一夜 始まりの月
「まんまるい満月ざんすねえ……つきみ」
大きな満月がわっちたちを隠すことなく照らしている。
黒く塗られた柱に背中を預けて、外を見る立体的な美しい横顔をした灯鈴様。月明かりが灯鈴様の紅の長い髪を照らし、艶を生む。青白くやわからな光を放つ満月に、口の端を上げて笑みを浮かべる灯鈴様は妖艶さと儚さをまとい、月がよく似合う紫紅花孔雀のようだった。赤い髪が花びらを連想させる。
灯鈴様はわっちをちらりと見ると、目を細めていたずらっぽく囁く。
ひんやりとした風が肌をなで上げた。
「つきみ太夫……の方が嬉しいかい?」
「つきみ、がいいざいます」
わっちがどれだけ成長しても、灯鈴様の性格は変わらなかった。
つきみ――月命。それがわっちの名前である。
灯鈴様はゆっくり腰を上げ、わっちの隣に再び腰を下ろすと、わっちを優しく抱き寄せた。灯鈴様の香りが鼻孔をくすぐる。やわらかく大きな胸に頬が当たった。
わっちの髪を白い指ですくい上げた。
「つきみの髪は、ほんに綺麗……月のようざんす」
「青白いだけ……」
あれからもう何年経ったでありんしょう。
わっちはすっかり大きくなりんした。
おかあ様……わっちはまだ鳥かごの中でありんす。
幼い子供でもないのに、灯鈴様はわっちの頭を愛しそうにそっと撫でて、愛情を含んだ甘い声で呟いた。
「愛してる」
くぅ……と小さくお腹が鳴る。近くの川で小魚が泳ぐ姿を見ていたらつい時間を忘れてしまっていた。透明な水の流れに逆らって泳ぐ小魚が必死で可愛くて。帰ったら、おかあ様に報告しよう。
立ち上がり、私は、家に帰るため足を進めた。空は厚い雲が通せんぼをしてお天道さまの邪魔をしている。お天道さまはついに泣き出してしまった。
冷たい雫が、地上に降り注ぎ、青々とした葉や地面を濡らす。
早く帰らないと。
「化け狐だー! にげろにげろー!」
わたしを悪く言う声が後ろでかすかに聞こえた。
わたしは化け狐じゃない。
髪色が違うだけで、狐だなんて決めつけないで。
視界がぼやけた。雨粒か涙か判別が出来ない雫が頬を滑り落ちる。
逃げ込むように、引き扉を開け、しゃくりあげながら「おかあ様」と呼んだ。わたしの泣き声を聞いたおかあ様がかまどの前から離れ、「あらあら」と心配そうに駆け寄った。
わたしの濡れた体も気にせず、抱きしめ、よしよしと頭を撫でてくれた。涙は止まり、口元が緩む。
おかあ様の息を呑む音が聞こえ、わたしを抱きしめる力が強くなる。体に指が食い込むほどの力が込められている。
わたしには見えない。首も真後ろまで回らない。
「娘、もらうぞ」
低いしゃがれた声が聞こえた。
おとう様の声じゃない、知らない、男の声。
おかあ様の力がまた強くなる。しっかりとおかあ様が忘れないように自分の体に刻み込むよう、しっかりと強く愛を込めて。
おかあ様の肩は小刻みに震えていた。
わたしは頭の中が真っ白で声もでなかった。
穏やかではなくなった緊張感漂う空気に飲み込まれ、空を見つめていた。
「早くしろ」
男は言葉を吐き捨てる。
わたしから体を離すと、おかあ様の目は涙で潤み、白いウサギの目のように真っ赤だった。わたしの腕を掴み、瞳をじっと見つめる。
「すまないねえ、月命。これも親孝行だとおもって堪忍しておくれ……」
まだ飲み込めない。
「ほら、いくぞ」
小汚い格好をした男が私の手を掴み、引っ張る。おかあ様の掴んでいた手は力なく解け、床に落ちた。男とおかあ様の顔を交互に見つめ、男に連れられていく。引き戸が閉まる直前、おかあ様は唇を動かし、声なき声を出した。
この人はだれなの?
わたしはどうなってしまうの?
おかあ様はわたしを捨てたの?
わたしがみんなと違うから?
わたしがいい子じゃなかったから?
雨が、諦めろとわたしに言っているようだった。
何日歩いたのか。辺りは夜を迎えようとしていた。
幅の広い堀の傍を歩いていくと柳の木と立派な橋がかかっている。男はこの数日間ほぼ口を動かすことはなく、最低限のことしか言わない。
多くの男が同じ場所に向かっているようでわたしたちと同じように橋を渡った。橋を渡り終え、少し曲がりくねった道を歩くと、別世界に着いた。
黒塗りで木造の大きな門が堂々とした威圧感のある姿で人々の行き来を見届けている。
広い通りを挟むように立ち並ぶ二階建ての建物。顔は白く、しかし唇は血のように赤い。きれいな着物を着た女が、男に声をかけている。男は、顔をだらしなく緩ませて、アゴを触り舌なめずりをした。
建物の一階部分は柵のようなもので外と遮られているだけで中が丸見えだ。
わたしには異様な光景だ。
わたしは、男の汚い袖を引っ張り、「ここは……」と言いかけると、男は唇をにぃと釣り上げて呟いた。
「吉原」