九話
先手を打ったのは母親の方だった。
細い腕に力をこめ、棒のような足で強く踏み込み、一気に鏖殺人に対して距離を詰める。
喧嘩の一つもしていない、一般の女性の行動としては、中々に思い切った行動だった。
未だに免罪符が偽物であると知られてしまったことの衝撃から立ち直れないカケルとは違い、彼女には分かっていたのだ。
目の前にいる相手を排除しない限り、娘はすぐにでも殺されると。
その行動に踏み切らせたのは、勇気と呼ばれるものだったかもしれないし、あるいは親としての愛情の方が大きかったのかもしれない。
ただ、一つ言えることは。
残念なことに、この場では大した意味がなかったということだ。
パシン、と軽い音が響き、前のめりになっていたカケルの母親の体勢が大きく崩れる。
そのまま、彼女の体は彼女の意思を離れ、真横にある壁に吸い寄せられるようにして激突する。
今度は、体のどこかを強く打ったのだな、とはっきり分かる、鈍い音が響いた。
母親は気絶でもしたのか、ずるずると壁に寄りかかるようにして崩れ落ちる。
その姿が消え、開けた視界の中に鏖殺人の姿があることを、何とかカケルは確認した。
鏖殺人は、左の拳を握り締め、それを空中に掲げるようにして佇んでいた。
その様子を見て、カケルもようやく現状を理解する。
カケルの母親が何とか不意を打とうと彼に殴りかかり──それを裏拳で払いのけたのだ。
その瞬間、女性にも容赦なく暴力を振るう鏖殺人の容赦無い態度を察して、カケルは身を震わせる。
歯はガチガチと震え、肌という肌に鳥肌が立ち、膝はいつの間にか笑っていた。
「君はカケル君だな?すまないが、手を引いているその子と、少し話をさせてくれないか?」
突然にして、鏖殺人の口調が、先ほどまでの丁寧なものから打って変わり、不躾にも思える普段使いのものとなる。
──これから殺す相手に、敬語を使う義理はないってこと……?
こんな時だというのに、カケルの頭の中にはどうでもいい感想が浮かぶ。
人間、極限条件では無駄な思考をしてしまうらしい。
「……もう一度言う、本当に少しだけ、話をさせてくれないか?」
カケルはゆっくりと首を回し、ランの方を見た。
ついさっきまで泣きそうだったランは、今ではどんな表情を浮かべればいいのか分からない、と言った様子で、呆然としていた。
口は半開きで、目は見開かれたまま、瞬きすらしていない。
──初めて外に出ようとしたら、凄いことばかりが起こったから、理解できる範囲を越えちゃったのかな。
またしても、どうでもいい思考が脳を埋めた。
「少し、触れさせてもらおう」
突然、先ほどまでとは比べ物にならない程の近さで鏖殺人の声が響き、カケルは比喩でもなんでもなく、ギョッ、と驚いて肩をはね上げた。
いつの間に移動していたのだろうか。
気が付いた時には、カケルの足元に──ランの正面に当たる場所に、鏖殺人がしゃがみこんでいた。
カケルの様子を意に介することもなく、彼は無造作に右手を伸ばし、未だ呆然として突っ立っているランの目元のあたりに、その指を添える。
カケルは、その様子を、ただ見ていることしかできなかった。
時間にしてみれば、ほんの一、二秒のことだったのかもしれない。
しかし、陳腐な表現だが、カケルにとっては一年にも十年にも感じられた時間だった。
鏖殺人は、その肌に本当に血が通っているのかを確かめるように、ランの目元で指を動かす。
やがてもう片方の手も添えて、両手でランの小さな顔を包み込んだ。
その態勢のまま、彼は静かに問いかける。
「君の名前は?」
意外にも、ランが答えるのは早かった。
「ほしの、ラン……」
それから、ほとんど間を開けずに。
鏖殺人は言葉を発する。
「やはり、違うな」
え、と顔を上げるカケル。
口が「ん」を発した形のままで、固まるラン。
そんな二人の様子を尻目に、鏖殺人は疲れたような様子で立ち上がり、今度ははっきりとした口調で告げる。
「この子は、異世界転生者ではない……。まず、間違いない」
そこからの鏖殺人の動きは迅速だった。
混乱するカケルには目もくれず、突然背を向けると、早足で家から出て、玄関に向かう。
玄関の傍でしばらくごそごそやっていたが、やがて数枚の書類とペンを持って再び屋内に入ってきた。
どうやら、玄関のところに手荷物を置いてあり、そこで目当てのものを探していたらしい。
玄関から廊下に足を踏み入れると、最初に鏖殺人は壁に寄りかかっている母親の元へ向かう。
一度刀や書類を床に置くと、手慣れた仕草で首に手を添えた。
脈を測っているようだ。
「寝てるだけか……」
そう呟くと、おもむろに胸ポケットから湿布を取り出し、カケルの母親のこめかみに丁寧に貼る。
その場所が壁にぶつかって、腫れていたからだろうか。
そのまま他にも二、三か所確認すると、気が済んだのかうん、と一つ頷き、立ち上がった。
次に、床に置いてある書類を拾い、まるで今気が付いた、とでも言わんばかりの様子で、鏖殺人はカケルたちの方を見やる。
ランはその無機質な仮面に恐怖を覚えたのか、繋いでいる手を震わせたが、不思議なことに、カケルはもう怖いとは感じなかった。
恐らくだがそれは、もう鏖殺人の様子から、敵意と呼べるものが消失してしまっていたからだろう。
故に、鏖殺人がもう一度自分の正面に来た時、カケルは顔をそむけなかった。
それどころか、相手をまじまじと観察する余裕まで生まれていた。
──何か、疲れてる?
改めて鏖殺人の姿を見直したカケルは、そんな印象を抱く。
手の先はだらりと伸ばされ、肩も張っていない。
歩き方も、早くはあるのだが、意気揚々としているのではなく、早く仕事を終わらせたい、と思っているような仕草だった。
そうやってカケルが鏖殺人を観察していると、やおら鏖殺人が手に持った書類の中の一枚をカケルに向かって投げ渡し、慌ててカケルはそれを拾う。
「ばいしょう、書?」
「賠償書だ。治療費に使え」
思わず書類に書かれていた文字を読み上げるカケルに対し、鏖殺人は面倒臭そうに説明する。
「君のお母さんを殴ってしまったんでね。それを持っていれば診療所の類は無料で入れる。まあ、今見たところ、少し額を打った程度で、怪我はほぼなさそうだが、念のためだ」
そこまで一気に告げると、少し慌てたようにして言葉を付け足す。
「言い訳になるが、彼女が飛び掛かってきたから、払いのけるだけのつもりだったんだ。ただ、思った以上に彼女が弱っていて、壁にぶつかる前に、既に気絶しているように見えた……。君のお母さん、ものすごく体が弱かったり、最近睡眠不足だったりするのか?」
恐らく後者だ。働き詰めの毎日の中、急いで家に帰り、一度眠りにつけば鏖殺人襲来で叩き起こされる。疲れない方がおかしい。
カケルが正直な感想を覚える中、鏖殺人は残りの書類を渡した。
「『当該人物に関する非異世界転生者証明に関する書類』、君たちが言うところの免罪符だ。もう俺の名前は書きこんである。お母さんが目が覚めたら渡してくれ」
カケルが反応を返す暇もなく。
その書類は意外な軽さで、カケルの手の中に納まった。
父親と母親が、大金をはたいてまで偽物を購入しようとして。
多くの異世界転生者が、それを見つけるために目を血走らせ。
カケル自身も、その存在を夢見た免罪符は。
まるでごみでも捨てるかのような気軽さで、鏖殺人から手渡された。
「じゃあな」
カケルの受けている衝撃も、事態についていけていないランの戸惑いも無視して、鏖殺人は家から出て行く。
呆然としていたのは、ほんの少しの間だった。
「ま、待ってください!」
ランと繋いでいた手を振り払い、カケルはできる限りの大声で呼びかけ、俄かに走り出す。
背後でランの声が聞こえたが、カケルはそれを無視した。
カケルにとって、それは実に六年ぶりの行動だった。
ランの存在を無視して、自分の意思を優先させる、というのは。
鏖殺人は相変わらず動きが早く、カケルが玄関にまで飛び出した時には、すでに大きな荷物を担いで、塀の前の草をかき分けていた。
「鏖さ……き、局長さん!待ってください!」
カケルは最大限の音量で声を絞り出し、それが聞こえたのか鏖殺人は足をピタリと止める。
「……色々と、説明してください」
続けられたカケルの言葉を、鏖殺人は何でもなさそうな様子で聞き流す。
しかし、なおもカケルが詰め寄ろうとしているのを察したのか、ため息を一つつくと、その場に荷物を下ろした。
「何を、だ?」
「……全部です。何で、ランが異世界転生者じゃないって話になったのか。何であんなにあっさり、免罪符をくれるのか」
昨日には、白縫。
今日は、鏖殺人。
連続で、意図もよく分からないまま現れ、さっぱり理解できないまま去っていく者たち。
ここで彼を逃してしまっては、その真意は謎のままだ。
長い間心臓に悪い時間を過ごした身としては、ここで鏖殺人に全てを明らかにしてほしい、という欲求があった。
他方で、馬鹿なことをしている、という自覚もあった。
なぜ鏖殺人がランを異世界転生者ではないと判断したのかは不明だが、一度渡された以上、今カケルが手に持っている免罪符は正しくその効力を発揮する。
カケル一家がずっと待ち望んでいた、普通の暮らしが送れるのだ。
ここで鏖殺人と話し込み、鏖殺人が「ああ、さっきはちょっとしたミスを犯してしまった。やっぱりあの子は異世界転生者だ。よし、殺そう」とでも言いだせば、全てが終わってしまう。
鏖殺人がランを普通の子どもだと思い込んでいるうちに、帰してしまった方がいい。
ランのためにも、帰した方がいいという判断。
自分としては、話を聞きたいという率直な思い。
勝ったのは、我欲の方である。
これもまた、ここ最近はしたことのない判断だった。
カケルの言葉を聞いた後も、鏖殺人は疲れた様子のままだった。
しかし、気合を入れなおすようにして姿勢を正すと、カケルに対して質問をしてくる。
「分かった、話そう。だが、俺としても一つ聞きたいことがある。いいかな?」
カケルが返答する間もなく、それは投げかけられる。
「俺をここに呼んだ『通報者』は──君だな?星野カケル君?」




