一話
一章の語り手:グリス王国一等職員研修生 四宮ライト
────大して掃除もされていない廊下を、ほとんど全力疾走と言ってもいい速度で駆け抜ける。
本来なら建物内は原則走らないように言われているのだが、今はそんな決まり事を守っている余裕はなかった。
四宮ライトは、何とか初出勤を遅刻という形で迎えないよう、倉庫棟の廊下を走っていく。
本来なら、こんなに急ぐ必要はなかったのだ。
余裕をもって、ライトは指定された時刻の一時間前には敷地内に入っていた。
普通なら、遅刻などありえない時間帯である。
しかし、その後の流れの中には、誤算が二つ。
一つは、今日から行かなくてはならない部署の場所を、事前に確認することを忘れていたこと。
しかも、事務の人間にその場所を聞いても、答えられる人間が少なかった。
そして、もう一つの誤算は────ようやく教えられた場所が、かなり事務局から遠かったことである。
それはもう、隔離されているのではないか、というような場所だったのだ。
「……何で、『転生局』はこんな端っこにあるんだよ!」
我知らず、ライトの口からは愚痴が飛び出した。
……今、ライトが全力疾走をしている場所は、グリス王国国家理事会の敷地である。
国家の運営を行うこの理事会は、国の中央に広大な敷地を構えており、さらにその敷地をいくつかのブロックに分けている。
その上で、それぞれのブロックに、内務省や外交省、経済省といった組織に割り当てているのだ。
ライトが今向かっている「転生局」は、名目上内務省の下部組織であるため、彼としてはてっきり、内務省のブロックの中にあるのだろうと思い込んでいた。
ところが、事務局が教えてくれた位置は、理事会の敷地の隅。
保存義務のある書類を貯めている倉庫棟の、さらに奥だった。
ライトが二等職員として理事会に勤め始めてから二年がたつが、一度も訪れたことのないような場所である。
「確か、ここを曲がって……!」
廊下の埃を巻き上げながら、やけに複雑な構造をしている倉庫棟を疾走する。
さらにもう一度曲がると、ようやく出口の扉が見えてきた。
何とか遅刻しなくて済みそうだ、と安心したライトは、扉の手前で一度立ち止まり、息を整える。
ポケットから取り出したハンカチで額の汗をぬぐうと、自分の姿を振り返る余裕も生まれた。
「ネクタイ、上着、バッジ……」
念のため、一つ一つ声に出して確認する。
普通の部署ならさすがにそこまでしなくてもいいのだが、今回ばかりは相手が普通ではない。
何しろ────あの鏖殺人が所属している部署なのだ。
彼にまつわる、怖い噂は多い。
国家理事会の中でも、いくつもの都市伝説がまことしやかに囁かれている。
曰く、異世界転生者を擁護した部下が、半殺しにされた。
曰く、異世界由来の技術を研究させてほしい、と頼みに行った学者が、二度と帰ってこなかった。
曰く、建物自体が、異世界転生者の骨でできている。
最後のものなどはさすがに嘘だろう、とライトは思うのだが、この噂話を教えてきた情報通の同僚は、本気で信じているらしかった。
研修先が転生局に決まった、と告げた時には、ライトよりも彼の方が驚くほど顔を青くしていたものだ。
そんなことを思い出しているうちにチェックが終わり、とりあえず問題はない、と結論づける。
そうやって、ようやく、ライトは「転生局」に向かった。
その場所に辿り着いてから、最初にライトの目に入ったのは、くすんだ色をした平屋建ての建物だった。
敷地全体を囲んでいる外壁に接するように建てられていて──コンクリートでできているのか──外観は暗い灰色をしている。
窓らしきものは壁には見当たらず、ライトから見て正面に、入り口と思しき扉が見えるのみだった。
その代わり、という訳でも無いのだろうが、扉の両脇には、小さい物ではあるが花壇が備え付けられ、控えめにその花弁を揺らしている。
その色が鮮やかだったせいか、対比で、建物全体が一層暗く見えるようだった。
──ここが、あの、転生局?
噂に名高い鏖殺人がいるとは、とても思えないこの建物に────そこそこ大きくはあるが、廃墟めいた建物の姿に、ライトは眉を顰める。
正直に言えば、理事会敷地内のどの建物よりも、この建物は安っぽく見えた。
しかし、少し近づいてみると、花壇のところに「転生局」と書かれた木札が備え付けられているのが分かる。
それを見たライトは、どうやら間違っていないらしい、理解した。
……そして、そんなことを考え込んでいる時である。
不意に、目の前の扉がパタン、と音を立てて開いた。
あまりにも突然のことに、ライトは思わず悲鳴を上げてしまう。
同時に、色んな可能性を考え込んだ。
まず考えたのは、鏖殺人が、なかなか来ない研修生にしびれを切らして、出てきたしまったのではないか、ということだった。
要するに、これから叱られるのではないか、という不安である。
それを恐れて、ライトは反射的に腰が引けてしまう。
しかし────実際のところ、扉を開けたのは、小柄な少女だった。
意外な光景に、ライトは目を見開いて驚く。
別に、転生局に所属しているの職員は、鏖殺人だけではないだろう、ということに思い当たったのは数秒経ってからである。
少しだけ冷静さを取り戻したライトは、そのまま扉を開けた少女の姿を、やや屈んでから視界に映す。
わざわざ視線を低くしたのは、少女が小柄だというのもあるが、それ以前に彼女が車椅子に乗っていたからだった。
不躾なことだとは理解しているのだが、ライトどうしてもそこに目がいってしまう。
「あの……」
少女から声をかけられてやっと、ライトは我に返った。
車椅子を見つめていた顔を上げ、初めて相手の顔を真正面に捉える。
すると、綺麗な子だな、と正直な感想が浮かんできた。
見た感じ、一等職員の制服を着ているし、それなりの年齢のはずなのだが、目の前の少女は、とても成人しているとは思えない程幼い顔立ちをしている。
大きすぎるのか、袖が手の半ばまで覆ってしまっている上着といい、整っているが童顔気味な顔といい、転生局よりも学校の方が似合っているように思える姿だった。
肩のあたりまで伸ばした、黒く艶やかな髪や、色白だが、決して病的ではない肌も、その印象を強めている。
……しかし、そんなことを考えているライトの姿は、少女にはよほど怪しく映ったらしい。
一瞬、警戒するように眉根を寄せたが、すぐに思い当たることがあったのか、胸の前で両掌を合わせ、ポン、と叩いた。
「あ、今日から研修予定の、四宮さんですね?」
問いかけられて、慌てて頷く。
そうすると、すぐに少女は笑みを返した。
「ティタンさんが奥で待っています。どうぞ」
そう言うと、少女は器用に車椅子を動かし、狭い空間で上手くターンする。
それから、ライトを先導するように、建物の奥に進みだした。
──確か、ティタンというのが、鏖殺人の本名だったな。
慌てて、彼女の後についていって。
扉を閉めながらも、ライトはそんな、当たり前の事実を確認していた。
ライトが転生局に研修に来ることになった経緯というのは、話せば長くなる。
動機から言うのであれば────ライトが子供の頃から、国の運営に関わることが、すなわち政治の世界に進むことが夢だった、と言う点が発端になるのだろうか。
だがそれについて説明する前に、この国の政治制度を説明しておいた方が良いだろう。
その方が、ライトの経歴も分かりやすくなる。
まず、今ライトが居るこの国は、グリス王国という大国だ。
この、アレルという世界を構成する国家の中でも一際大きい、先進国である。
そして、このグリス王国という国は、三種類の人間によって政治運営がされている。
特等職員、一等職員、そして二等職員の三種類だ。
この内、特等職員というのは、所謂貴族階級の事である。。
より詳しく説明するなら、「かつて、グリス王国の建国において大きな役目を果たした三十二の家の者、及びその子孫がなることの出来るこの国の特権階級」となるだろうか。
尤も、建国からかなりの時間が経過した現在では、特等職員というのは、様々なお役所のトップに、お飾りとして就任するくらいしか、仕事がなくなってしまっている。
もっと言ってしまえば、彼らはあくまで傀儡や象徴であり、給料すら出ないため、名誉職としての意味合いが強い。
実際のところ、立場上は偉いが、実務はしていない。
このため、実際に国の運営を行うのは、残り二種の者たちである。
グリス王国の国民の中から、国家試験を突破して選ばれる、一等職員と二等職員だ。
この二つの職業は、名前から示される通り、業務内容が大きく異なる。
まず、一等職員の方は、政治的に大きな仕事に関わることが可能で、待遇も良い。
一部の例外を除けば、特等職員になる貴族がお飾りであることを考えると、彼らこそ国の頂点と言ってもいいだろう。
一方、二等職員の方は、言葉を選ばなければ、一等職員の下働きのような存在だ。
下っ端の役人、というか。
基本的な役目としては、一等職員の指示で動く部下たちである。
こんな有様なので、当然のことながら、同じ役人でも、一等職員の方が職業としての人気は高い。
一般人でも努力次第で、実質的な政治の最高権力者になれるのだから、夢のある仕事と言っても良いだろう。
子供たちに将来の夢を聞けば、かなりの数が一等職員と答えるくらいだ。
だが────仮に一等職員になろうとしたとしても、その道のりは、決して平坦な物ではない。
というのも、一等職員になるための国家試験は、合格の倍率が六百倍とも言われ、極めて難しいことで有名だからだ。
二等職員になるための国家試験は、倍率が三倍から五倍なのにも関わらず、だ。
ライトも、この一等職員を目指した一人である。
だが、名門と呼ばれるグリス大学校をかなりの好成績で卒業した彼ですら、一年目の一等国家試験では惨敗。
民間商社の手伝いをして糊口をしのぎ、もう一度挑戦した二年目でも不合格。
結局、滑り止めとして受けた二等国家試験に受かったことを契機として、二等職員として働き始めた。
しかし、二等職員の仕事は、彼にとって面白くもつまらなくもない、無味乾燥な代物だった。
何度も言うが、所詮は下級職員である。
役人なので、生活は安定しているが、高みを目指すことはまず出来ない。
故に、夢を諦めきれずに、三度目の挑戦をしたのが一年前。
二等職員として働きながら試験勉強をする、という困難な状態だったのだが、その必死さが答案にも表れたのか、ライトは何とか合格を勝ち取った。
かくしてライトは、一等職員としての第一歩を歩み始めたのである。
……ただし、合格したばかりのこの時点では、ライトはまだ一等職員とは扱われない。
制度上、国家試験の合格者は一度「研修生」という身分になり、約二年間、様々な部署を回って研修をした上で、初めて一等職員となれるのだ。
例えば、一年目のライトの場合は、法務省、農務省、医療省、経済省をそれぞれ三か月ずつ研修した。
これらの研修先は、根回しなどができないように、配属直前に伝えられるという特徴がある。
また、配属先は指導員の評価の元、適性がある、とされた場所に決定される。
つまり、どれほど自分に合わないと思う部署でも、指導員が向いている、と判断したのであれば、三か月は我慢して勤めなければならない、ということだ。
だからこそ、ライトも、次の研修先を選ぶことなど出来なかった。
それが例え、異世界転生者を抹殺するための特殊な部署────内務省所属平和庁直属特務機関「転生局」だとしても。
……廊下を歩きつつ、そんな長すぎる回想に浸っていると、不意に、ライトの耳を響かせていた車椅子の車輪の音が止まったことに気づいた。
慌てて前を見てみれば、いつの間にかライトと少女は、既に廊下の突き当り、すなわち鏖殺人の部屋たる局長室前に来ている。
目をやると、車椅子に乗った少女が、丁度局長室の前で、ノックをしているところだった。
──……いよいよだな。
扉が空いたら、今まで遠目にしか見たことのない鏖殺人に対して、挨拶しなくてはならない。
緊張から、ライトの心臓が少しずつ高鳴ってくる。
そして、その心臓の音をぶった切るようにして、扉の奥から人の声が聞こえた。
「……どうぞ」
素っ気ない一言が扉の奥から聞こえてきて、心臓の鼓動が一気に乱れる。
一方、車椅子の少女は、そんなライトの様子に気づいているのかいないのか、一つ会釈をして去っていった。
案内役の役目はここで終わり、ということだろう。
一人になったライトは、一度、唾をのんだうえで、扉のノブをゆっくりと掴む。
そのまま、失礼します、と早口で告げ、一気に部屋の中に入っていった。
────結論から言えば、ライトが入った転生局の局長室、すなわち鏖殺人の執務室は、非常に簡素な部屋だった。
殺風景、と言ってもいい。
置いてあるのは来客用の椅子と机、それと、鏖殺人本人のための事務机のみ。
壁には本棚が取り付けられているが、殆ど本は入っていない。
ただ、机に座る鏖殺人と、その傍らに無造作に立てかけられている彼の愛刀が、部屋全体に緊張感を与えていた。
扉を閉めながら、ライトはまず、鏖殺人の様子を伺う。
そして、室内でも付けたままになっている、青い仮面を認めた。
外していないのか、とライトは少し驚き、次に彼ならそうだよな、という奇妙な納得も覚える。
むしろ、その下の、口元を覆うマスクが外され、机上に置かれていることの方が、意外に思えた。
マスクの隣には、紅のグラスに注がれた氷水が並んでいる。
彼のためだけに特注された、と噂される軍服風の制服を着て、普通に座っている鏖殺人は、それだけなら少し奇妙な恰好をしているだけの役人に見えた。
しかし、彼の武勇伝とでもいうべき活躍を、既に噂好きの同僚から聞き及んでいるライトとしては。
鏖殺人がただ座っている、ということ自体が、とてつもなく奇妙に思えた。
ライトの中の、本能とでも言うべき部分が警鐘を鳴らす。
それは殆ど、悲鳴に近い声色だった。
──油断するな。相手がまともな人物であるはずがない。何しろ彼は、あの「ティタン」の末裔なのだから……。
────かつて、グリス王国を建国した三十二の家柄の貴族のうち、最も功績があるとされた者。
世界に混乱と不幸を振りまき、人類を滅亡させかけた最悪の異世界転生者、佐藤トシオの殺害に成功した「転生者殺し」。
建国後も、異世界転生者の抹殺に力を注ぎ、特等職員の中でも別格とされた英雄。
その、初代ティタンの末裔こそが、眼前の人物。
ティタン襲名後、あまりに苛烈な異世界転生者に対する弾圧から、「転生者殺し」ではなく、皆殺しを意味する「鏖」の字を使って「鏖殺人」とまで呼ばれるようになった人物である。
その鏖殺人は────部屋に入ってきたライトを、軽く見て。
それから、そっとグラスを手に取った。
彼はそのグラスを高く掲げ、まるで乾杯でもするよう仕草をする。
それから、こう口を開く。
「……君が、四宮ライト君、だったな?」
問いかけに応じて、ライトの体が少し揺れる。
返答したいのだが、言葉にならない。
何というか、そうなってしまうくらい、鏖殺人には風格があったのだ。
どうしても、固まってしまう。
そんなライトの様子に、鏖殺人は少し笑い────そのまま、呟くように、こんな言葉を告げる。
「……ようこそ、この世の地獄に」
チリン、と鏖殺人がグラスを僅かに揺らす。
その、グラスの中の氷がカラカラと揺れる音だけが、部屋の中に響いていた。