赤鼻の山じぃ
その山小屋かふぇは小さな山の中ほどにある。
山小屋の名は『かふぇ・あかり』
マスターは、少し鼻の赤いみんなから『山じぃ』と呼ばれている優しい老人。
木の扉の鈴が鳴る。
チリリン・・・。
「いらっしゃい、いい天気だね。」
やって来るのはほとんどがふらりと立ち寄る登山者達、その中には常連の山ガール、山ボーイもいる。
山登り初心者がよく登ってくるこの小さな山の山小屋かふぇからは、遠くまっすぐ先に高い頂きの美しい山を見ることができた。
ここで山じぃが淹れる美味しいコーヒーを飲みながら、その高い頂きの山を登ることを目指す登山者達も多い。
その人達にとって山じぃの淹れる美味しいコーヒーと、山の話し、なにより山じぃの赤鼻の笑顔は心を温かくしてくれる。
「山じぃ、この写真の山はどこの山?」
壁にひとつだけ掛けられた小さな額の写真を指差し、登山者は聞いた。
「ははは・・・、その山はここだよ。」
笑いながら答える山じぃに、
「ここって?」
キョトンとした顔でまた登山者は聞いた。
「今君が登ってきた山、この山だよ。」
山じぃはカップをキュッキュッと拭きながら答えた。
その答えにその場にいたみんなは少し驚きながら、もう一度壁に掛けられた写真をじっと見つめた。
「こうやって見ると、綺麗な山だね。」
「でもこの山をこんな風に写真に撮っているという事は、もしかしたらあの先の高い山に登って撮ったってことかしら?」
山じぃは手を止め無言で頷き、窓の外まっすぐ先に見える高い頂きの山を見つめた。
木の扉の鈴が鳴る。
チリリン・・・。
「ちわっ、山じぃ。」
「いらっしゃい、今日は大荷物だね。」
「こんにちは山じぃ、今日は山岳部新入部員を連れて、この山で冬山登山に向けての訓練合宿です。」
答えたのは近くの大学の山岳部のリーダー昇、ちわっと先に入って来たのは部員の歩。
歩はかふぇの中をくるりと見渡し誰かを探しているようだ。
「歩君、今日はまだひかりちゃんは来てないよ。」
山じぃは赤鼻を擦りながら言った。
「学校へ行ってるんならそれでいい。」
苦笑する昇の横に腰掛けながら歩は言った。
ひかりは高校二年の女の子、転校してきた学校に馴染めず、ある日ふらりとひとりでこの山小屋かふぇにやって来た。
それから、学校に行きたくない日はここに来るようになり、常連の山ボーイ歩や昇と話すようになっていた。
木の扉の鈴が鳴る。
チリリン・・・。
「いらっしゃい、栄作君、もしかしたら今日は彼らの指導かい。」
山じぃがそう言って笑顔を向けたのは、山岳インストラクターで彼らの大学の大先輩にもなる栄作。
「お久しぶりです、山じぃ。」
彼は挨拶すると壁に掛けられた写真を見つめた。
そして山じぃと栄作はほとんど同時に窓の外、高い頂きの山を見つめていた。
その姿を見て昇は、
「俺達もあの頂きに登れるように、今日はしっかり訓練してきます。先輩よろしくお願いします。」
山じぃと栄作はまた同時に彼らを見つめ、微笑んだ。
木の扉の鈴が鳴る。
チリリン・・・。
「いらっしゃい、あれっ? ひかりちゃん今日は学校・・・」
「早退した。」
「あらら・・・」
山じぃは苦笑しながら赤鼻を擦った。
「ひかり、山がそんなに好きなら俺らと登るか?」
「歩さん来てたんだ、でも登らない。私は山が好きなんじゃなくて、ここが好きなだけ。」
歩も苦笑した、周りのみんなも苦笑していた。
なぜならひかりの格好は、トレッキングシューズをちゃんと履き、リュックを背負い、しっかり山ガールの姿だったからだ。
「いずれにしても今日は連れては行けない、山に一泊するからな。」
リーダーの昇は苦笑を抑えて言った。
「いってらっしゃい、山好きの山ボーイの皆さん。」
「いってきます、山嫌いの山ガールのひかり。」
「違う!・・・一泊して明日ここに帰って来るの? 歩さん。」
「ああ、帰って来る必ず。・・・午後から下山だから学校早退しなくても間に合うぞ。」
「誰が待ってるって言った! それに明日は学校昼までです!」
「それは良かった。」
歩はひかりの顔を見て笑った。
ふたりの会話に山じぃも周りのみんなも微笑んだ。
木の扉の鈴が鳴る。
チリリン・・・。
「いってらっしゃい、温かいコーヒーを淹れて待ってるよ。」
みんながそれぞれかふぇから出発していき、残ったひかりはココアを飲みながら山じぃに聞いた。
「山じぃも山好きの元山ボーイなんでしょ?」
山じぃは困ったように赤鼻を擦り、
「元山ボーイ?・・・ははは・・・、実は山はここしか登った事がないんだよ。」
そう言って壁に掛けられた写真を見つめると、
「山好きの山ガールで、この写真を撮ったのは私のひとり娘のあかりなんだ。」
ひかりは少し驚いた。
「さっきひかりちゃんはみんなにいってらっしゃいとちゃんと言ったね、そして歩君はひかりちゃんの言葉に必ず帰って来ると答えた、素敵だったよ。」
ひかりには山じぃの言葉の意味が分からなかった。
「私は日々の仕事に追われ、山の話しを聞くどころか、あの日あかりにいってらっしゃいも言わなかった・・・」
そしてそのまま山で事故に遭い、山じぃのところへあかりは帰っては来なかった。
遺されたカメラに写っていたのはこの山の美しい姿だった。
山じぃはその写真と想い出を抱き、この『かふぇ・あかり』で山好きのみんなを迎え、送り出す。
ひかりは飲み終えたココアのカップをコトリと置くと、
「暗くならない内に帰る、・・・明日・・・また来る。」
木の扉の鈴が鳴る。
チリリン・・・。
「気をつけてお帰り、明日温かいココアを淹れて待ってるよ。」
赤鼻の山じぃは笑った。
その夜、山の天候は崩れた。
山じぃは風と雨の音を聞きながら、少し不安な気持ちになっていた。
山の天気は移ろいやすい、機嫌を損ねた山はどんなに小さな山でも、あるいはどんなに大きな山でも同じだという事を、山じぃは知っていた。
服を着込むと山じぃは、『かふぇ・あかり』に灯を灯し、かふぇの中をできるだけ暖かくした。
ガタガタと揺れる窓からは真っ暗な闇しか見えない。
木の扉の鈴が鳴る。
チリリン・・・。
でも、扉が開いたわけではない、ただ風に木の扉が揺らされただけ。
山じぃはひとり娘のあかりを想い出していた。
「あかり、栄作君達を守ってあげてくれ。」
チリリン・・・。
山じぃは夢を見ていた、たくさんの登山者達に囲まれてみんなと一緒に笑っている。
その中には山好きの山ガールあかりもいて一緒に笑っていた。
山じぃが目を醒ますと、窓からはキラキラと朝のきらめきが射しこみ、かふぇの中を照らしていた。
「ありがとう、あかり。」
お陽様が真上に昇る少し前、いきなり木の扉が勢いよく開きひかりが飛び込んできた。
「山じぃ!」
山じぃは優しく笑って頷いた。
木の扉の鈴が鳴る。
チリリン・・・。
「ただいま、山じぃ。」
「おかえり・・・」
山じぃの言葉が終わる前にひかりは飛び出し、
「山は好きじゃないけど一緒に登る! 待ってないから私・・・おかえり歩さん・・・」
「ただいま、ひかり。」
山じぃは赤鼻を擦りながら微笑んだ、驚いていた周りのみんなも一緒に微笑んだ。
木の扉の鈴が鳴る。
チリリン・・・。
「いらっしゃい、美味いコーヒー淹れようか?」
「いらっしゃいませ、ポカポカココアもありますよ。」
やって来た登山者達に若いマスター夫婦は同時に言った。
「いつも息が合ってるね。」
笑いながら言う登山者に、ふたりは頬を赤らめて、
「たまたまだよ・・・」
「私のお勧めはココアだし。」
赤い頬のふたりを見てそこにいたみんなは微笑んだ。
壁には小さな額の写真がふたつ。
少し古いが綺麗な山の写真の隣りには、コーヒーを淹れる赤鼻の山じぃの笑顔の写真。
そして、山小屋かふぇの窓からは、遠くまっすぐ先に高い頂きの美しい山が見える。
歩とひかりは並んで見つめると、一緒に優しく微笑んだ。
木の扉の鈴が鳴る。
チリリン・・・。
「いらっしゃい、いい天気だね。」
童話は前から書いてみたかったのですが、はたしてこれで良いのか・・・
優しい気持ちになって頂けたら幸いです。