十話
喉の奥がやけに渇いた。
瞬きを必要以上に繰り返す。
だがそれでも、男性がライトの視界から消えることはなかった。
その状態のまま、男性に向かって歩み寄ることが出来たのが何故なのか。
ライトには分からない。
すぐに鏖殺人の元に連れていこうと思えるほど、職務に熱心というわけでもなく。
彼を救い出そうと思えるほどの気概も持ち合わせず。
自分が彼を見つけた時点で、消去法で彼の未来は決まったようなものだというのに。
二、三歩歩くと、彼の姿をよりはっきりと観察出来るようになった。
思っていた以上にボロボロな様子だ。
着ている猟師の服は、殆どぼろ布のような有様だった。
とりわけ服装の中で目立っているのは、首元から胸にかけて付着している茶色い染みである。
生地自体が茶色をしているためにそこまで目立っていないが、真相を知るライトは、それが乾いた血の跡であることが容易に推し量れた。
彼が猟師の首を切り裂き、服を剥ぐまでの過程で付着したのだ。
彼と話し込んでいる看護師は、怒りながらも心配そうな表情を浮かべていた。
彼女の顔を見ないようにしながら、もう一歩足を踏み出す。
そこまで進むと、彼らの……池内大我と看護師との会話が耳に入ってきた。
「ですから、貴方の体は重度の肺炎を起こしてるんです!病院としては、今の状況で退院を許可するわけにはいきません。どんな事情があるかは知りませんけど、ベッドに戻ってください。明日はもっと大きい病院に搬送して、その病気を治してもらうんですから」
「……い、いや、それは、無理です。治療費は後で何とか払いますから、ここは退院させてください。も、もう元気で……」
そこまで話したところで、男の方がゴホッ、と咳をした。
更に二個、三個と咳を重ねる。
彼の様子は明らかに病的なものであり、ライトは「異世界転生者は重病を発症している」という鏖殺人の推理が正しかったことを理解した。
咳を何度もしたためにかなり疲労したのか、異世界転生者はその場に蹲る。
すぐに、看護師は彼の背に手を添えた。
それでも彼は看護師の手を振り払い、最後の力を振り絞るようにして再び立ち上がった。
肩で大きく息をして、異常に赤くなった顔のまま仁王立ちする彼の姿には一種の迫力が伴うらしく、看護師が後ずさる。
一方で横から眺めるライトには、彼の様子がこの上なく痛々しく見えた。
「……ち、治療費は、またどこかで必ず払います。これ以上迷惑をかける訳には……ち、治療してくれて、ありがとうございました」
途切れがちな、細い声だった。
肺炎のせいで喉が炎症を起こしているのだろうか。
そのまま彼は歩き出して、診療所から見て右手の方向────丁度、ライトがいる方向に向かう。
彼はそこで初めて、自分たちの様子を観察していたライトの存在に気が付いたようだ。
紅潮した顔に、明確な疑問符を浮かべる。
しかしすぐに病気の辛さが疑問を上回ったらしく、苦悶の表情が彼の顔を占めて、急いだ様子で歩き出そうとする。
そして池内大我は、ライトから一メートルも離れていない位置にまで近づいた。
……もう、見逃したという言い訳は通用しない。
診療所の入口には、まだ看護師がいる。
ここでライトが妙な行動をとれば、彼女の証言から鏖殺人にそれがばれてしまうだろう。
だから、もうライトのやることは一つしかない。
──八方塞がりだな……俺も、貴方も。
無意味だとは分かっていながらも、心中には共感のような感情が湧いてくる。
だが感情とは関係なく、理性は的確な行動をとった。
襟につけた転生局のバッジを取り外して、池内大我に向けて見せつけるようにして構える。
告げるべき言葉は────。
「内務省所属平和庁直属特務機関転生局の、四宮ライトです。あなたを……排除しに、来ました」
殺しに来た、とはどうしても言えなかった。
池内大我の様子が、すぐに変わることはなかった。
意識が朦朧として、立っていることすら怪しいような状況で、ライトの言葉を理解できなかったのかもしれない。
代わりに反応を示したのは、彼の背後にいる看護師である。
彼女はライトの言葉に合わせて小さく悲鳴を上げた後、「転生局」の部分を繰り返し口にした。
まあ、一般の人からの印象はこんなものだろうな、と一瞬だけライトの意識は池内大我から離れる。
そして、ライトがよそ見をした丁度その瞬間────池内大我は、突然走り出した。
「え、ちょ……え?」
制止する暇も無い。
瞬く間に彼はライトの隣をすり抜け、そのまま走り抜ける。
言葉の意味は分からなくとも、ライトが自分を捕まえに来たことを察して逃げ出したのだ、ということに思い当たったのは数秒後だった。
「……ま、待て!」
反射的に声をあげ、彼が逃げていった方向に向かって駆け出す。
だがその時にはもう、池内大我はかなりライトから離れた位置にいた。
──は、速い!?
とてもじゃないが、病人であるとは思えない程の速度だ。
生命の危機にある人間というのは、ここまでの力を発揮する物なのか。
それとも、魔力により強化がなされているのか。
一応追いかけるライトだが、相手との距離は大きく変わらない。
このままだと、振り切られる可能性も────。
──逃げられる……いやでも、これは……
見る見るうちに小さくなっていく、池内大我の背中。
それを確認すると同時に、正直ライトは「助かった」と思っていた。
今のは、純粋なミスだ。
故意に行ったことではない。
後ろで呆けているであろう看護師も証言してくれるはずだ。
ライトは叱責され、研修の評価も下がるだろうが、このぐらいなら────そうやって頭の中で言い訳をして、気が緩んだ時だった。
池内大我は……急に立ち止まった。
何か言うでもなく、本当にいきなり。
必然的に形だけ走っていたライトとの距離は近づき、うっかりライトは彼に追いついてしまう。
──病気による限界が来たか?もしくは、もう諦めてしまったとか?
それは困る。
ついさっき思いついた言い訳が、追いついてしまっては機能しなくなるのだから。
彼に近づきながら、ライトの胸中は不安に埋め尽くされる。
何にせよ、もう少し近づいてみようと歩み寄って……。
その直後、ライトは彼の背中から青い刀身が突き出していることに気が付いた。
「……っ!」
心臓が一気に跳ね上がり、目を見開く。
惰性で動いていた足が、急に動きを止めた。
それと同時に、彼の立っている場所に血溜まりが出来ていることを認識した。
立ち止まった途端に、周囲に声が響く。
この二日間で、聞き慣れてしまった声。
「……お前、異世界転生者だな?」
いつの間に、ライトたちに追いついたのだろうか。
池内大我の目の前には、鏖殺人がいた。
後から思えば、彼が来ていること自体はさして不思議でもない流れだ。
大病院に異世界転生者はいなかったことを伝えられたから、自身も小さな診療所の捜査に参加したのだろう。
ライトの後についていたのは、新人であるライトの手助けをするためだったのかもしれない。
しかしその道中で、彼は幸運にも逃亡中の異世界転生者を発見して────逃げてきた池内大我を、躊躇なく殺したのだ。
腹部を愛刀で突き刺して。
……ライトが呆然と思考している内に、ズルリ、と池内大我の腹部から刀が引き抜かれる。
支えになっていた刀を引き抜かれたことで、池内大我は一、二歩、踊るように体を揺らしたが、やがて完全に体から力が抜けたのか、仰向けに倒れた。
さながら、彼の背後にいたライトにもたれかかるかのように。
ライトが彼の体を避けることなく受け止めたのは、憐れんだからというよりは、ただ動けなかったからだった。
結果として、ライトは瀕死の池内大我を抱えているような状況になる。
……熱い。
抱き留めて初めて分かる。
本当に人間の体温かと疑いたくなる程に、彼の体は熱かった。
──こんな状態で、必死に逃げて……。
その時、彼の首がグラリ、と上を向く。
彼を観察するライトの視線と、池内大我の視線が交差した。
目という物は、時として表情以上に人間の感情を示す。
この時もその例外ではなかった。
池内大我の目は饒舌だった。
最初に感じ取れたのは、強い憤怒と激情。
何かを伝えたいのか瞼をパチパチと無暗に開閉させている様は、見ているライトを呪い殺そうとでもしているのだろうか、というほどの気概に満ちていた。
しかし、目が伝えてくる感情はそれだけではない。
薄くだが彼の目の端には涙がたたえられており……その様子は、まるで安心しているかのようにも思える。
実際、安心しているのは事実だろう。
やっと死ねる。
もう苦しまなくてもいいのだと、そう思っているのかもしれなかった。
彼の目の端から、涙がつう、と流れ落ちて。
地面に落ちる。
「移動型異世界転生者、池内大我。死亡確認」
ライトの顔色など見えていないような、鏖殺人の冷徹な声が空気を揺らす。
その瞬間、女性の絹を裂くような悲鳴が聞こえてきた。
反射的に首を後ろに向けると、先程の看護師がすぐ近くにまで来ていた。
目の前で起きた逃亡劇が気になって、後を追って来たのだろうか。
真っ青な顔になった彼女は、口に手を当て、ぶるぶると震えて立ち尽くしている。
やがてその口は、一つの言葉を漏らした。
「ひ、人殺し……!」
それは恐らく、無意識に紡がれた言葉だったのだろう。
しかしだからこそ、彼女の言葉は混乱しているライトの心を大きく抉った。
一方で鏖殺人からは、冷静な反応が聞こえてくる。
「違いますよ、看護師さん。人殺しではなく、転生者殺しです。意味が違います」
話し方としては、動揺した看護師を宥めるための優しい口調だった。
だが彼の口振りが、まるで自分は悪くないと言いたげなそれだったからだろうか。
ライトには、そこが限界だった。
池内大我の死体を地面に放り捨て、ライトは地面に這いつくばる。
そのまま……喉のえずきに任せるままに、吐いた。
昨日食べた物を全部吐き出して、胃液も唾も全部外に出して。
もう何も胃の中に残っていないと分かる状態になって、ようやく吐き気は消えてくれた。
しかしどれだけ吐いても、罪悪感を消し去ることは出来なかった。




