第2条 規則なんて飾りです!
相変わらず隣の仮眠室兼男子更衣室からは大きなイビキが聞こえる。
私はわざとらしく盛大な溜息をついて桶に水を張り始めた。
この神社では、雑巾がけにも木製の桶を使っている。だから非常に重く、流し台から下ろすのも一苦労だ。
よたよたと覚束ない足取りで神社の本殿に向かう。
本来、巫女はお守りなどを頒布する授与所だけを掃除すればいいのだが、先に本殿を掃除しなければ朝の拝礼もできない。
これは本来、宿直の神職が巫女の来る前にすましておく仕事なのだが、現状があのざまなので仕方がない。
冷たい水になるべく手をつけないように雑巾を絞ると、最低限目立つところだけ、手短に掃除をすませる。
ついで、米・酒・塩・水からなる神饌、つまりお供えものも用意。これも本来、神職が(以下略)
一通りの準備を済ませて事務所に戻ると、ようやく起きた宿直の神職がけだるそうに椅子にもたれかかって、ぼんやりとタバコを吸っている。
やっぱり今日の当番は上島だったか。
髪にだいぶ白いものがまじった中年の神職は、袴もはかずに白衣だけ身につけている。
上島は宮司の甥で、血筋をたどればこの神社の御祭神にいきつくという由緒ある家柄らしいが、今の姿からは到底、信じられるものではない。
「なにしてたの?」
上島はこちらを見ることも無く、うんざりしたような声でたずねてきたので。
「本殿の掃除をして、神饌の用意もしてきました」
と、自分が朝から上島の代わりにしてやった仕事を正直に話した。さぞ感謝してくれることだろう。
「はあ?」
私の甘い想像に反して、カタギとは思えないドスの効いた声が帰って来た。
「それ巫女の仕事じゃないよね? なに勝手なことしてんの? お前ただで済むと思うなよ?」
思わぬ言葉と大声にフリーズする私に向かって、上島はヒステリックにまくしたてる。
意味が分からなかった。以前はやっておけと言われたし、こうして代わりに仕事をしてやったことは一度や二度ではないはずだ。
当然、抗議しなければと上島に向き合うが、腕を組み、ものすごい形相で仁王立ちする上島の姿を見て、私はすべてが無駄であることをさとった。
到底、人語を解する輩には見えなかったからだ。
あきらめた私は「すいません」とだけ呟くことしかできなかった。
形だけでも小さくなって、申し訳なさそうにしなければコイツは収まらない。こういう状態になった上島に、人としての対応は無駄でしかないのだ。
従順な態度を取る私の姿を見て、確かに一瞬、上島の顔が緩んだが、またすぐ口を真一文字に引き結んで、乱暴に座った。
座るのにも作法とかそういうの無いのかな?
「で、君はどうするの?」
「はあ」
「こんなことしてしまって君はどうやって償うのかって聞いてるの」
「どうしたら良いんでしょう」
ホントに分からない。なんかだんだん笑えてきた。
「君は神様にお詫びしなきゃいけない。今日の朝拝は君がやりなさい」
ああ、そういうこと。
もっともらしく、さも良識ぶった態度の上島の魂胆が見えてきた。
つまり、こいつはこのまま全部の仕事を私に丸投げする気だ。
「私がやって良いんですか?」
当然の疑問だ。
そもそも、神職にも資格というものがあって、無資格の巫女ではやっていいことは限られる。
ちなみに上島は明階という結構上の資格を持っているらしい。
たぶん誰でも貰えるんだろうな。
「良いよ、僕が許すから」
どうやら上島は、資格制度を覆すほど偉かったらしい。
上島様のご許可が下りたので、私はさっさと本殿に戻り朝拝を始める。
朝拝というのは神社で毎朝必ずやる祭りだ。
まず、神饌をお祓いして、次に神前に運ぶ。
そして、神前で祝詞という、神様を褒めたたえる言葉やお願いごとが掛かれた紙を読み上げれば終わりだ。
じつはこの朝拝も、上島に言われてなんどもやっているので慣れたものだ。
宮司や他の神職に見つかった場合どうなるか分からないけど。たぶん上島はかばってはくれないだろうな。
そんなことを考えながら朝拝を続けていると、本殿の奥、年に数回しか開くことのない分厚い木の扉の内側でゴトンと物音がした。
この扉の奥には神社の御神体、つまり神様そのものが安置されているはずだ。
当然、人が入ることは滅多にない。
さてはネズミかイタチでも入り込んだな。
どうにかするべきなのだろうが、上島に報告するのもめんどくさいので、気づかなかったフリをすることにした。