38「突撃」
猪熊の言葉には怒りの感情が込められていた。
『待ちくたびれた』という相手はあたしとウニちゃんだったのか。
「……こんな人じゃなかったのに」
幼い少女に殺されかけたのが余程許せなかったのだろうか。
地下通路で自らの感情を吐露した時の彼を思うと胸が苦しくなった。
「このレストランはすでに包囲されているわ。大人しく人質をこっちに渡しなさい」
浮遊するナイフに油断なく目を配るフリをしてチサトが言う。
その言動には二つの嘘がある。
一つは今の言葉。レストランの外にいるのは献エネ車で待機しているウニちゃんとチルルだけ。
二課三課のの調査官はやがて到着する様だけれど、ディペンダーではない彼らは特別な力を持っているわけではない。
猪熊に投降してもらうブラフだ。
もう一つはナイフに対する警戒。
まるで自分達が無防備のように振舞うことで猪熊を油断させる作戦だ。
実際は、ナイフがあたしたちを狙ってもニキヲの防御フィールドが弾いてくれるから、注意を向けることはないのだけれど。
「……投降するなら今のうちよ」
「……へっ」
猪熊の表情に焦りはなかった。
「投降するつもりはないが、人質は助けてやってもいいぞ。すでに邪魔者は殺したことだしな」
「……なんですって?」
チサトが感情的になったのを見て猪熊は右唇を釣り上げて引きつるように笑うと正面のテーブルを蹴り飛ばした。
並べられていた食器や花瓶が宙に舞い、カーペットの上で砕け散る。
「こんなヤサ男が俺の女を奪いやがったんだ」
――――嘘でしょ?
テーブルのあった位置に、スーツ姿の男性が仰向けに倒れていた。
背中の部分にナイフで刺したような跡があり、スーツが血で染まっている。
「……あなたが殺したの?」
チサトの声が震えている。
「いいえ、俺は殺してまっせーん……と言って信じるのか? 信じるワケねーよなあ? 下らないこと聞くんじゃねえよテンション下がんだろうが」
「……糞外道」
えっ、
今チサトなんて言った?
「肖羽、」
「な、何?」
「十、でコラして(・・・・・・・)」
それは『十秒数えたらコラースレッド』という合図。
「あ、う、うんっ!」
チサトはあたしに笑顔を向けて方をポンと叩いた。
そして顔を逸らした時――
「……ブチのめす」
……チサト、性格変わってるよ……
「おい、あのガキを寄こせば人質は……ん?」
床を強くキックして、チサトが前に出る。
……これはまさかの展開。
チサト、犯人の交渉役だったはずだよね。
それなのに……いいのかな。
「……ちっ、馬鹿がっ。黒髭ナイフ、あの女を狙え!」
男が叫ぶと、玄関を向いていたナイフがぐるんと回転し、カウンターの角を曲がるチサトに向かって風を切って飛んでいった。
―――防御フィールド、展開。
ナイフが届く前に、あたしの背後に隠していたニキヲの音声がして、チサトを黄色い膜で包みこむ。
大丈夫だろうか。
ウニちゃんの時のように、猪熊の振り下ろしたナイフとはスピードが違う。
しかし、それは杞憂だった。
「……なっ!」
防御フィールドにぶつかる度、次々と弾かれていくナイフを見て、猪熊が驚愕の声を上げる。
その間にチサトはカウンターを通過し、段差を降りてテーブル席に降り立つとそのまま猪熊の元まで一直線に駆け抜ける。
「この腐れチ○ポ野郎がっ、一回イッとけやあああぁっ!」




