二十四話
もしもライトに冷静な思考力が残っていたならば、目の前に模倣犯が現れたからと言って、動揺した姿を見せることなどなかっただろう。
相手は、今まで常に監視を受けてきた身だ。
今は地震の混乱のせいで逃げ出しているようだが、すぐに中央警士が追い付くのは分かり切っている。
鏖殺人も近くに潜んでいるはずなのだから、客観的に見て追い詰められているのはライトたちではなく、眼前で殺人を起こした模倣犯の方だった。
ライトが大声でも出せば、それで片がつく可能性だってある。
だがそれでも、ライトはその人物を見ると同時に、多大な恐怖に襲われていた。
ライトたちを爛々と見つめる二つの瞳が、どうしようもなく恐ろしかった。
ライトたちのことを邪魔物とも、目撃者とも思っていないその目付きが。
その視線に敵意は含まれていなかった。
寧ろ感じ取れるのは、溢れんばかりの好奇心。
新しい獲物の到来をただ喜んでいるだけ────そう思わせる目付きだった。
一瞬だけ、ライトは彼の目付きに既視感を覚える。
ごく最近、どこかでこの目付きをみたことがあるような気がした。
しかし、それについて考える猶予はライトたちには与えられなかった────突如として模倣犯がランタンを右手に掴み、外壁から飛び降りたからである。
ライトの隣からはヒッ、という小さな悲鳴が聞こえた。
どうやら鷹野リョウの方も、模倣犯の動きに釘付けになっていたらしい。
そんな様子がわかっているわけでもないのだろうが、模倣犯は不気味な程に落ち着いた様子で地面に降り立った。
「……そっちから先にしましょうか。可愛いもの」
──そっち……どっちだ?
恐怖から思考能力が鈍っているのか、間抜けな疑問がライトの頭に浮かぶ。
しかし次の瞬間、ランタンの明かりが高速でライトの近くへ移動した。
──え?
一見して異常な光景。
だが、その疑問を処理する時間はなかった。
いつの間にかライトの姿勢は大きく崩れており、あっという間に背中から地面に叩きつけられた。
模倣犯が凄まじい勢いで自分を取り押さえたのだと気が付いたのは、地面に転がってから三秒ほど経ってからである。
「じゃあ、死にましょうか。大丈夫よ。今度は前回と違って綺麗に焼いてあげるから……」
ライトの耳のすぐ近くで、不気味な声が響く。
そこでようやく、ライトは自分の視界が真っ暗になっていることに気付いた。
加えて、顔全体と腹の辺りに感じる強い圧迫感。
──コイツ、俺の上にのし掛かって、顔を押さえつけてっ……。
殺される、と自覚する。
今月の犠牲者として、模倣犯はライトを選んだらしい。
前回の現場から西に一キロ離れたこの場所で、ライトを焼き殺そうとしているのだ。
……それを理解した瞬間、ライトの思考は異様なほど冷めていた。
恐怖心が既に振り切れていて、現実味を失っていたからかもしれない。
何故か動揺することはなく────心の全てが振り切れて、自分が今置かれている状況がどんなものなのか、メモを読み上げるようにして確認してしまう。
──カチャカチャと音が聞こえる。あの血が付いたナイフを取り出しているのか。
──左の腰の辺りが少し熱いな。ランタンの火でも燃え移ったか?
──しかし、身動きができないな。中央警士は体術を学ぶから、その一環だろう。
自分が少しずつ死へと向かっていることを心底分からされたことで、感情の類がライトの中から消えていく。
まるで全くの他人が死にかけているのを遠くから眺めているかのような、そんな気分になっていた。
恐怖は無かった。
諦めている訳でもなかった。
この時、ライトが感じた感情を表現するのは難しい。
強いて言えば、「虚無」だろうか。
自分が無になっていくこの感覚。
これの中では、服に燃えた熱さも、首に押し当てられたナイフの冷たさも、どうでもいいことだった。
──ああ……「死」は、こういうものか。
脳内をぼんやりとした感想が満たす。
同時に、異世界転生者は死の前にどんなことを考えていたのかなと考えた。
自分が看取った池内大我の顔がフッと浮かび、消えた。
そして────。
「……う、う、うわああああああああああああ!」
場違いに思える叫び声をライトの耳が感じとり、思考が一瞬現実に戻ってくる。
──な、何だ?
疑問を覚えた次の瞬間には、顔と腹に感じていた圧迫感が消失していた。
ライトは反射的に息を吸い込み、久しぶりに呼吸をする。
酸素が脳に回ってから、ライトは無意識に首を回して状況の確認に動いた。
まず右を見ると、そこには壊れたランタンと倒れ伏した人の姿がある。
そして左を見ると……何かに体当たりでもしそうな体勢で立ち尽くしている鷹野リョウがそこにいた。
──模倣犯が俺にのし掛かっていたのを、体当たりして助けたのか。
理解が及ぶと同時に、先程の叫び声の意味が分かる。
あれは、彼が勇気を振り絞って攻撃を仕掛ける掛け声だったのだ。
初対面の人間のために、そこまでの勇気を振り絞るとは────かなりのお人好しなんだろうか、とライトは推測する。
そこまで考えたところで、ライトは首の痛みと、依然として左腰の辺りが異様に熱いことに気づいた。
首の痛みについては、ナイフを押し当てられたときに皮膚が切れたのだろう。
問題はこの熱さの方だ……そう分析して下を見た直後、ライトは情けなく叫ぶことになった。
「……うわぁ!?あ、あ……熱っ!た、た、助け……!」
感覚が麻痺していて良く分からなかったのだが、実際に見てみると左腰の辺りの服は大炎上していた。
着火点であろうズボンはもちろん、上着にも火が燃え広がっている。
──こ、このままじゃ焼け死ぬ!
慌ててライトは跳ね起き、すぐさま上着を脱ぎ棄てる。
続けてズボンを脱ごうとしたのだが、これは上手くいかなかった。
炎のせいでベルトの金具が高温になっていて、触ることすら難しい。
そうやって、焦る思考の中で何とかズボンを脱ごうと四苦八苦していると……不意に、左足に冷たい何かがサッとかかった。
誰かが水をかけてくれたのだ。
勢いはかなり弱いが、確実にそれは火を消していく。
「あ、あの……大、丈夫、ですか」
ガチガチと震える歯の間から声を絞り出すようにして、鷹野リョウが口を開いた。
そこでやっと、ライトは水をかけたのが彼であることを察した。
彼は決して、どこかから水を持ってきたのではない。
自分の右手の指の間から、これだけの水を溢れさせたのだ。
その水が、ライトの左腰に向かっているのだ。
「これが……魔法?」
未だ完全には鎮火していないのだが、ライトは思わず声を出していた。
命を助けてもらっておいて失礼な言い草であることは分かっているのだが、ライトが最初に思ったのは、「これが魔法なら、意外と大したことないな」というものだった。
何せ、やっていることは少量の水を出しているだけなのだから。
それも、表情を見るにかなり苦しそうだ。
チョロチョロと水を出すだけでも、かなり無理をしているのかもしれない。
危険だ危険だと聞かされてきた魔法だが、これが危険だというのなら、子どもの持つ水鉄砲の方がよっぽど危険である。
──現代の異世界転生者が使う魔法って言うのは、こういうものなのか……。
いささか拍子抜けしつつ、ライトはズボンに燃え移った火が消えていく様を見守った。
幸いにして炎は見た目ほどにはしつこくなく、一分もしないうちに消火は完了する。
ライトと鷹野リョウは、互いに安心したように大きく息を吐き、全身から力が抜いた。
二人とも、吹っ飛んだ模倣犯が気絶しているのかどうかなど、気にもしていなかった。
緊張や興奮から、一時的に忘れ去っていたのである。
「あの、ありがとうございました」
ここでようやく、ライトの口から感謝の言葉が溢れ出る。
先程までまだ混乱が残っていて、礼を言うどころではなかったのだ。
この時だけは、ライトは自分が転生局の職員であることを、そして目の前にいる鷹野リョウが異世界転生者であることを……忘れていた。
それは相手も同様だったらしい。
鷹野リョウは、いえいえ、と謙遜するかのように手をヒラヒラと動かす。
一瞬だが、ライトと鷹野リョウとの間に弛緩した空気が流れた。
「ひどいわぁ……痛いわぁ…………だけど、いっぱい抵抗してくれる子は、アタシ、好きよ……」
丁度その瞬間、地響きのように低い声が空気を震わせる。
彼の声は鷹野リョウを身構えさせ、ライトに今の状況を思い出させた。
反射的に振り返れば、ランタンの奥で大きな影が立ち上がろうとしている。
言うまでもなく、模倣犯だ。
鷹野リョウの決死の体当たりによって一時的に気絶していた模倣犯が、今になって起きたらしい。
「……あらぁ、火、消えちゃったのお?だめよぉ、ちゃんと、燃やさないとぉ……」
その言葉を受けて、ようやくライトの危機意識が復活する。
気がついた時には、鷹野リョウに向けて叫んでいた。
「……逃げろ!」
二人の走り出す方向が同じだったのは、決して偶然ではないだろう。
レストラン前に近づこうとしていた模倣犯から逃げているのだから、必然的にレストランから逃げるようにして走ることになる。
ライトの心臓は不規則な、そして大きな拍動を繰り返していた。
バクンバクンと足の先まで響きそうな心音は、ライトの恐怖心を確実に煽っていく。
模倣犯に押さえつけられた時、恐怖心を忘れられたことが自分でも信じられない……今はただ、恐怖に駆られて走るしかない。
ふと横を見れば、鷹野リョウの方も似たような様子だった。
ただただ、逃げることだけを考えている。
互いの立場については、とうに忘れていて────だから、なのだろう。
逃げた方向に、人影を認めた時。
ライトと鷹野リョウは地面に膝をつき、その人物の腰に縋り付いていた。
「た、助けてください、さ、さ、殺人犯が!」
その言葉を発したのがライトだったのか、鷹野リョウだったのかはわからない。
二人とも、これでなんとかなるかもしれない、とだけ思っていた。
……後から聞いた話だ。
ライトたちが人影に縋り付いた場所は、レストランから百メートルも離れていなかった。
全力疾走しているつもりだったが、混乱のあまり上手く走れていなかったのだろう。
或いは、恐怖から体感時間が狂っていたのかもしれない。
重要なのは、そこはまだまだレストランの近くだったということ。
なら、予想してしかるべきことだった。
ライトたちの前に、近くで見張りをしていた彼が現れることを。
しかし、ライトがその事に気が付いたのは────彼の声を聞いてからだった。
「お前、異世界転生者だな?」
ライトの隣から、突然、生暖かい液体がパチャパチャと飛んできた。
一瞬だけ、ライトはまた鷹野リョウが魔法を使ったのかと考える。
しかし勿論、それは間違いだった。
顔を上げたライトの目に映ったのは、正面に立つ鏖殺人の姿。
彼は、腰の愛刀を抜き放った状態で静止していた。
微動だにしない彼に縋り付いていると、ライトの背後から声が聞こえてきた。
「やだぁ、鏖殺人が来てるのぉ?」
聞き間違えるはずもない、あの模倣犯の声。
鏖殺人は模倣犯がいるのであろう方向をチラリと見たが、すぐに視線を戻す。
模倣犯に対して全く興味がない────もっと重視すべきことを優先するために、模倣犯を見逃したかのような態度だった。
やがて、ライトの背後からは模倣犯以外の複数の足音が聞こえるようになる。
それと同時に模倣犯の気配はなくなり、どこかに立ち去ったように思えた。
中央警士がようやく模倣犯に追いついたようだ……そんなことを確認する。
そこまで理解して、ようやくライトは首を真横に振った。
隣にあった鷹野リョウの体は、首から下については先程までと同じだった。
ライトと同様に鏖殺人の足に縋り付き、地面に膝を付いている。
だが、首から上は違った。
そこには……何もなかった。
ただ、文字通り皮一枚で首と繋がっている頭部が、彼のうなじからぶら下がっているだけ。
彼の顔は、助けてもらえるという希望に満ちたままの状態だった。
恐らく、自分が死んだことにすら気がつかなかったのだろう。
何が起こったのかは、一目瞭然だった。
鷹野リョウが自分に縋り付いていた時、鏖殺人は即座に抜刀して────彼の首をはね飛ばしたのだ。
殺人犯に追われ、必死に逃げてきた彼を。
その過程で、ライトの命を助けた彼を。
鏖殺人は殺したのだ。
────刹那、言葉にならない感情がライトの体を走り抜ける。
怒りだとか、疑問だとか、そんな単純に分類できる概念ではない。
決死の叫び声をあげて模倣犯に体当たりを仕掛けて、燃える自分の服に対して水をかけてくれた彼の姿が脳裏に浮かんで……その一つ一つが、ライトの中に激情を生む。
「……何っ、でっ……」
激情の中の一つが、言葉という形で表現される。
納刀していた鏖殺人が、自分に視線をやるのがわかった。
「何、でっ……こ、殺し、たっ……?」
「異世界転生者だからだ。そのために来たんだろう?」
鏖殺人の返答は迅速だった。
全く気負う様子もなく、淡々と言葉を紡ぐ。
だが、違う。
ライトが聞きたいのは、そんなお題目ではない。
「彼、はっ、お、追われて……てっ!そ、その、模倣、犯はっ、見逃して、か、彼だけ、な、なぜっ……!」
言葉に対して抱く思いが強すぎて、まともな言葉にならない。
だが、「連続殺人犯を平然と見逃したのに、何もしていない異世界転生者だけを殺したのは何故か」という趣旨は伝わったのだろう。
やはり淡々と返事がされる。
「中央警士が追い付いたようだから、模倣犯の方は俺が追わなくてもすぐに捕まるだろう。だが、異世界転生者を殺すのは俺たちしかできない。寧ろ、あの場面でこの異世界転生者を殺さない方が問題だ。模倣犯の方が先に異世界転生者を殺していたら、ややこしいことになっていた」
鏖殺人の言葉は相変わらず論理的だった。
何故あの場で殺さなくてはならなかったのかを、理路整然と説明する。
だがこの回答には、ライトの求める要素が一つもなかった。
「あ、あなたは、こ、これがっ、正しいと?これで、良かったと?」
だから次にライトの口から飛び出した質問は、彼が鏖殺人に真の意味で聞きたかったことの一部を含んでいた。
この出来事を通して、貴方は少しも気分が悪くならないのかという疑問。
殺人犯を見逃して、それに追われていた被害者を殺すことに何も感じていないのかという疑問。
きっと、嘘でもいいから……ライトは鏖殺人に、「正しくない」と言ってもらいたかったのだろう。
罪悪感を感じている、流石に気分が悪い。
そう言ってもらいたかったのかもしれない。
鏖殺人は「人類異世界起源説」を知っており、彼らと自分たちが同じ人間であることを知っている立場なのだから。
しかし────────。
「俺は、転生者法に定められたことに従ったまでだ。見張りを始める前に言ったはずだろう。俺の信条は……『異世界転生者は全て殺す。しかし、人間は誰一人として殺さない』だからな。どんな場面でも、俺は自分の手で人間を害しはしない」
その言葉は、ライトの脳内で自動的に翻訳される。
──アレルの人間であれば、例えその人物が連続殺人犯であろうと見逃して……異世界転生者であれば、その人物がどんなに哀れな存在であろうと殺す……そういうことか。
鏖殺人の真意を理解し、ライトは奥歯を噛み締めた。
たかが二週間程度だが、今まで経験してきたことが走馬灯のように甦る。
血も拭われず、倉庫に雑に置いてあった風野凛花の遺品。
現地の住民に襲われ、病気になり、ボロボロの体で死んでいった池内大我の眼差し。
転生局の人間である自分を助け、最後は自分の隣で殺された鷹野リョウの生首。
記憶はさらに遡る。
村の外れで暮らしながら、自分達に優しかったワクリのおじちゃん。
その末路に口を閉ざした大人たちと、それを忘れるように努めた自分たち。
決して、今になって初めて考えたことではない。
転生局に配属される前から密かに考えてきたことが……考えてきては、頭の中で打ち消してきた言葉たちが。
初めて、ライトの喉から外に出た。
「貴方は……この国は……おかしい!」
顔を上げて、鏖殺人の仮面を見つめて。
はっきりと声を出す。
「貴方は、狂っている……!」
……半ば予想していたことだが、鏖殺人には何の変化も見られなかった。
ただ左手を刀の鞘に触れさせ、じっと立ち続ける。
強いて言えば、一言だけ言葉を漏らしてはくれた。
「そうかもしれない……で?」
そのまま鏖殺人はライトの手を振り払い、鷹野リョウの死体検案を始めるのだった。




