その5
シジャン博士は、特に気負った様子もなく、廊下を歩いて行く。俺の背中をつついたマリアンが、紙のメモを突きだしてきた。メモにはシンプルに一言。
『無防備すぎる』
確かに、ひとこと言っておいた方がいいかな。ていうか、お前は後ろを見てろよ。
どうにかしてシジャン博士に合図しようと早足にした直後、彼女は吹き抜けに面した廊下の手前でしゃがみこんだ。
シジャン博士は手すりの隙間から下をのぞき込んでいたが、やがて後ろを振り返って下を見るよう合図し、姿勢を低くしたまま先に進んでいった。
さすがに、一応は警戒しているのか。1階、2階のキブノ兵たちはどうしてるんだ?
手すりから下をのぞき込むと、例の自在堀のせいで2階の床近くまで水が張っている。円形の建物であることと、吹き抜けの構造とが相まって、闘技場が水に沈んでいるかのようだ。
吹き抜けの中央に、いくつかの筏が浮いている。筏といってもそこらへんに転がってそうな丸太を束ねたような簡易なものではない。切りそろえ、塗装を施した何枚かの板を専用のロープで縛った工業品だ。筏の底には浮き袋らしきものすらある。根拠はないが、ここから奪ったものではなく、キブノ兵が準備したものに見える。
長さの基準になるような人影はない。自分の指の節と親指の長さの記憶を頼りにして筏の大きさを測る――縦5.4M、横6.2Mかな。1舟、6人ぐらいは乗れる。
マリアンが再び背中をつつく。そうだな、のんびり計っている暇はない。
時折、人の話す声が聞こえてくるが、コンクリートの壁や床に反響し、エコーがかかりすぎて何語かも分からないし、どういう感情で言っているのかも分からない。つまりは状況がよく分からない。
シジャン博士の話がどれだけ大事なのか分からないが、やっぱり先に周囲の状況を確認させてもらうべきだった。
「入って」
引き扉を開け、シジャン博士が俺たちを手招きした。どうやら倉庫らしい。
最上階に倉庫とは珍しい――いや、この都市は1階が自在堀で水没するから、大事なものは2階より上に保管する。どうせ上まで運ぶなら最上階にしまうのが一番安全だ、ということなんだろう。この部屋だけ引き戸で、ドアが天井ギリギリの高さまである。
倉庫の中、両脇の壁際には、両手で抱えられる程度の大きさの箱が雑多に積み上げられていた。奥には、箱一つで天井まで届くような大きさの木箱や、布で梱包された大型工具らしきものが並んでいる。
ふと、部屋の中央の床を見て、俺はぎょっとした。
黒光りした円筒。そうとしか言いようのないものが二つ、寝かせられていた。
長さは2メートル弱、立てたら天井の高さの半分ほどだろうか。直径は60センチほどだ。
「この黒い筒は、なんでしょうか」
「数ヶ月前、ある貯水池で見つかったの。エギン技士、円筒の中央に触れてみて」
え、明らかに怪しげだが大丈夫なのか。そういうことは中身のことを教えてもらってからにしたいんだが――仕方ない。
覚悟を決めて、俺は円筒の一つに手を伸ばした。
んッ! 痛っ!
俺はよろけながら後ずさった――体の痺れ、思考の途切れ、断続的な耳鳴りと静寂。
喉の奥が痺れて声も出せなくなっている――魔粒子過敏症だ!
痺れるように痛む前頭と喉を抑えながら、円筒の様子を見ていると、やがて中央に裂け目が現れ、音もなく外殻の一部がスライドした。中は空洞になっているが、ガラスのような蓋で覆われている。
「空っぽ……いや、振動で波が立っておるのう。何かの透明な液体が入っておる」
「コーカワ技士、これが何だか分かるかしら?」
「詳しいことは分かんないですが……旧地球の技術で作られているとしか……」
「そうね」
シジャン博士は俺の方に歩み寄り、俺の首後ろを撫でた。
「大丈夫? ごめんなさいね。どうしても慎重にやる時間はなかったの」
「ヤマル、どうしたのじゃ」
「いや、今、ま、魔粒子……魔粒子過敏症で……大丈夫だ」
「おい、ほんとに大丈夫か」
顔を上げると、リリがシジャン博士に困惑した視線を送っていた。
「コーカワ技士、魔粒子過敏症患者に対する扱いについての文句は後で聞くわ。
でも、これで分かったかしら」
「はい。これは、この惑星ならではの魔粒子を利用した装置と、旧地球の産物を組み合わせた何らかの装置。
キブノが襲ってくるのはこの装置のため。そして、この装置を調べることが、あたし達の赤紙任務ですね」
シジャン博士は腕を組んで微笑んだ。
そうか、かつて、電子の流れを制限する宇宙船の壁の残骸を再利用して、電気分解による魔粒子の流れを制御したアルミニウム製造施設が造られたと聞いたことがある。これもその類だろう。
「敵の襲撃に耐えながら未知の装置を調べるというのは、確かに赤紙に値する任務じゃ。しかし、シジャン博士……正直、わしは門外漢のように思えるのじゃが」
「そうかしら?
マリアン・ヤヴォルスキー技士は新旧ありとあらゆる分野の『図解』と『記号』に通じていると聞いているわ。まさに未知の装置の意味を調べるのにもってこいの技術よ。
能力的にも実績的にも問題なし。13歳の誕生日当日に、図解系の技士を授与されるなんて、よほどの実力がなければ無理な話よね?」
13歳の誕生日に技士!? 30歳過ぎても取れる見込みがないって人もいるってのに、年齢制限ギリギリで技士の称号授与なんて初めて聞いたぞ。
「博士、あたしも、自分がどういう理由で選ばれたのか知りたいです。この装置の調査に、水中土木型がどう役に立つんです?」
「水中土木型?」
「他の都市じゃあんまり聞かないだろうな。文字通り、水に潜って工事する技術さ。海底や川底に橋の土台を作ったり、水中で発破をかけたりする」
ああ、なるほど。海女もそうだけど、水に潜って仕事するのは女の仕事だからな。体が水で冷えるから、皮下脂肪の多い女性が水中では有利だ。それに加えて、水を分解して酸素を取り出す魔術が使えたら、そりゃその道では一流の技士になれるだろう。
ただ、それ以外にも武術の心得はあるはずだ。軍人の首にツルハシで穴を開けるなんて、腕力さえあればできることじゃないぞ。
「コーカワ技士を呼んだのは、もちろん、水中でやって欲しい仕事があるからよ」
思わず円柱とシジャン博士の顔を交互に見やってしまった。水中の仕事?
シジャン博士は咳払いすると、俺たちの顔を順繰りに見た。
「いい? ここからが本題。落ち着いて聞いて欲しいのだけど……」
『動くな!』
しまった!
顔だけを声の主の方へ向けると、やはりAK47を構えたキブノ兵がいた。ぴたりと銃口をこちらに向けている。
くそっ、魔粒子過敏症で神経が痺れていたせいで、弾倉の魔術に気づけなかった!
『待ちなさい。この者たちに、何かあれば、後々高くつくことになるわよ』
『なにを言ってるんだ、お前は』
汎ユーロ語で呼びかけたシジャン博士に、キブノ兵が銃を向けた。
その兵士の背後から二人、同じくAK47持ちのキブノ兵が倉庫に突入してきた。まずい、反撃が難しくなったぞ!
『残念だが、そいつの存在を知っている奴は、全員生かしておくなという指示だ』
後から入ってきた二人の兵士が、安全装置に手をかけた。
確率統計の技士は、赤紙任務の死亡率は10%以上と言っている。
『10%以上』には当然、100%も含まれる。したり顔でその技士は言うのだろうか。
いや――100%になるのは俺だけで十分だ!
クロスボウの引き金を引くと同時、前に跳ぶ。
シジャン博士の腕を掴み、自分の体を一回転させながら彼女を地面に引きずり倒し、その勢いのまま前に飛び出る。
俺を狙っていた真ん中のキブノ兵の肩に、矢が突き刺さっている。
銃にたどり着けば! 俺が囮になれば!
矢の突き刺さった兵士は、体をのけぞらせて倒れ込みながらも、銃口をこちらに向けてきた。
手を伸ばして、はたき落とす!
銃声はゆっくりに聞こえた。三発までは数えられた。視界がゆらぎ、次に見えたのは、下の方に流れていく天井だった。
カッと体が熱くなる。が、すぐに感覚が全て消え、何も見えなくなった。