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零-22 悪夢の果て


 緊張に口が渇く。

 紗雪は唇を舌で湿し、門戸をくぐった。

 玉砂利の敷かれた庭の、玄関に続く飛び石を踏んで歩く。

 門扉に手をかけ、逡巡する。

 ここまで来たは良いが、何を話せば良いだろう。

 会いたいと思ったのは事実だ。だが、何を話せば良いのか分からない。

(……まあ良いわ)

 ままよとばかりに門扉を開く。門に取り付けられた鈴が、からからと音を立てた。

「はいはいはーい。どなた様ー?」

 気の抜けた声と共に、左右非対称の足音が近づいてくる。

 紗雪は扉に手をかけたまま固まった。

「……おや」

 影虎は紗雪を見て、大きく目を見開いた。紗雪も同じく目を見開く。

 が、すぐに半眼になって彼を見やった。

「……何その格好」

「似合うだろ? メシも風呂も俺もすぐ用意できるぜ?」

 影虎はその場でくるりと回って見せる。蝶の形に背で大きく結ばれた紐がひらりと揺れた。

 頭には三角巾。いつもの地味な色の袷。

 そして、襞のいっぱいついた、装飾過多な前掛け。

「……須桜が?」

「当たり。紫呉に着せる前に俺が着たれ、と思って」

 やあ大変だったんだぜー? と影虎が井戸端会議を繰り広げるおばちゃんの如く、手首をちょいと曲げる。

「紫呉が風呂入ってる間に着替え奪ってこれ置いてってさ。そんで浴布(タオル)一丁で須桜おおおおおお前この野郎おおおお! って。で、須桜大はしゃぎ」

 あっはっは、と手を振りながら高笑いをする。

 ふいに、笑みを引っ込め、影虎は目を瞑った。開くと同時、先程とは種類の違う、苦味を含んだ笑みを浮かべた。

「……ごめんな、脅すみたいな事して」

「……『みたい』じゃなくて、完璧に脅迫だったわよ」

 紗雪は視線を逸らし、俯いて口を尖らせた。

「するならするで、もっと分かりやすく脅してくれたら良かったのに」

「はは。不明瞭ってのは脅しの基本だよ」

 悪い、と影虎は苦笑する。

「あと、紗雪ちゃんって確認せずに襲って悪い。いるとは思ってなかった……って、言い訳だけどな」

 沈黙が落ちた。

 何を話せば良いのか分からない。

 影虎も同じようで、気まずそうに頬を掻いている。

 えーっと、と会話の接穂を探す影虎に顔を上げる。目が合った。

「えー……改めまして、初めまして。……草薙影虎と申します」

 よろしく、と影虎は茶化して頭を下げる。

「うん……」

「あー……握手でもしとくか?」

 あちらこちらに視線の泳ぐ影虎に、紗雪は思わず吹き出した。

 いつものらりくらりと、良く言えば泰然としている彼のこんな様子を見るのは初めてだ。

「うん、よろしくね。影虎ってあだ名じゃなくて本名だったのね」

 彼の手を引き寄せ、ぐっと掴む。硬い掌から彼の体温が伝わってきた。

 影虎は目を丸くして、繋がれた手を見おろしている。

「ああ……。……つか、びびった。もう来ないだろうな、って思ってたからさ。巻き込んで利用して怖い思いさせて迷惑かけて。……だからもう、会いたくねえだろうなって、思ってた」

「……来る、きっかけが無くて。会いたくないとか、そんなんじゃなかったのよ? ただ、会って、何を話せば良いのか分からなかったの。でも、皆に会いたいって、思ったから……」

 いつまでも握手しているのはおかしい。

 紗雪は自然な動作で手を解いた。俯き、落ちてきた髪を耳にかける。

「そっか……。ありがとうな。あいつらも喜ぶよ」

 優しい顔で影虎は笑う。

 こんな風に笑う彼を初めて見た。

 いつも人をからかうような笑みか、苦笑かが彼の基本装備だから。

「ま、上がっていきなよ。せっかく来たんだしさ」

 少し照れくさそうに影虎は頭を掻いて、紗雪に背を向ける。

 紗雪は長靴を脱いで、ひらひらと蝶結びの揺れる背を追った。

 掌には、影虎の掌の感触が残っている。

 硬くなった皮。鍛錬を積んだ者の手だ。

「草薙、か……」

 紗雪の漏らした呟きに、影虎が足を止める。

「まあな。証明はできねえけど。草薙には刺青とかねえしさ」

「史書の事は、本当……?」

 如月の筆頭護衛。

 暗殺・拷問。

 草薙の名には常に血なまぐさい単語が付随する。

「史書とかちゃんと覚えてねえけど……。ま、書いてある大概の事はやってるんじゃねえかな?」

 何でも無い事のように軽い声で言う。その軽さこそが、事実なのだと表していた。

「それも有って、もう来ねえって思ってたんだよ」

 くるりと、影虎は紗雪に向き直る。

「俺はこんなだし。須桜も、まあ、あんな感じだし。紫呉もさ」

 いつもと変わらぬ微かな笑みを浮かべていた。彼らが何者か知る前と何ら変わりない。変わらぬ軽い調子、変わらぬ掴めない態度。

 紗雪は、じっと上目に影虎を見上げる。

「……何人、今まで、殺した事が有るの……?」

「さあ? 覚えてねえな」

 紗雪の咎める視線に、影虎はふっと笑って背を向けた。

「だってそんなの、ただの数だろ。意味ねえよ」

 ってこれ紫呉のパクりだな、と影虎は笑った。

「たぶん紫呉裏にいるんじゃねえかな? 会っていってやってくれねえ? 紗雪ちゃんの事気にしてたし」

 影虎はひらりと手を振り、廊下の角を曲がった。

「俺は昼飯の用意してくるんでよろしくなー」

 蝶結びがふわりと角に消えていく。

 呼び止めようと伸ばした手は、声を発する前に無意味と悟り下に降ろした。

(裏って……)

 裏のどの辺りだ、と紗雪は眉を顰める。道場の辺りか、それとも碑がある辺りなのか。

(まあ良いわ。行ってみたら分かるでしょ)

 ため息をつき、縁側へ向かう。

 靴脱ぎに有る下駄をつっかけ、きょろりと辺りを見渡す。

 男物の下駄は寸法が合っていなくて歩きにくい。歩くたびに足裏に当たってぺそぺそと音を立てた。

 屯所の裏口に来るのは久しぶりだ。

 道場へは何度か訪れた事があるものの、殉死者の碑が立てられたここに来るのは、これで二度目だ。それも、この碑を目にするのが何だか怖かったからだ。

 腰ほどの高さの、閃緑岩で出来た碑。

 その前に紫呉はいた。彼の隣には黒豆が丸まっている。

 紫呉は胡坐をかいて煙草をふかしていた。

 白く立ち上った煙が、青い空へと吸い込まれていく。

「……煙草とか吸うのね」

「…………いつもってわけじゃ無いですよ」

 紫呉は碑を見つめたままだ。

 声の調子からするに、人の気配は感じていたのだろう。ただそれが、紗雪とは気付いていなかったようだ。声をかけると同時、僅かに肩が揺れた。

 紗雪は紫呉の隣に腰を下ろした。

 紫呉は上を向いて、紫煙を吹き上げた。

 灰を落とす。

 慣れた手つきだった。

 指が長い。骨ばった指先の爪は欠けて汚い。

 草履の裏で火を消して、紫呉は腕を伸ばし碑の前の線香立てに細巻き煙草を押し込んだ。

 碑の前には枯れかけの野花、灰となった線香などがある。

 紫呉は懐から取りだした、煙草の箱を隣に添えた。

 紫呉の頬は青黒く腫れている。口の端が切れていた。

「……痛そうね」

「…………まあ、それなりに」

「平気なの?」

「痛み止め飲んでますから」

「世間ではそれを平気とは言わないのよ」

 痛み止め、か。

 先日雪斗に踏まれても平気な顔をしていたのは、その為か。

 呆れた物言いの紗雪に苦笑しつつも、紫呉は目を合わせようとしない。

 視線は軽く組んだ指先に落とされたままだ。

 風が髪を揺らす。

 顔にかかった髪を、首を振って除ける。紗雪は片手で髪を押さえ、空いた手で足元の雑草を引き抜いた。

 根にこびりついた土を、軽く振って落とす。地面の凹凸を指先で均し、側にあった雑草を引き抜いた。

 何を話そうか。糸口が見つからない。

 ただ無意味に抜いた雑草を黙々と積み上げていく。土に汚れた指先を払って、紫呉を窺った。

 紫呉は唇を一舐めし、視線を落としたまま口を開いた。

「……すみませんでした。黙っていて……」

 風が吹く。

 積み上げた雑草の山が崩れた。

「別に……。きっと言われても信じられないだろうし。今も、まだ何となく半信半疑だし。……いきなり次男様ですーって言われても、いきなりすぎてまだ頭の方が追いついてない感じよ」

 紫呉は僅かに苦笑じみた表情を浮かべた。

 話して、あ、と思った。雪斗の言を借りるなら『やっべぇ今まで普通に話してたよ!』だ。

 言葉を改めた方が良いのだろうか。いや、今まで普通に話してきていたのに、いきなり変えるのも何だか違和感があってやりづらい。それに、きっとそれを彼は望まないだろうと思った。

「……本物、なのよね……?」

「ええまあ。一応」

 苦笑して、紫呉は眉根を寄せた。顔の傷が痛んだのだろう。

「……なら、何でこんな事……って言ったらアレだけど。……こんな危険な事してるの? 弐班とか……すごい、危険な仕事じゃない」

 彼の体中に残った傷痕。

 それに今回もまた、彼は傷を負っていた。腕を斬られ腿を斬られ、殴られ蹴られ。散々な目に遭っている。

 黒豆が碑の裏に降り立った小鳥に狙いを定めている。頭を低くし、長い尾をゆらゆらと揺らしていた。

 ゆっくりと忍び寄り、一気に跳びかかる。

 ちょうど碑の裏になって見えないが、小鳥の鳴き声と大きく羽ばたく音が聞こえてきた。

 黒豆が小鳥を咥え、紫呉の前にやってくる。

 その頭を軽く撫でると、黒豆は満足気に屯所へ向かった。

「……理由……ね。……さて、何が理由だったでしょうね」

 紫呉は両手を後ろにつき、ぼんやりと碑を見つめた。

 小鳥の羽が舞う。

 紗雪はそれを摘まみ、くるくると回した。

「……人殺しって、言っちゃってごめんね」

「謝る必要は有りません。事実です」

「そうだとしても、私は、悪意を持って言ったんだもの。……だから、ごめん」

 消え入りそうな紗雪の声に、紫呉は無言で首を振る。

 紫呉は小鳥の羽を拾い上げた。指先で地面に穴を掘り、羽を埋める。紗雪も倣って、手にした羽を地面に埋めた。

 聞いて良い事、触れられたくない事が何か分からない。

 だが自身の内に燻る疑問をこのままにしておけない。紗雪はためらいがちに口を開いた。

「……色々、聞いちゃっても良い? ……嫌な事は答えなくても良いから」

 どうぞ、と視線で促がされ、紗雪は膝を抱えた。

 聞きたい事はたくさん有る。だが、何から聞いて良いものか。

「えっと……。あ、毎晩花街行って遊郭とか賭場とか行ってるって本当?」

「…………何情報ですかそれ」

「え、読売に書いてあったの。次男様はこれこれこうだって感じで」

 ああ、と納得した素振りで紫呉は頷く。

 ちなみにその記事には、彼の情交に関する事まで事細かに書かれていたのだが、それはまあ、良いだろう。

「嘘ですよ。愛染街に行った事も堵場に行った事も有りますが、毎晩ではありません。行ったのも仕事で行っただけで、そういう目的ではありません」

 では一晩に三人それぞれ三回ずつ、というのも嘘か。

 あと全額すった、というのも。

「嘘なんだ……。まあ、嘘なんだろうなあとは思っていたけど……って、紫呉。あんた本当の事では? 書かれてるんだから元があるでしょう、みたいな事言ってたじゃないの」

「いや、だって、信じてもらわないと困りますんで」

「どういう事?」

 責める調子の紗雪に、慌てた素振りをする紫呉だ。

 一つ咳払いをして、首を傾げる。

 ごこから説明したものかと、悩んでいるようだった。

「えー……。出来の良い兄と、出来の悪い弟。この対立が必要なんですよ。破天と誇天の為に、ひいては瑠璃の為にね。次男の愚行を疎んじて破天は闊達になる。跡継ぎの清廉さを誇天は崇め奉る。そういう次第です。均衡が取れるでしょう? 誇天ばかりが闊達になれば、それは如月の独裁です。異論を唱える者がいなくなるんですから。とはいえ破天ばかりが栄えても住みにくい。大事なのは均衡です。僕らはそれを保つための装置の一つなんですよ」

 例えば、と紫呉は落ちていた棒切れで地面に線を描いた。

「僕の……というより次男の噂を流すとします。いくら胡散臭かろうが、破天はこれで如月に弓を引く大義名分ができる。で、動きも派手になって色々とボロを出してくれる。炙り出すのに便利なんですよ。警備体制を厳重にする必要も有りますし、まあ、実際はそれほど上手く行きませんが、上手くいく事もある」

 紫呉はガリガリと地面を掻く。

「で、そうこうした後に兄様の、……というか、跡継ぎ様の良い噂を流す、と。これで均衡は取れます。一応はね」

 地面には魚を加えた猫の絵が出来上がった。

 意味無いんかいと思わず心中で突っ込む。

「じゃあ……跡継ぎ様がすごい人で、紫呉が昼行灯ってのは嘘なのね」

「まるっきり嘘ってわけでもないですけど……。兄様は実際すごいですし。……正義の味方で清廉潔白、ってのがどうってのはさておき」

 と、乾いた笑いを漏らす。

「それにまあ、僕が昼行灯、というのもね」

「……そんな事ないと思うわよ」

「そうですか? まあ、自己卑下が過ぎると嫌味なのでこれ以上は言いませんが」

 紫呉はくすりと小さく笑いを漏らす。

 得心がいった。

 先日、悠々館の前で読売の記事について論じた時の紫呉の言い分に。

 如月について知らない、と言ったのも、自分の事だからそう言ったのだろう。

(……って)

 そうだ。悠々館だ。

「紫呉、悠々館の息子さんと知り合い?」

「何故……って、ああ……。何か言ってましたねアレが」

 紫呉はさも嫌そうに顔を歪める。アレ呼ばわりだ。

「知り合いなのね……っていうか、仲悪いの?」

「いいえ?」

 嘘臭い。

「何で離れろって言ったのかしら……」

「さて……。アレの考えてる事は僕も良く分かりませんし、あまり関わりたくないです」

「……やっぱり仲悪いんじゃない……」

「そんな事ないですよ? 問い詰めるにも中央に行ってるみたいですしね。理由は気になりますがわざわざ会いに行くのも面倒です」

「嫌いなの……?」

「話すのが面倒なんです」

「そう……」

 紗雪はアレなる彼に同情した。

「え。って、ちょっと待って。中央って言ったら、息子さんも弐班って事なの?」

 はたと気付いて、紗雪はぽんと手を打つ。

「いえ、弐班ってわけではないんですが……」

「ないんですが?」

 先を促がすが、紫呉は言い難そうに視線を泳がせている。

 逡巡の末、まあ良いかと頷いた。

「紗雪にはここまで色々バレてしまっているんです。話しますよ」

 くれぐれも黙っていて下さいね、と付け加え、紫呉は言葉を続ける。

「如月の爪牙耳目となって色々やっている人間がいまして。まあ、僕らもそうなんですが……。その色々やってる人間の事を、名称が無ければ不便なので『鳥獣隊』と呼んでいます。数名ずつで隊を組み、各地に散らばっています」

 と、紫呉は木の棒で地面に鳥の絵を書く。

 お世辞にも上手いとは言いがたい。

「で、瑠璃の各地の動向を調べて奏上し、時には水面下で動きます。そのへんは、血なまぐさい事になるので伏せますが……」

 鳥が増えていく。

 何故目ばかりがやたらに写実的なのかは、まあ問うまい。

(たかし)は……ああ、アレは柊崇と言うんですが、その鳥獣隊の『鳩』の一員です。『鳩』は基本的に情報収集が主ですね。実戦もしますが、伝書鳩の役目を果たす事が多いです。ついでに言えば悟殿……えー……店主殿ですね、彼もそうです」

 ちなみに、と紫呉は一羽の鳥を塗りつぶした。

「僕ら乾弐班は『鴉』です。まあ名前に特に意味は有りません。個を識別する名称が無ければ不便なので。普段は弐班として働きつつ、『鴉』としても動いています。今回は偶然、両方の領分が重なっていたんですね」

 塗りつぶした鳥の下に、紫呉はもう一羽描き足した。

 やたらに平べったい。

 紗雪はその芸術的な落書きを眺めながら、ぐったりと項垂れた。

「……何か、すごく色々大変な事知っちゃった気がするわ……」

「大丈夫ですよ、他言しない限り」

 笑いながらも、暗に、言ったらどうなるか知らないぞと脅されているような気がする。

「それにまあ、僕らが弐班である事、鳥獣隊である事、まして如月の次男と影である事を知ってる人間はそうそういませんから。紗雪に危害が及ぶ事は無いでしょう。もしそんな事が有ったとしたら僕らが全力で護ります。それから崇が何故あんな事を言ったかは、おいおい吐かせて紗雪にお知らせする事にしましょう」

 そう告げる紫呉の語尾が、だんだんと小さくなる。最後の方はほとんど聞こえなかった。

 紫呉は俯き、ちらりと上目に紗雪を窺う。

「何?」

「いえ……。その、今後も交友を続けていただける事を前提に話してしまいましたが、その……」

 語尾は紫呉の口中に消える。

 気まずげにこちらを見やる紫呉を一瞥し、紗雪はそうね、と素っ気無く言った。

 しょぼくれる紫呉に申し訳なさがよぎるが、散々な目に遭ったのだ。少々の意趣返しは許されるだろう。

「まあ、ほんと大変な目に遭わされちゃったものねー」

 わざと棘を含めて言うと、紫呉は肩を落とし俯いた。

 流石に罪悪感が湧く。紗雪は小さく苦笑して、顔を上げるように告げた。

「……私ね、今回の事で色々考えたのよ。このまま黒官を目指しちゃって良いのか、とかね」

 黒官を目指すきっかけとなったのは、数年前に見た蝶灯だ。

 その美しさに魅せられた。

 夜闇に揺れる幻想的な灯火に酔いしれた。

 出会ったのは丁度、雪斗が出て行ってすぐの事だ。先を不安に思っていた時の事だ。

 あなたはあんな風にならないでね、と母にきつく言われた。

 お父さんのように、お兄ちゃんのように立派な官吏を目指してね。

 そうすればお金の心配をする事も無い、ご飯も住む所も保証される。後ろ指を差される事も無い。

 だから、と言って泣く母を前に首は振れなかった。

 本当は自分も傀儡師になりたい。

 誰かに喜びを与えたい。

 だが出来ない。父にも母にも幻滅されたくない。

 雪斗が出て行ったあの日、涙を拭う父の姿を見た。

 さめざめと涙する母の側に、無言で座する父を見た。

 胸が痛んだ。

 両親にそんな思いをさせたくないと思った。

 だが何かを作りたい、そして誰かに喜びを与えたいという思いも有る。

 しかし両親を泣かせたくないという思いも本物だ。

 どちらも譲れぬ本当の想い、天秤にかけても均衡は崩れない。

 そして蝶灯を見た。

 紗雪の中に渦巻く二つの思いを二つとも昇華させられるのはこれしか無いと思った。

 言われるがままに官吏を目指しても良いのかと自問自答の日々だったが、蝶灯のおかげでようやっと答えを得た。

 黒官になりたい。

 その思いが固まった。

 それに官吏になれば、母の言う通り衣食住に困る事は無い。将来は安泰だ。

 官舎勤めとなれば、自然そこから将来の伴侶を選ぶ事になるだろう。

 伴侶の仕事は安定しているに越した事は無い。

 そこから好みの男を捕まえれば、悠々自適の暮らしを送れるだろう。

 良い事尽くしだ。

 こうして『姫計画』が誕生した。

「昔から黒官になりたいって、ずっと思ってたけど……。今回の事でそれが揺らいだ」

 黒官は武具も作り出す。

 その事は知っていた。知っているだけだった。

「初めて、黒器で人が斬られるところ見たの。血とか傷口とか悲鳴とか、そんなのを間近に感じたのも初めてだった。……それで、怖くなったわ」

 今もまだ脳裏に焼きついている。

 血の紅さ、骨の白さ、白刃の煌き。

「分かってるの。理解はしてるの、守る為の力だって。でも怖いって、思った」

 恐怖を抱いた。

 嫌悪を抱いた。

 何度も繰り返し夢に見た。

 夢の中で黒い人物(それは日によって紫呉だったり影虎だったり須桜だったりした)は刃を振るう。

 足元には紅く染まった屍が転がっている。

 その屍がこちらを向く。

 瞳が紗雪を捉える。

 紅い人物(それは日によって紫呉だったり影虎だったり須桜だったりした)はこちらに手を伸ばす。

 その手が斬られる。

 断面には白い骨。

 首を斬られごとりと落ちる。

 断面には白い骨。

 首(それは日によって紫呉だったり影虎だったり須桜だったりした)が、紗雪を見つめる。

 そこでいつも目が覚める。

 荒い呼吸と、体中を濡らす冷や汗。いやに大きく心臓の音が響く。

 目を閉じ眠りと誘おうとするが、また同じ夢を見るのではという恐れから中々眠りは訪れなかった。

「……でも……紫呉が怪我してるの見て、それも怖いって思った。このまま……死んじゃうんじゃないかって」

 今までだってその不安はずっと有った。

 弐班の皆の体を見て、殉死者の碑を見て。

 いつか彼らと、二度と会えぬ日が訪れるのではないかと。

 だが同時に、そんな事は無いと、根拠の無い思い込みがあった。

 だって彼らは自分の友人だ、友人が消える事など有り得ないと、そんな意味の通らない理屈でもって、死ぬはずがないと思い込んでいた。

 だがそれこそ有り得ない。彼らだけが死なないなんて有り得ない。

「死んでほしくないって思った」

 紫呉の二の腕から滴る血を見て、確かにそう感じた。

 その時抱いた恐怖は、紫呉が刃を振るう恐怖より、紫呉を失う恐怖だった。

「殺されてほしくないって、思った」

 紫呉の周囲には、彼に斬られ呻く者が倒れ伏していた。

 それがいつか、紫呉本人に変わる日が訪れぬと、言う事は出来ない。被食者と捕食者が入れ替わる日が訪れないと、断言なんて出来やしない。

 紗雪は眼前の碑を見つめた。

 掘られてまだ月日の浅い名前、長い年月を経た名前。様々だ。

「……紫呉は、怖いって思わない?」

「怖いですよ」

「後悔とか、したりしない?」

「しますよ。しまくりですよ」

「しまくり、ですか」

 目を丸くする紗雪を一瞥し、紫呉はふっと軽く吹き出すようにして苦笑した。

「痛いわ苦しいわ重たいわで。いつか潰されるんじゃなかろうかと思います」

 でも、と目を細めて紫呉は空を見上げた。

「悲しいよりかは、ずっとマシです」

 空にはゆるやかに雲が流れている。

 紫呉は一つ息を吐いて、己の掌に視線を落とす。

 左手の黒器を強く握り締めた。

「だから僕は、戦うと決めた」

 紫呉は目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。

 そしてそれと同じ速さでゆっくりと息を吐いた。

 暴れる心を必死で押さえつけているようだった。

 横顔からは彼の感情は読めない。いつもと同じく表情に乏しいままだ。

 紫呉はゆっくりと目を開く。

 握った右の拳を左の手で包み込んだ。

 視線は両の手に注がれている。

「……うん」

 風が髪を揺らす。

 それを押さえ、紗雪は欄と光る紫呉の黒い双眸を見つめた。

「…………うん」

 もう一度強く頷き、紗雪はぐっと拳を固める。

「決めた」

「はい?」

「私はやっぱり、黒官になりたい」

 紫呉の右手を引っ張り、無理やりに握手をする。ぶん、と一回強く振って手を離した。

「まあ、これからもよろしくって事よ」

 ぽかんと口を開け、紫呉は離された手を見ている。

 間抜けなその表情に、紗雪は思わず笑った。

「変な顔」

「うあ、や、すみません」

 僅かに頬を染め、紫呉は片手で顔半分を覆った。

 掌の下でもう一度すみません、と呟く。

 くすりと、笑う気配がした。

 手を離し、こちらを真直ぐに見つめてくる。

「……ありがとうございます」

 紗雪は目を瞠った。

 幼い笑顔だった。

 それでいて嬉しさと悲しさと切なさを混ぜたような、何とも言い表せぬ笑顔だ。

 胸が締め付けられる。

 覗く八重歯が愛らしいと思う。


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