十話
「飲むか?」
「いえ……」
鏖殺人が氷水を入れた水筒を差し出してきたが、飲む気がしなかったために断る。
そのまま、カケルは鏖殺人が座っている岩の、隣にある岩に腰かけた。
顔を上げれば、少し離れた場所にカケルの家の塀が見える。
今更この家の中で話をするわけにもいかず、かといってこの村で他に話に適した場所もなく、結局家の前の草むらに座り込むことになったのだ。
雑草に紛れて、大きな岩がごろごろ転がっているような場所だが、少なくとも人が通りがかるような場所ではない。
周りを見渡したところで、鏖殺人の方から話しかけてきた。
「さて、話せと言われたが、何から話せばいい?そもそも、君はどこまで知っているんだ?」
「どこまで、と言われても……」
はたと聞かれてみれば、カケルは言葉に詰まってしまう。
ランが異世界転生者ではないという判断。
二日続けて現れる転生局の人物。
そして何より──自分ですらうろ覚えだった、転生局に通報したのがカケル自身であるという推測。
何から何までカケルの認識と食い違っており、どこから聞けばいいのか分からない。
その逡巡は鏖殺人にも伝わったらしい。ふむ、と一つ呟くと、彼は質問を変更した。
「失礼、聞き直そう。というより、俺の方も話を聞かせてもらおう。大前提からだ。君たちの一家は、なぜあの星野ランという少女が異世界転生者だと思ったんだ?」
今度の質問は、カケルにとって答えやすいものだった。何しろ、夢に出てくるほどにまでカケルが思い返した光景である。
できるだけ正確に、誤謬の無いように。
カケルは鏖殺人に、ランが異世界転生者ではないかと思うようになった出来事を話す。
カケルの宿題だった計算問題を、まだ幼児でありながら解いてしまったこと。
片言しか喋ることが出来ない時期に、色石を使って計算をしてしまったこと。
全てを話し終えると同時に、カケルは鏖殺人に質問を放った。
「……あなたは、ランが異世界転生者ではないって言いました。だけど、それが正しいのだとすれば、この出来事はどうなるんです?ランは、一歳になるかならないかの頃に、計算問題を解いてしまったんですよ?」
正直、カケルとて、ランは実のところ異世界転生者ではないのではないか、と考えたことはある。
あの計算問題を解いた日以降、彼女はたいして天才ぶりを発揮しなかった。
異世界転生者が使う魔法とやらを使ったことはなかったし、言葉もはっきり喋らない。
カケルと遊べなくて拗ねている姿は、本当にただの子供のようで──とても異世界で人間として暮らしていた人物の姿には見えなかった。
異世界でもきっと、十歳にもならないくらいの子供だったのだろう。
両親はそう言っていた。
しかし、実を言うと、カケルはその説に納得していなかった。
異世界で数年しか生きていなかったとしても、この世界で七年生きたのだから、魂の年齢──精神年齢とでもいうべきそれはカケルくらいにはなっているはずである。
異世界で足し算や引き算を何歳の頃に習うのかは知らないが、まさか言葉を話せない頃から教えるわけではあるまい。どう考えても、精神年齢はもっと上になるはずなのだ。
そう考えると、ランの言動はあまりにも幼すぎた。
もちろん、いくつか反論は考えられる。
ずっと家の中に閉じ込められているのだから、幼児退行のようなものを起こしているのかもしれないし、まだこちらを信用しておらず、やや過剰に子供の演技をしているのかもしれない。
何より、彼女が異世界転生者ではないとすると、一歳で計算が解けたことへの説明がつかない。
あれが異世界由来の知識によるものではないとしたら、彼女が自力で解いたという話になり、それは彼女が誰に教えられるでもなく計算ができる天才児である、ということを意味する。
その可能性は、彼女が異世界転生者である可能性と比べても、なお低いように感じられた。
そういった意味合いを踏まえてのカケルの質問だったのだが、鏖殺人は迷うこともなく即答した。
「何だ、そんなことか。簡単だよ。彼女が、子供ができないはずの計算の答えを言ったというのなら、単純に考えて他の人物から聞いたことになる」
「……他の人物?」
「今の君の話を思い出してくれ。おかしな点が一つある。いいか?まず、君が学校から帰ってきた。次に、宿題をやろうとした。ここまではいい。だが、次は?」
「次って……。ランが、走り回っていて……」
鏖殺人が、大きく頷く。
「そこだ。君が学校に帰ってくるまでの間、彼女はどこで何をしていたんだ?」
「何って、家にいたのでは?まだ一歳ですし」
「そう、普通に考えればそうなる。そして、思い出してほしいんだが、現在では君が学校に行っている間は、彼女は家で留守番をさせられていたらしいが、まさか彼女が一歳の頃は、そうではなかっただろう?」
「そりゃ、そうでしょう。母さんか父さんが、傍にいたんじゃないですか?一歳の子を一人で家に置いておくのは危険ですし」
すらすらと答えると、鏖殺人は何故かそこで天を仰いだ。
「七歳でも十分危険だがな。……まあいい。すなわち、君の話には出てこなかったが、君が宿題をしていた時には、あの子供の他に、君の父親か母親がその場にいた、ということだ。ここまではいいかい?」
「はあ……」
「次に、これは質問というか、確認なんだが……君には、こんな経験はないか?ものすごく簡単な問題を、自分以外の人間が解こうとしている。傍で君はそれを眺めているが、問題を解いている人物は頭が悪く、なかなかペンが進まない。見ている君としては、分かり切った答えが書けないその人物にイライラする……。思わず、小声で答えを呟いてみたり、口パクをしてみたりもする。一度くらいは、経験したんじゃないか?」
「まあ、一度くらいは」
質問の意図が分からないが、一応答える。
基礎教導院での授業中、教師に当てられた生徒が質問に答えられず、授業が停滞している時、そんな感情を抱いたことがあった。
カケルの答えを聞いた鏖殺人はゆっくりと頷き、もう一度質問をした。
「最後に聞こう。あの星野ランという少女、かなり目がいいな?」
聞いた瞬間、カケルは脳内に疑問符が湧いた。
質問の意図もそうだが、なぜそんなことを鏖殺人が断定できるのかが分からない。
──読書みたいな、目が悪くなることを一つもしてないから、そんなに悪くはないと思うけど……。
困惑は表情に出ていたのだろう。鏖殺人から補足が入る。
「ついさっき、俺が君の家の前に最初に訪れた時。君が一旦家の中に戻ろうとしたら、いつの間にか後ろにあの少女がいて、互いに結構驚いた時があっただろう?」
言われてみて、カケルはその光景を思い出す。
本当にいましがたの出来事なのだが、やけに昔のように感じられた。
「君からすれば背後にあの少女が現れたんだから、唐突な登場に見えたのかもしれないが、俺からすれば君越しに廊下の様子は見えるからな。君が気づく前から、あの子が近づいてきているのは見えてたよ」
「ただ、何か見えたな、と思った瞬間に足を止めて、ゆっくりとしか動かなくなったから、君が振り返るまでよく分からなかったんだ」
「今思えば、あれは門の前に立つ俺の姿を、廊下の奥にいる彼女が見つけたからなんだろうな。だから、目がいい子なんだなって思ったんだ」
そこまで言われて、カケルも一つの出来事に思い当たる。
両親から伝書カラスが届いた時のことだ。
あの時は確か、カケルの背後に窓があり、そちらを向いていたランが何かに気づいた。
それにつられてカケルが窓を見ると、程なくカラスが窓枠に降り立った、という流れだった。
つまり、ランはカラスが到着する少し前から、空を飛ぶカラスの姿が見えていたことになる。
伝書カラスの移動速度は速い。しかも、記憶ではあのカラスは窓枠に向かって一直線に飛んでいたから、窓から空を見ても、普通は黒い点があるくらいにしか見えないはずだ。
それを、カラスだと気が付いたうえで見ていたのだとすると、極めて視力に優れていることになる。
だが────。
「それで、ランの目が良いと、どうなるんです?」
「その一歳児が足し算をしたとかいう光景が、こう変化する。君は簡単な足し算に苦戦し、近くにはあの少女がいる。さらに、どの位置かは分からないが、父親なり母親なり、少なくとも足し算くらいはできる大人がいる。そして、こればかりは想像しかできないが、彼らは君の苦戦している問題を遠目に見て、当然ながら答えが分かり、なかなかできない君にイライラする。加えて、少女の目はかなり良い」
鏖殺人は一息に言い切り、カケルの反応を待つ。
カケルは必死になってその言葉を咀嚼し────。
すぐに、答えに行きつく。
「まさか、足し算の答えって……」
「分かったか?君の様子を見ていた父親なり母親なりが回答を口にして、それを見ていたあの少女が、異世界転生者でも何でもない、周囲の人間の言葉を反復することくらいしかできない子どもが、子どもらしく、口の動きをまねて復唱した。……一番あり得る仮説だと思うんだが」




