共犯アシンメトリ
このお話は女の子同士の恋愛を扱っています。苦手な方はご注意下さい。
ファーストキスは、十歳の時だった。
唇がかすかに触れ合った瞬間の、甘く香るような吐息を今でも覚えてる。
そこから私とさとるちゃんの、誰にも言えない秘密が始まったから――。
「よ、さーゆきっ!」
ぴた、と頬に当てられた手が冷たくて、私は縮み上がった。
振り向くと、意地の悪い、なのにカラッと晴れた太陽みたいな明るい笑顔。私の幼なじみで同級生、桐原暁ちゃんだ。
「お、おはよう。さとるちゃん、早いね」
「早いって、さとるにしては、でしょー? いつも遅刻ぎりぎりだもんね」
「そうそう。いつも一番乗りの紗雪ちゃんとは大違い」
「ほんっと。こんなんでクラス委員だなんて、よく言えるよねー。紗雪ちゃんの爪の垢、煎じて飲ませなきゃ」
教室の片隅、黒板の文字を消していた私の周りに、クラスメイトのみんなが集まってくる。ううん、正確に言えば、登校してきたばかりのさとるちゃんの周りに、だ。
口ではあきれたように文句を言うふりをしているけれど、誰も本気で責めてなんかいない。それはもちろん、いつも委員の仕事を手伝っている私だって同じことで――。
「いいのいいの。あたしには紗雪が付いてるからさ」
ぐいっと後ろから両腕をからませて、抱きつくような素振りをするさとるちゃん。
「あ、出たぞ恋人宣言」
「ちょっとーいくら女子校でもマジGLは勘弁してよね」
あはは、と笑い合うクラスメイト。悪乗りして色々尾ひれを広げるさとるちゃんを、内心ドキドキしながら見守る。ドキドキ――いや、言い換えると、ハラハラ、と言ってもいいかもしれない。
耳まで出たベリーショートの髪。日焼けの名残じゃなく、元からの少し色黒な肌。百七十センチの長身。ソフトボール部のエース、桐原暁。名前も体格もそれっぽくなくても、れっきとした女の子。私と同じ、女の子。そんなさとるちゃんは、みんなの目を盗んで、大胆なウインクを送ってくるのだった。
放課後、お互いの部活が終わる頃、私とさとるちゃんは待ち合わせて一緒に帰る。といっても、手芸部の私は、さとるちゃんほど忙しいわけじゃない。だから、みんなが帰った後にも一人残って、ぼんやりと刺繍をしていたり、次の作品展に向けたアイデアを練っていたり――なんていうのはほとんど嘘で、実のところちょうど窓の外に見える練習風景に夢中だった。
百五十センチにも満たない私。しかも元々体育は不得意。小学校の頃から変わらないコンプレックスの対極にいるのがさとるちゃんで、私の理想だ。
白いボールを放り投げるフォームも、仲間と笑い合う姿も、全て――私の胸を捕らえて離さないのだから。
(いいなあ。さとるちゃんみたいに、私もかっこよかったらいいのに……)
そんなことを思いながら、いつしか私はうとうとしていたらしい。机に突っ伏して寝ていたことに気づいたのは、どうやら迎えに来てくれたらしいさとるちゃんに起こされてからだった。
「さーゆきっ、こんなとこで寝てちゃ風邪引くよ?」
ストーブを消して、もう少ししたら待ち合わせ場所の校門へ行こうと思っていたから、コートを着たまま寝ていたのだ。揺り起こされてぼんやりしていたら、すぐ近くで囁かれる。
「それとも、誘ってんの――?」
女の子のものにしたら、低めのアルト。それは私を覚醒させるには十分の響きだった。急いで起きようとしたところに、かすかに笑ったさとるちゃんの顔が近づいてくる。
「さとるちゃ……」
ん、のところで言葉は遮られた。唇で塞がれたのだ。
あっという間に、心臓が飛び跳ねる。頬に血が上るのがわかる。あわてて避けようとするけれど、運動で鍛えているさとるちゃんに勝てるはずがなくて。
「なあに? もしかして嫌なの?」
嫌――なはずなんてない。本当は、いつだってこうしてほしいと思っているから。
私の潤んだ瞳を、さとるちゃんはにんまり見つめる。息がかかる距離で、観察でもしているみたいに。
「紗雪? 言いたいことがあるなら言ってごらん?」
私が言えるはずなんてないことを、さとるちゃんは十分知っている。わかっていて、苛めている。
気弱な私はそれだけで涙が出そうになっていて、いつ先生がやってくるか、人が通るか怖くて怖くて仕方がない。それなのに――また近づいてくる唇を、拒めない。
「さとるちゃん……さとるちゃん」
上ずった声が出る。無意識に、涙が零れ落ちる。体が――いつも、さとるちゃんが華奢で羨ましいと撫でてくれる私の体が、震えている。
彼女に触れられる。それだけで、私は喜びを抑えきれなくなるのだ。
「紗雪……大好き」
「さとるちゃ……私も」
優しく頬を撫でる指が、すうっと下に下に伸びて。コートの隙間、ブラウスの間に入り込み、この前一緒に選んでもらった下着に入り込む。口づけの合間に呼び続ける名前に頷いて、さとるちゃんはそっと私を机の上に横たえる。寒さも、人に見られる恐れも、何もかも意識の遥か彼方に消えうせる。
私の胸に顔を埋めて、さとるちゃんは低く言った。
「あたしたち、共犯だね、紗雪――」
その言葉が何を指すのか、本当はどう思ってるのか。この時の私には、不道徳で不健康なこの喜びだけしかわからなくて。さとるちゃんと一緒なら、どんな罪でも怖くない、なんてことまで考えていた。
そう、信じていたのだ。自分と彼女の気持ちが、ぴったり重なったパズルのように同じなのだと――。
私とさとるちゃんの秘め事は、十歳の夏から始まった。
それまでもいつも一緒にいて、何の疑問も持たずにさとるちゃんの部屋にいた夏休み。
私と正反対のさとるちゃんは、勉強が苦手で。だから必然的に夏休みの宿題を手伝っていたのだ。
五つ上のさとるちゃんのお姉ちゃんは、もうコイビトというのができて、デートとやらに忙しいらしい。算数の問題が難しいとぼやきながら、さとるちゃんが愚痴った。そんな何でもない話題から、ぽつりと誘われたのだ。
「ねえ、紗雪。キスってどんな味か知ってる――?」
おませのさとるちゃん。私はきょとんとして、そんなことを返したと思う。その時から既に短かった髪をぼりぼり掻いて、さとるちゃんは照れたような顔をした。やってみようよ、と笑って言った。
いやだよ、そんなの。女の子同士でおかしいよ。
まったくもって普通の回答をした私に、さとるちゃんは膨れた。
面白くない、とか、もう遊ばない、とか、そんな風に駄々をこねられて、私は怖くなったのだ。
グズで、同じ年の女の子たちよりも何でも遅くて、背も小さくてほそっこくて――決してみんなに好かれる子じゃなかった私には、さとるちゃんしか遊び相手がいなくて。そうでなくても大好きなさとるちゃんから、嫌われるのが怖かったのだ。だから急いで承諾した。まさか、それからやめられなくなって、どんどん泥沼にはまっていくなんて知らなかったから――。
「さーゆきっ」
いつものように、私を呼ぶさとるちゃん。
それが夢の名残だったのだと、目覚めた私は知った。うたた寝をしていた部屋にはさとるちゃんはいなくて、机の上にはテスト勉強の残骸。
部活のないテスト期間中だから、家で勉強中の夕方。本当はさとるちゃんが来ることになっていたのが、何か親戚の訪問があるとかで、キャンセルになったのだ。
(私ったら……そんなにさとるちゃんに会いたいの?)
鏡の中の、情けない顔を睨みつける。名前の通りなのは色の白さだけで、さとるちゃんみたいに目鼻立ちのはっきりした美人でもない。子供の頃と同じようにグズで、鈍くさくて。
いつまでも自分みたいな子とさとるちゃんが一緒にいてくれるなんておかしい、と。
幸せなのに怖いような。奇妙な切迫感がいつもあるから。
そんな気持ちがはっきりと形になったのは、気分転換に、と降りたリビングで弟に声をかけられた時だった。
「何だよー寝てたのか? 試験勉強なんてちゃっちゃと済ませて、姉ちゃんもデートくらいしたら? 向かいの暁さんみたいにさ」
姉と同じ年でも、なぜか憧れる気持ちがあるらしい弟は、さとるちゃんをそう呼ぶ。でも、今はそんなことを気にしている場合じゃなくて、私ははっきりと顔色を変えたのだ。
「ちょ……姉ちゃん?」
驚かれても、引き止められても、気にせず私は走っていた。上着も靴も忘れて、靴下のまま玄関のドアを開ける。ちょうど真向かいに建つさとるちゃんの家――うちより洒落た洋風のアプローチのところには、求めていたさとるちゃんの立ち姿があった。動きかけた私の口は、そのまま固まる。
後ろ姿のさとるちゃんは、知らない男の人に抱きしめられて――今まさに、キスしたところ、だったから。
どうして。どうして。どうして。
何度も叫んで、罵って、責めて――目が覚める。
本当に言いたいことは、言いたい相手に言えなくて。
泣きはらした目の原因を聞かれても、親にも弟にもごまかして。
なんとかテストだけは受けて、そのまま春休みを迎えた。
いきなり口を聞かなくなった私に、さとるちゃんはなぜか聞かなかった。きっと、見られたことに気づいたのだろう。それとも、もしかしたらわざと見せたのかもしれない。
ずっと続いてきたお遊びに、本当は終止符を打ちたかったのかも――。
それでも私は苦しくて、悔しくて、悲しくて、世界が終わったみたいに泣き暮らした。
私の毎日はさとるちゃんを中心に回っていて、いきなり太陽がなくなったのと同じくらいに絶望でいっぱいだったのだ。
どうやって残りの一年間を過ごしたのか、どんな風に高校生活を終えたのか、それさえも記憶に曖昧なくらいだった。クラス替えでさとるちゃんと離れたことにほっとするなんて、皮肉すぎてまた泣いた。
そしていつしか大人になった私は、東京へ出た。
本当は別に地元で就職してもよかったのだけれど、ただたださとるちゃんと顔を合わせたくない一心で、東京の大学を受け、卒業し、そのままそこで仕事を探したのだ。
何の変哲もないOLという人種になり、泣き虫で気弱だった自分を隠して、大人の仮面を被ることができるようになって。いくつか恋らしきものもした。恋人もできた。
でも――心の奥底はいつも乾いていて、誰とも本気で接することはなかった。
そう、本気じゃないからこそ、男との行為にも目を瞑ることができたのだ。
それが数年続いて、結婚の話も出た。ちょうどそんな頃だったのだ、突然の訃報が飛び込んできたのは――。
何度聞いても、確かめても、信じられなかった。
デパートへ行って喪服を選び、新幹線の切符を買って、荷物を詰めても――まるで現実じゃない夢の中を歩いているみたいだった。
それは実家へ戻り、数年ぶりに足を踏み入れたお向かいの家でも同じことだった。
高校の制服。懐かしいそれを身に付け、まぶしいほどの笑顔を見せるさとるちゃん。
遺影は絶対これにしてほしい、と生前からふざけて言っていたのだと、彼女の母親が泣いた。
それでも目の前に薄幕でもかかったかのようにぼんやりしていて、何も言うことができなかった。
遠くで聞こえるお経の声。すすり泣く人々の声。黒と白の鯨幕。
こんなものか、と私は思った。
人が死ぬというのは、こんなにあっけなく、突然で、冷たいものなのかと。
大好きで大好きでたまらなくて、苦しくて死にたいくらいだった恋。その秘めた想いの相手は、こんなにもいきなり、事故で死んでしまった。
事故――それにも、疑問の声が囁かれていて。トラックの前に、突然飛び出したのだという噂もあった。結婚の話も出ていた、恋人を残して。
「紗雪ちゃん、ちょっといいかな」
何も考えられないでいる間にお焼香も終わって、部屋の隅に座り込んでいた私を、聡美さんが呼んだ。五歳年上の、さとるちゃんのお姉さんだ。
既に結婚して、二人の子供の母親になった聡美さんに会うのは久しぶりで、なんだか別人みたいな気までしてしまう。それでも笑うと昔の面影そのままで、ズキンと胸が痛んだ。さとるちゃんとよく似た笑顔だったから。
「これ、ね……本当は誰にも見せないでほしいって書いてあったんだけど」
二階の、さとるちゃんの部屋。そこで二人きりになってから、聡美さんが手渡したもの。それは、赤いチェックの日記帳。さとるちゃんが日記を書いていたことも知らなかったし、書くような性格には思えなかったから単純に驚いた。ただ、それだけの問題ではなくなったのは、日記帳を開いてしばらくしてからだった。
手が震える。喉の奥から、熱い塊が込み上げてくる。
「う、そ……」
呟いた私に、聡美さんが悲しげな微笑を見せる。その場に座り込んでしまった私の肩を、ポンポンと優しく叩いてくれた。
日記の中に秘められていたのは――正直な、さとるちゃんの想いの数々。私への、恋心だったのだ。
もちろん、同性相手の単なる友愛なんかじゃなく、生身の感情、欲望、焦燥――何もかも。
誰にも見せず、ひっそりと綴っていたはずの日記は、なぜか聡美さんが使っていた部屋の机におさめられていたのだという。だからこそ、両親よりも先に彼女に発見された。それはきっと、姉だけには自分の想いを遺していきたい、わかってほしい、という切なる願いだったのだろうと、聡美さんは泣いた。
「でも、やっぱり伝えないでいることって、できなくて……だからって、あの子のこと、嫌わないでやってね」
散々迷ったのだと、何度も謝られた。私には黙って首を振ることしかできなかった。口を開いたら絶叫してしまいそうで、号泣してしまいそうで――何も言えなかったのだ。
さとるちゃん。大好きで、大切だった私の唯一のひと。
苦しいほどに好きだったから、裏切られたことが許せなかった。真剣な想いを抱いていたのは自分だけで、彼女にとってはせいぜい悪戯程度のことだったのだと憎んだ。けれど。
本気で想っていてくれたから、さとるちゃんは私から離れた。
そんな事実を今更知ることになるなんて――。
「さとるちゃん……」
再び階下におりた私は、眠るように目を閉じたさとるちゃんの顔を見つめた。
そばによって、膝を折って、手を伸ばして。
こんなに近くにいるのに。あんなに近くにいたのに、あなたの心を知らなかった。
あの時の言葉の意味を、わかっていなかった。
「ふ……うっ……えっ……」
あとからあとから、涙があふれて。見つめているのに、見えない。
最期の顔。最期の微笑み。最期の、キス――。
自分の唇に触れた指で、そっと。指先に込めた想いに気づくのは、さとるちゃんだけでいいのだから。
そうして私は、幼なじみで親友の、たった一人の恋人に別れを告げた。
春。それが巡ってくるたびに、私は彼女を思いだす。
最期の別れと同時に、再会を果たしたあの日。さとるちゃんはこの世から消えて、私は付き合っていた人と別れた。
別離の寂しさは、圧倒的に前者のほうが勝っていて、私はある決意を固めた。
彼女より好きになれる人が見つかるまでは、結婚しない。
それが見事に果たされたのは昨年の春で、今こうして桜の季節を迎えた私の隣には、人生を共に過ごす配偶者がいる。さとるちゃんとの思い出は、彼にも秘密だ。
けれど、ようやく笑えるようになったから。笑わせてくれた相手だったから、結婚を決めた。
もうあの頃の、純真でまっすぐで、恐ろしいぐらいの恋心は天に昇ったけれど、今は穏やかな幸福に満たされている。
桜の舞い散る休日の公園。そこに集う平和な家族連れの一員。それが今の私で、これからの私。
隣を歩く彼の妻であり、その手に抱かれた娘の母親でもある。
きっと誰もが、表面に見えるこの姿しか知らない。思うこともないだろう秘密。
ずっと、永遠に心に秘めて、誰にも告げることのない想い。
私と、さとるちゃん。あの頃は私が、そして本当はさとるちゃんが、それぞれ強く大きな針を振りきったと思っていた感情。いつまでもアシンメトリの、いびつなハート型。
それでも何よりも大切で、涙が出るほど純粋な恋。今は心の奥底に封じ込めた想いを唯一知るのはきっと、もう一つの宝物。
「ああ、桜が本当に綺麗ね。ねえ? さとる」
これからも、ずっと、ずっと一緒。お母さんにはね、あなたともう一人、大好きな『さとるちゃん』がいるのよ――?
微笑みだけで伝えた告白に、まだ歯も生えていない娘は優しく笑った。
『あたしたち、共犯だね。紗雪――』
END.