。
しかし、無音だったのは一瞬だった。
すぐに彼は口を開く。
「……あれは血だ。かなり乾いていたが、俺が風野凛花を殺した時に飛び散った血だろう」
続けられた言葉の意味が、ライトには一瞬分からなかった。
だが、その言葉を咀嚼した瞬間、背筋がスッと寒くなる。
ライトは、破片についていた汚れと、倉庫で見た学生証についていた汚れが同種のものであったことを思い出す。
あれは、両方とも血だったのだ。
異世界転生者は、おそらく学生証を胸ポケットにでも入れていたのだろう。
そのまま鏖殺人に殺害されたため、服に血が染み渡り、学生証も血だらけになった。
中央警士局からの応援要請に急かされた鏖殺人は、それを拭くこともなく、倉庫に保管していたのだ。
ただの汚れとしか思っていなかったものが、極めて生々しい殺人の産物であったことを初めて理解し、ライトはある種の恐怖を感じた。
「血が付着していたということは、あの破片は俺が異世界転生者を殺した時には、既に地面に落ちていた、ということだ。異世界の産物であるガラスが、異世界転生者の着た場所に置き去りになっていた……。ならば普通に考えて、あれらは風野凛花と共に門をくぐってこの世界に来た、と考えるのが自然だ。ここまでは、分かるか?」
まだ、先ほどの血の話のショックがあったが、ライトは頷く。
自分の気分程度で、仕事の邪魔はできない。
それを見て、鏖殺人は流れるように推測を語った。
「ここで問題なのが、あのガラスがなぜ風野凛花と共に門を通ったのか、ということだ。異世界転生者が死に瀕しない限り開かれない門を、な」
「もちろん、たまたま門が出現したところにガラスの破片がたくさん落ちていて、そのまま門に吸い込まれた、という可能性もある。可能性だけなら、何とでも言えるからな」
「だが、これに関してはほぼ否定できる。もしそうだったなら、門を通ってこの世界に辿り着く途中で、あの現場のいたるところに破片がばらまかれるはずだ。門を通る時、転生者には結構な衝撃がかかるらしいからな。君が見たように、多量の破片が一か所にまとまって落ちている、ということにはならない」
「じゃあ、どうやれば一か所に破片がまとまるか?これがあり得るパターンはおそらく一つだけだ」
「まず、加えられる衝撃の強さにもよるんだが、自動車のガラスというのは頑丈にできていて、一度の衝撃では罅が入る程度で壊れはせず、何度も衝撃が加えられることで初めて砕け散るようになっている」
「つまり、風野凛花が自動車に関係する事故に遭遇し、死に瀕する一方、事故の中で一度フロントガラスには罅が入り、そのまま罅が入ったガラスとして門を潜り抜け、この世界の地面に落ちた時ついに限界を迎え、砕け散ったんだ。来る途中でいろいろ考えたんだが、これが一番有り得る線だと思う」
「まあ、ガラスがどうやって砕け散ったかは本質的にはどうでもいい。重要なのは異世界転生者の近くに自動車が存在した可能性が高い、ということだ」
「まだ風野凛花は若く、向こうの世界の法律で車の運転はできない。風野凛花が法律を守らない輩で、車を乗り回していた、なんてことも考えられるが、可能性としては低いだろう。向こうの世界、とりわけ日本という国は、どの異世界転生者に聞いても、かなり治安がいい場所で、法律を破る人間はごく少数らしいから」
「このことから、風野凛花をフロントガラスと共に異世界転生させた状況、というのは二通り考えられる」
「誰かに車を運転してもらっていて、自分はその車に乗せてもらっている最中、事故にあった。もしくは、自分が歩いていて、車に轢かれた。このどちらかだ」
「そうじゃない限り、車のフロントガラスと共に異世界転生してくることはない。もちろん、車同士の衝突事故、というのもありえなくはないが、その時はもっと多量の破片が門を通っていると思う。俺自身の経験から言っても、車は一台だろう」
「つまり、乗せてもらっている場合は、車の運転者と、風野凛花以外の同乗者、自分が轢かれた場合は、轢いた車の運転手とその同乗者が、門の近くにいた、ということだ」
「最初の通報によれば、今回の門の発生に伴う発光現象──門のエネルギーが漏れたためにおこる雷の一種──は十秒程度続いていたらしい。かなり大きな門、ということになる。風野凛花以外にもう一人、別の人間がその門をくぐった可能性は十分にある」
「だから急いでるんだ。あそこにある、もう一人の異世界転生者存在の証拠が確認できるうちに、もう一度現場を見ておかないと、みすみす異世界転生者を取り逃がしてしまう」
そこまで説明すると、鏖殺人は一つため息をついた。その後は口をつぐみ、より足を速く、ほとんど走っているような速度で森の中を移動し始める。
ライトはそれについていきながら、脳内にある種の興奮が満たされていくのを自覚した。
鏖殺人の話には、理解できない点が多かった。
これは、ある程度仕方ない。ライトにはまだ、異世界転生者に関する知識などほとんどないのだ。
だが、鏖殺人が僅かな手がかりから複数の可能性を吟味し、ここに来たことは理解できた。
決して十分ではない証拠から、真相を推理する洞察力。
異世界の生活を知り尽くす、底の見えない知識量。
そして、緊急事態だと感じれば、即断即決で動く、尋常ではない行動力。
──これが、鏖殺人……。
崇拝ではない。
憧憬でもない。
ただひたすらに、自分とはかけ離れた人間に出会った衝撃とでもいおうか。
そんな存在を知りえたことへの、興奮。
ライトにはもう、眠気など、感じられない。
この時ばかりは、先ほど感じた恐怖も消え去っていた。
急ぎ足で向かったおかげか、すぐに現場が見えてきた。相変わらずロープで封鎖されており、夜番の地方警士の姿が見える。
さすがに鏖殺人の姿は有名だからか、昼のようなやり取りは起きなかった。
こちらの素性を悟った地方警士が、慌てて頭を下げ、やがてロープを解きにかかる。
恐縮しながら封鎖を解除する地方警士の姿を見ていると、意外にも鏖殺人が彼に話しかけた。
「この一週間で、人の姿を見たとか、何か不審な音を聞いた、とかいうことはありませんでしたか?噂話程度でもいいんですが」
話しかけられた地方警士は、緊張のせいかしばらく目を白黒させていた。
だが、やがて手を止めて考えだし、そのうちポツリ、と声を発した。
「五日前に夜番をしていた同僚が、警備中、何かに見つめられているような気がする、と溢しているのを宿舎で聞きました。怖がりな同僚の、取るに足らない不安だと思い、特に上には報告していなかったのですが……」
隣にいる鏖殺人の気配が、さっと変化したことをライトは感じ取った。
必死に、先ほどの鏖殺人の仮説を思い出し、ライトもまた、この証言が持つ意味を考える。
──鏖殺人の手を逃れたもう一人の異世界転生者が、再び現場に戻ってきて、現場を警備する地方警士を観察していたってことか。
なかなかぞっとする話だな、とライトはその地方警士に同情する。
そうこうしていると、封鎖が説かれ、鏖殺人は現場の奥へ向かっていった。
敬礼する地方警士を尻目に、ライトも慌ててついていく。
すぐに、石が置かれている場所────鏖殺人が風野凛花を殺害したところにまでたどり着いた。
寝起きで走らされたこともあり、気が付けばライトの息は完全に上がっていた。
一度立ち止まり、深呼吸をして息を整える。
ちらり、と鏖殺人の方を見てみると、ハルを離したうえで、自分たちが来た方向の木に布を巻き付けた後、この原っぱを囲む木々の様子を観察していた。
──何をしてるんだ?
疑問が頭に湧いてきたが、しばらく考えて答えが分かった。
鏖殺人は、風野凛花以外に、もう一人この場所に異世界転生者がいた、と推測している。
だが、鏖殺人が風野凛花を発見した時点では、彼女は一人だった。
つまり、もう一人の異世界転生者は、彼女を置いて移動したことになる。
ならば、努力すれば、その移動の痕跡が見つかるはずだ。
この森は、ライトも体験した通り、草木が茂りすぎて非常に歩きにくい。
木の枝を折り、草をかき分けていかないととても歩けない。
この一週間、雨は降っていないし、天候も春先ということで穏やかなままだった。
一週間封鎖され、他の人間の手が入っていない以上、探せば必ず痕跡が見つかるはずなのだ。
鏖殺人とライトがこの地点を往復する中で折った木々などを除けば、人為的な痕跡は全て、異世界転生者によるもの、と考えて良い。
そこまで考えたところで、鏖殺人の呟く声が聞こえてきた。
「あった……」
その言葉につられて鏖殺人の方を見ると、鏖殺人はライトたちが来た方向とは反対方向、つまりこの森を抜けて、ファストの街の隣にある街へ向かう際に通ることとなる、木々の間に佇んでいた。
急いで駆けつけると、鏖殺人が無言である枝を指さす。
その枝は、明らかに途中で折れた様子だった。皮一枚でつながっているのか、幹から垂れ下がるようになっているのが痛々しい。
さらに奥に目をやると、別の木でも似たような枝が存在するのが見て取れた。
一本だけ、こんな枝があるというのなら、鳥や風で説明もつくが、二本連続であれば、人間か、もしくは他の動物が通ったと考えた方が自然である。
「最初に来た時、地元の人間に尋ねたんだが、この森にいる動物はキツネやウサギ、タヌキ程度。そんなに大きな動物はいないそうだ」
ライトが熟考していることに気づいたのか、鏖殺人からヒントとなる言葉が加えられる。
枝の高さを見てみれば、ライトの眼のあたりの高さにある枝であり、とてもキツネやタヌキが歩くとき、邪魔になるものとは思えない。
かなりの確率で、人間が通った後、ということになる。
ふと、鏖殺人に視線を戻す。鏖殺人はライトを見て一つ頷くと、ポツリ、と呟いた。
「間違いない、異世界転生者だ。……手間をかけさせてくれる」
その姿は、どことなく楽しそうだった。