恋の後味
郵便受け口の真下には、幾つもの郵便物が散乱していた。内側に箱が付いていないから、配達物が多い日はいつもこの状態になった。
郵便物が落ちている周辺は、解けた雪で濡れていた。外に出るたびに、靴に張り付いた雪が玄関へ侵入してくる。それ自体はもう慣れっこになっていた。慣れないのは湿った紙の感触だ。
郵便受けまでは大股でも一歩半の距離があり、サンダルを引っ掛けて取りに行くのは面倒だった。けれど、このまま置いておくわけにもいかない。
よいしょ、とわざとらしく声を上げて屈みこんだ。カードの請求の封書や、なんとなくで会員登録してしまった店からの割引はがきなど興味の欠片すら湧かない郵便物ばかりだった。落ちていたものを拾い終えて、視線を上げた。
傘立ての傘に引っかかった白い封筒が、危ういバランスを保ちながら私を待っていた。その白さに、私は息を飲んだ。
傘に郵便物が引っかかっていることは稀にある。でも、触れただけで滑り落ちてしまいそうで手を伸ばすのをためらったのは初めてだった。
無地の横型の封筒には、神経質そうな文字で宛名が書かれている。事務的な内容の郵便物とは違うということが、すぐにわかった。宛名は私の名になっていた。消印は二日前の、見たことのない地名のものだった。
見覚えのある文字。とうに忘れたと思っていた記憶。
捨てたものが一挙に返ってきたような気分だった。
確信をもって封筒を裏返す。想像した通りの人物の名が、送り主として書かれていた。
その名前と文字を見た瞬間に、どうして受け口の下に箱を付けておかなかったのかと初めて後悔した。今回はたまたま下へ落ちなかったから良いものの、濡れたり泥が付いたりしたら罪悪感で首を吊ってしまうところだ。
封筒は薄かった。一枚の便箋を半分に折り畳めばこの程度になるのだろう、という厚さだ。
久しぶりに連絡をしてきたというのに、淡白すぎる。その淡白さが、あの人らしいと言えばそうなのだが。
隙間なく糊付けされた封筒を手に、居間へ戻った。几帳面に糊付けするあたりも昔と変わっていない。
当時を懐かしみながら、封筒の端をできるだけ狭い幅で切り落とした。封筒の中には、同じく真っ白な便箋が入っていた。予想に違わず、二つ折りのものが一枚きりだ。
『今も貴女のことが好きです。
どうしても忘れられない。
ごめんなさい』
たったの三行だけのメッセージ。あまりに広い行間や余白が切なかった。
これだけのことを伝えるために、わざわざ封筒と便箋を買ったのだろうか。筆を執ったのだろうか。切手を買ったのだろうか。それなら、電話でもよかっただろうに。
いや、電話は駄目だ。きっと、私ばかりが話してしまって三行の言葉さえ伝えずに切ってしまうだろう。メールはお互いのアドレスを知らないからできない。ならば、これが最善の手段だったのだ。
何年かぶりに見るあの人の文字の、ひとつひとつが愛おしかった。切手の鳥の絵が、モノクロの封筒にただひとつ彩りを添えていた。
――……切手。
あの人はこの切手を舐めたのだろうか。その時、どんな気持ちだったろう。
すこしでも解りたくて、封筒に張り付いた切手を舐めた。どんなに汚れていようと構わなかった。あの人が舐めたのはこの切手の裏側だというのは重々承知の上で、私は切手の表面を舌でなぞり続けた。
気が付けば、切手の周りがピンクに染まっていた。こんな時に限って色付きのリップを塗っている自分が嫌になった。
舌に削り取られた切手の繊維が、口の中にたまる。体に良いものでないことは確かだったけれど、迷わず飲み込んだ。
何度も何度も繰り返していると、だんだんと切手が塩味を帯びてきた。
「どうして……。どうしてなんだろうね」
嗚咽を溢れさせながら、便箋に問いかけた。
いやだ、よごれてしまう。
封筒に落ちた涙は一瞬弾かれ、それから静かに染み込んでいった。
でも、そのぶんだけあの人のことが解った気がした。
「ごめんね……。すぐ、すぐに会いにいくから……」
封筒と便箋を抱きしめ、そっとささやいた。




