九話
「しかし、無意味なことをしましたね。免罪符には識別のために番号を振っていますし、発行した相手の名簿は転生局で管理しています。だからこんなやり方で偽造したら、仮に判子が正しくなっていたとしてもやがてはバレたでしょう。有り得ない人間に免罪符が渡されていることになるんですから……失礼ながら、偽造免罪符を求める人たちはそれが分かっていないようです」
長々と解説する鏖殺人に対しては、先手を打ったのは母親の方だった。
細い腕に力をこめ、一気に鏖殺人に対して距離を詰める。
喧嘩に慣れていない一般女性の行動としては、中々に思い切った行動だった。
彼女には分かっていたのだ。
目の前にいる相手を排除しない限り、娘はすぐにでも殺されると。
しかし、その勇気は────残念なことに、この場では大した意味がなかった。
パシンッと軽い音が響き、殴りかかったカケルの母親の体勢が大きく崩れる。
そのまま、彼女の体は隣の壁に激突した。
鈍い音が響く。
母親は気絶でもしたのか、ずるずると壁に寄りかかるようにして崩れ落ちる。
その奥では、左の拳を握り締めた鏖殺人が悠然と佇んでいた。
彼が母親の攻撃を振り払ったのだと察して、カケルは身を震わせる。
「すまないが、手を引いているその子と少し話をさせてくれないか?」
カケルを前にした途端、いきなり鏖殺人の口調が変わる。
先程までの丁寧なものから打って変わり、不躾にも思える飾りのない口調に。
その変化すらも恐怖に転じて、カケルはとても動けなかった。
「……もう一度言う。本当に少しだけ、話をさせてくれないか?」
カケルはゆっくりと首を回して、ランの方を見る。
さっきまで泣きそうな顔をしていたランは、今ではひたすら呆然としていた。
口は半開きで、目は見開かれたまま瞬きすらしていない。
──初めて外に出ようとしたら、凄いことばかりが起こったから……理解できる範囲を越えちゃったのかな。
どうでもいい思考が脳を埋めた。
その瞬間、随分と近い距離から鏖殺人の声が響く。
「少し、触れさせてもらおう」
「……え?」
気が付いた時には、カケルの足元に────ランの正面に当たる場所に、鏖殺人がしゃがみこんでいた。
彼は無造作に右手を伸ばし、ランの目元に指を添える。
彼の動きが余りにも早かったものだから、カケルはただ見ていることしかできなかった。
鏖殺人は、ランの肌に本当に血が通っているのかを確かめるように、ゆっくりと指を動かす。
やがてもう片方の手も添えて、両手でランの小さな顔を包み込んだ。
その態勢のまま、彼は静かに問いかける。
「君の名前は?」
意外なことに、ランの返答はすんなりとなされた。
「ほしの、ラン……」
彼女の返答を、じっくり味わうように聞き遂げて。
しばらく経ってから、鏖殺人は言葉を発する。
「……やはり、違うな」
え、と顔を上げるカケル。
口が「ん」を発した形のままで、固まるラン。
そんな二人の様子を尻目に、鏖殺人は疲れたような様子で立ち上がった。
「この子は異世界転生者ではないな……まず、間違いない」
続いての鏖殺人の動きは迅速だった。
混乱するカケルには目もくれず、突然玄関に向かう。
やがて、数枚の書類とペンを持ってその場に戻って来た。
どうやら玄関に手荷物を置いてあり、そこで目当ての物を探していたらしい。
戻ってきてから、最初に彼は壁に寄りかかっているカケルの母親の元へ向かう。
動かない彼女を見て、手慣れた仕草で首に手を添えた。
「寝てるだけか……」
そう呟くや否や、胸ポケットから湿布らしい布を取り出して、母親のこめかみに丁寧に貼る。
彼女の頭が、壁にぶつかったせいで腫れていたからだろうか。
他にも二、三か所確認してから、気が済んだのか立ち上がった。
続いて、彼はカケルたちの方を見やる。
どこか、面倒くさそうな様子で。
──何か、疲れてる?
改めて鏖殺人の姿を見直したカケルは、そんな印象を抱く。
数分前までは恐怖心で動けなかったカケルも、今では自分を取り戻していた。
何せ、目の前の鏖殺人から一切の敵意が消えているのである……怯える必要がない。
そんなことを思っていると、鏖殺人は手に持った書類の中の一枚を、唐突にカケルに向かって投げ渡した。
うわあ、と小さく叫んでそれ拾ったカケルは、何となく表面の文字を読み上げる。
「ばいしょう、書?」
「賠償書だ。治療費に使え」
「治療費って……」
「君のお母さんを殴ってしまったんでね。それを持っていれば、診療所の類は無料で入れる。今見たところ、軽く頭を打っただけのようだが……念のためだ」
そこまで一気に告げると、少し慌てたようにして言葉を付け足す。
「言い訳になるが、攻撃を軽く払いのけるだけのつもりだったんだ。ただ、思った以上に彼女が弱っていて……君のお母さん、ものすごく体が弱かったり、最近睡眠不足だったりするのか?」
恐らく後者だ、と思う。
働き詰めの毎日の中、急いで家に帰り、鏖殺人襲来で叩き起こされたばかりだったのだ。
疲れない方がおかしい。
カケルが正直にそんなことを言うと、鏖殺人は納得したように頷く。
そして、流れるように残りの書類を渡した。
「これは『当該人物に関する非異世界転生者証明に関する書類群』……君たちが言うところの『免罪符』だ。もう俺の名前は書きこんである。お母さんが目が覚めたら渡してくれ」
カケルが反応を返す暇もなく。
その書類は意外な軽さで、カケルの手の中にもたらされた。
父親と母親が、大金をはたいてまで偽物を購入しようとしていて。
多くの異世界転生者が、何でもするから渡して欲しいと目を血走らせる代物。
カケル自身も、その存在を夢見た免罪符が────。
まるでごみでも捨てるかのような気軽さで、鏖殺人から手渡された。
「では、さようなら」
カケルの受けている衝撃も、事態についていけていないランの戸惑いも無視して、鏖殺人は家から出て行こうとする。
呆然としていたのは、ほんの少しの間だった。
何とか自分を立て直して、カケルは大声を出す。
「ま、待ってください!」
ランと繋いでいた手を振り払い、カケルは俄かに走り出す。
ランが後ろから呼んでいたが、それも無視した。
「鏖さ……き、局長さん!待ってください!」
カケルは最大限の音量で声を絞り出し、それが聞こえたのか鏖殺人は足をピタリと止める。
玄関に置いていた大きな荷物を担いで立ち去ろうとする彼に、カケルは再び呼びかけた。
「……色々と、説明してください」
「何を?」
「全部です。どうして、ランが異世界転生者じゃないって話になったのか。何であんなにあっさり、免罪符をくれるのか」
少しでも説明されないと納得できない、と必死に訴える。
昨日の白縫副局長、そして今日の鏖殺人と、意図もよく分からないまま現れ、さっぱり理解できないまま去っていく者たちが連続している。
ここで彼を逃してしまっては、その真意は謎のままだ。
「とにかく、事情を教えてください……分からないことだらけで、おかしくなりそうなんです!」
カケルの言葉を聞いた鏖殺人は、少しその場に留まって考える。
そのまま「……ついでだ、あれを確かめておくか」と呟いた後、彼はカケルに対してこんなことを告げた。
「分かった、俺たちの判断の理由を話そう。だが、実を言えば俺としても君に聞きたいことがある。良いかな?」
カケルが返答する間もなく、質問は投げかけられる。
「俺をここに呼んだ『通報者』の正体は……君だな?そうだろう、星野カケル君?」




