月夜のこと。<後>
ことこと、くつくつ。
アルマイトの両手鍋の中で、そろそろですとおでんが賑やかに音たてる。もうひとつの鍋では湯煎の燗酒。
「カセットコンロなのはご愛嬌、芒に月、月見で一杯ってね。さあさ召し上がれ」そうしたら割りばしに紙皿なのもご愛嬌ですね、私はよそってくれたおでんの器を手にした。
こんにゃく、大根、卵に竹輪。まだ日が暮れてさほど経っていないのだけど、やはり十月の夜はほんの少し肌寒く、この温かさがありがたい。
「おかわりもあります。たんとお食べなさい」それ、なんだかお母さんのようです。大根をかじりながら口にすると、彼は照れ笑いしながら「親戚のおじちゃんみたいなものでしょうに。ほら、たまに会うと大きくなったねえと言うような」くいと猪口を空けた。……親戚のおじちゃん、か。
私にも一杯ください。
どうぞ、でも、ほどほどになさいね。
田んぼでふたりきりの月見酒。確かにこんなこと街中ではできないな。きっとお巡りさんやって来るから。
このドキドキとした内緒の時間に心が躍った。誰にも見つからないようにと秘密基地を作った子どもの頃のように。
それから私たちは好きな作家さんのこと、貸し借りした本の感想を言い合い、子どもの頃の思い出、初恋の思い出なんかも話した。一つ、くしゃみをすれば、風邪をひかせてはいけませんからと彼は荷台のダンボールから毛布を一枚取出してきて私に包ませた。
「そうだ今のうちにタクシーの番号を渡しておきます。前もって場所を伝えているので、こんな山奥だけどたどり着くでしょう。ぼくが寝入ってしまったら、迎えを呼んで先に帰っていてください」陸さんはどうするのと聞けば、片付けがありますし、あなたがいま使っている毛布に包まってここで朝を待ちますと言う。
相変わらずなんとも破天荒なひと。でも、こうして月を眺めながら眠って起きて、朝を迎えるのも悪くないと思った。
来年はお米作りを手伝いましょうか。
じゃあ、もう少し広い田んぼに引っ越さないと。
あそこに見える茅葺きの古民家いい感じですね。
温かな囲炉裏を囲んで。
薪を割って、手押しポンプで水汲んで。
じきにおでんが底をついて、肴は炙りものになった。イカの一夜干し。ちりちりと端が焦げて香ばしい匂いが漂う。来年もまたお月見できるといいな、その時は七輪を持ってこよう。そうしよう。
私たちはそれからも酒を酌み交わし、とりとめのない時間を過ごした。
しばらくして陸さんはごろんと寝転がり、民俗学のお話しをしてくださいとせがんだ。私は少し考えて、月見の供え物を女子が食べてはいけないという話をした。かぐや姫になぞらえた地方の伝承。
「あなたがいなくなったら、寂しくなります」
「大丈夫。まだ、ここに居ますよ」私は傍らの彼に手を添えた。
「ありがとう。まるで夢のような月夜でした。このまま死んでもいいと思えるくらい」彼は言い残し、すうと寝入ってしまった。
いっそのことここでふたり死んでみます? 床屋で短く切られ過ぎてと嘆いていた彼の髪に触れる。髪をクシャとしても穏やかに寝息をたてていて、仕方がなく、私もころんと横になった。
月の光が眩しい。いまお供えの団子を食べたら、月からの使者が来てしまうかなあ。その時は陸さんが最後まで抗ってくれるだろうか。そうだといいな。
「月が綺麗ですよ」彼の耳元で囁いた。中秋の月は南の空に。