零-19 里に炎を
いったいどういう事だ。
「どういう事だ……?」
紗雪の疑問は、悠一の喉から声となって発せられた。
「どうもこうも、言ったままですが」
「偽者、だろう……?」
「酔狂でこんな重いもの彫りませんよ」
と、苦笑しつつ紫呉は己の左の二の腕を撫でた。
そこに巻かれていた包帯は斬られると同時にほどけ、用途を成していない。その隙間から桔梗の刺青が覗く。
如月の者と示す証だ。
「嘘……」
漏れた呟きに、紫呉がこちらを向く。すみません、と唇が小さく動いた。
「じゃあお前はまさか……」
悠一は大きく目を見開き、背後を振り仰ぐ。
「お察しの通り。如月の『二影』さ」
以後お見知りおきを、とふざけた調子で言って、影虎は笑った。
(……どういう事……?)
悠一が、如月の次男様ではないのか?
そしてあの少女二人が悠一の『二影』ではないのか?
だが紫呉の二の腕には、確かに桔梗の刺青がある。
ふ、と視界が黒く狭まった。
背が冷たい。汗が顎をつたい、地面に落ちた。両手を地面につき、浅い呼吸を繰り返す。
(どういう事なの)
背を優しく撫ぜられる。
顔を上げれば、片膝をついた影虎の姿があった。
抱き寄せられ、彼の胸に顔を埋める。温かい。
「落ち着いて。俺の心臓の音数えてみな?」
言われるがまま、紗雪は彼の心音を数えた。ことりと脈打つ音に意識を寄せる。それに合わせるように、影虎は軽く紗雪の背を叩く。
ごめんな、と低い声で呟きが降ってきた。
やがて汗も引き、呼吸が落ち着いてきた。体を離す。
と、何かがこちら目がけて飛んできた。
影虎は左手首の黒曜石の数珠を外す。キン、と高い音を立ててそれは影虎に弾かれる。小刀が下生えに落ちた。
「妬くなって『清姫』」
朱柄の十文字槍だ。パチ、と小さく爆ぜる音を発している。それに軽く口づけを落とすと、清姫と呼ばれた黒器は鎮まった。
苦笑して影虎は立ち上がり、須桜の元へと向かった。
「どういう事なの……? だって、悠一が……」
瑠璃の次男様じゃないの?
震える声で尋ねる。悠一は眉を寄せ、薄く笑った。
「紗雪。何を吹き込まれたか知りませんが、彼は里炎組の組頭の弟君ですよ」
はっと息を呑む。
里炎組といえば、先日事件を起こした組ではないか。
「嘘…………」
では彼らが青官をかどわかし、立てこもり、桔梗との交換を要求した、まさにその渦中の人物なのか?
「紗雪ちゃん?」
今までと変わらない、柔らかな声で名を呼ばれる。
「君は、どっちを信じる?」
今まで、悠一が如月の次男様だと思っていた。
だって彼は言っていた、昼行灯と呼ばれている、と。
けれど今、悠一は里炎の組頭の弟と呼ばれていた。
そして彼をそう呼んだ紫呉は、如月の次男だという。
今の今まで、紫呉達を破天の人間だと思っていた。
そう思う状況証拠は充分すぎるほどあった。
だが紫呉の腕には確かに桔梗の刺青がある。如月の人間を示す証拠だ。
紗雪は袴を握った。混乱して頭がぐるぐるする。
「すみません紗雪、黙っていて……。説明を、しましょうか」
と言うより言い訳ですかね、と紫呉は苦笑した。
「先日里炎が事件を起こした折、僕らは数名の残党を取り逃がしました。捕えるべく動いてはいましたが、思ったような成果は挙げられずにいました」
自嘲するように、紫呉は息を吐いた。
「そんな時ですよ。悠一殿、あなたが紗雪に接触を図ったのは。あの日、悠々館の付近で破天が騒ぎを起こしましたよね? 中央へ向かう途中だった僕はそれを見ていました。そしてあなたが紗雪に接触するのも」
ちらりと、紫呉はこちらを見た。
「……理由は、推測に過ぎませんが。紗雪が青官長の娘だと、そうどこかで聞きつけでもしたのでしょう? そして、何か有益な情報でも持っていやしないかと近づいた」
苦い表情で悠一は柳眉を寄せる。
「悠一殿、あなたの顔をどこかで見たと思っていたんですよ。それだけの顔です。人違い、という可能性は低い。そしてそれが、先日の事件の折だったと僕は気付いた。その時はまだ、確信は持てなかったのですが」
そして、と紫呉は続ける。
「壱班が取り逃がした破天を、僕はわざと逃がしました。組が違えど同じ破天ならば、彼はその場にいたあなたを頼るだろうと思って。案の定、彼が追った先にはあなたがいました。追いつく前に壱班が捕えましたがね。その後僕はあなたをつけ、この庵の場所を知りました。まさかこんなに近くに潜伏しているとは思いませんでしたよ」
悠一は歯を食いしばり、俯いている。
「それだけではまだ確信が持てない。なので、しばらくは泳がせる事にしたんですよ。……紗雪を、巻き込む事になるとは思いましたが……」
すみません、と紫呉は眉根を寄せた。
「その翌日……、ですかね。あなたと紗雪が接触する所に、影虎が居合わせた。あなたが影虎の顔を覚えていなかった事が幸いでしたよ。影虎は跡をつけた。そして紗雪が黒官を目指している事、僕らと……弐班と付き合いがある、という事をあなたは知った。……という事を、僕らは知った」
紫呉は言葉を切り、口の端を舐めた。滲んだ血に顔を顰める。
「この時点で捕えようとも思いました。紗雪と、あなたの関わりが深くならないうちに。ですが上に指示を仰げば、……目的は里炎の壊滅、時期尚早だ、まだ泳がせろ、との事」
ちらりと、紫呉は支暁殿の方角を仰ぎ見た。
「その間、この庵以外に散った里炎の残党の居場所を僕らは探しました。八割方は突き止めましたが、残りの二割が不確かです。なので手っ取り早く、今場所の知れているここの者達に吐いて頂こうとしたんですが……」
紫呉は紗雪を見やり、目を眇めた。
「……庵には誰もおらず、その代わり、紗雪がここにいた。紗雪が、私塾にいる時間を狙ったのですが……」
それは、あの日の事か。
影虎とここで出遭ったあの日。
「紗雪の口から僕らの動向を知らされるわけにはいきません。……口止めをして、……僕らは狩りを続けた」
悠一は顔をあげ、じっと紫呉に視線を注いでいる。
白い面には何の表情もなく、彼の心は窺い知れない。
「そして今日……時間で言えば、もう昨日ですかね。屯所に里炎の一味がお出ででした。紗雪の跡をつけたのでしょうね。……狙いは黒器ですか?」
と、紫呉は腰に差した、緋鞘の打刀を軽く叩く。
「確かに、黒器が有れば奇襲も容易いですからね。使える使えないかはともかくとして、手に入れておきたかったんでしょう。手に入れて、解明はその後でも良い。そういう判断ですかね。……もしくは、追い詰められている事を察し、強攻に出たか。僕を人質にでもしようと思いましたか?」
ふん、と紫呉は鼻を鳴らす。
「甘いですよ。彼女には、全てを吐いて頂きました。……と言っても、吐かせたのは僕ではありませんが」
紫呉は影虎へと視線を向けた。
「これで、里炎の残党の居場所を全て僕らは把握しました。そして彼らに噂を吹き込んだ。……捕えられた組頭は死んだ、と」
ぴくりと、悠一の眉が跳ね上がる。
「実質、現在の組頭である悠一殿がいるここに、一所に集める為にね。……もしかしたらまだ残っているのかもしれませんが、それは追々あなたに尋ねる事にしましょう」
紫呉は鍔に指をかける。
「ふ……っ」
悠一は右の手で顔を覆った。
肩が揺れている。
紫呉は首を傾げた。
「はは……っ。あは、あはははははは!」
腹を抱え、悠一は笑った。
夜の静寂に高い笑い声が響く。
「は、はは……っ」
やがて声は止み、悠一は滲んだ涙を拭った。
「すごいね! 全部全部、泳がされていたってわけか!」
くつくつと悠一は肩を揺らす。
そんな悠一に、紗雪は呆然と尋ねた。
「ねえ、悠一……。……私を騙していたの?」
覆った手指の隙間から、悠一がこちらに視線を寄こす。
だが笑みを浮かべるだけで、何も言わない。
「……答えてよ」
悠一は腕をだらりと下ろし、笑った。いつもと変わらぬ、柔和な笑みだ。
「騙してなんかいないよ?」
小首を傾げ、笑みを深める。
優しい笑みだった。
「ただ、君の勘違いを利用しただけだ」
紗雪は大きく目を見開いた。
「ぼくは、ぼくが如月の次男だと名言した覚えはない。それにぼくは、嘘は言ってないよ? 君と話したいと思ったのは、君が青官長の娘だと知ったからだと言っただろう? ……ああ、でもその理由は出任せだけれども」
悠一はくすりと笑って、形の良い唇を持ち上げた。
『痛みをね、分かってくれるんじゃないかと思ったんだよ。……きっと、ぼくと同じ痛みを抱えてるんじゃないかな、ってね。……だから、話してみたい、って思った』
そう言っていたのに。
その想いに応えたいと、思っていたのに。
「本当の理由は、今彼が口にしていた通りだ。君が何か有益な情報を持っていないかと思ったから」
全部、全部嘘だったのか。
ただ紗雪を繋ぎとめておく為の嘘だったのか。
紗雪はぎゅっと、袴を握った。
「君がぼくを如月の次男だと勘違いしている事には気付いていたよ。……実に、不愉快だった」
悠一は土を爪先で蹴り上げた。
仕草とは反対に表情は穏やかだ。いつもと変わらない、優しい顔をしている。
「けれど、青官長の娘を引き止めるのに如月の次男だという嘘は効果的だと思ったから、そう思わせておく事にしたんだ」
袴を握った拳が震える。
「けれど、君は特に有益な情報を持っているわけでもなし。残念だったな。だからまあ、せめてこちら側に引き込もうとはしていたんだけども」
紗雪は傍らの石を投げつけた。
石は悠一の所まで届かずに土に跳ねた。
「……ひどい……!」
「ごめんね? ……けれど、君はぼくが如月の次男だと思い込んでいたから、あんなに親身になってくれたんだろう? ぼくが里炎の者だと知ったら、いや、如月の者じゃないと知っても君はあんな風に接してくれた? ぼくが君に下心を持って近づいたのと同じように、君も下心があったからぼくと親しくしていたんだろう?」
紗雪は唇を噛んで俯いた。
その通りだ。
悠一が如月の次男だと思ったから、紗雪は彼と親しくしたいと思った。
だがそれはきっかけで、彼と触れ合ううちに彼自身に惹かれ始めていた。
なのに。
「……兄が死んだ、というのは本当なのかい?」
ふう、と悠一は大きく息を吐いて紫呉に向き直った。
紫呉は影虎へと視線を流す。須桜と共に残党の手当てと緊縛作業をしていた影虎は、その視線を受けてひらりと手を上げた。
「まだ壊れてはいねえよ」
苦笑交じりにそう告げて、影虎は作業を再開した。
「ふふ、そうか。すごいね。流石は兄だ。立派な事だね」
悠一は自嘲の笑みを浮かべた。
「それに比べてぼくはどうだろうね? 情報収集のため青官長の娘に近づいた。組に有益をもたらす事ができたのなら、戦闘で大した役にも立たないぼくを、誰も昼行灯と馬鹿にはしないだろうと思って。組頭としてぼくを認めてくれるだろうと思って。けれどその結果、こうして残った里炎を壊滅に導いてしまった。あはは……っ! とんだ役立たずだ!」
悠一は腹を抱えて笑う。
ひとしきり笑って、悠一はふいに目を閉じた。
「如月の次男殿? 君は里炎の由来を知っているかな?」
「……いえ」
「この里すべてを照らせるように。月明かりの届かぬ闇を照らせるような光をこの里に。そう願って兄がつけたんだ。立派だろう?」
悠一は空を見上げた。
ゆるゆると揺れる薄雲の向こうに満月が照っている。
「僕は如月が嫌いだよ。平等を謳っているくせに、色町は公然とある。何が平等だ。遊女や色子、香具師たちは? 彼らの存在は何なんだ。教育機構だって、高度の学問を見につける為には高額の金が必要だ。金の無い者はどうしたら良いんだろうね? そして官吏になる為には大学を出る必要が有る。自然と官吏になれる人間の幅は狭まる。黒器が存在する事も不思議でならない。ただの人殺しの道具じゃないか。何故それを里の民の税金で作っているんだ。戦もないのに。何の為に? それに、世襲制も廃止すべきだ。愚昧な長子を主に立てた瑠璃は、どう転んでも良い方向には向わないだろうから」
何かを読み上げるようにすらすらと悠一は言った。
「……炎は、触れるものを燃やしますよ」
低く紫呉は呟く。
「どれだけ立派な思想を謳ったとて
「じゃあどうしろって!」
語尾を奪うようにして、悠一は声を荒げた。
「投書でも? 無意味だろう! そんな小さな声はお前達に届かない!」
「だから青官をかどわかした、と」
悠一は顔を歪め、顔を背けた。
「……ぼくとて、それ以外の方法が無いのかと兄に相談したさ。だが無理だった。ぼくの声は聞き入れられない。兄にも、組の皆にも」
ふんと鼻を鳴らし、悠一は嗤う。
「それに……そうするまでに、組だって色々活動はしてきたさ。誰も傷つけない方法を。だが何をしても里の皆は気付いてくれなかった」
ならば、と悠一は勢いよく顔を上げる。
「どんな方法を使っても気付かせる以外無いじゃないか。そうだ、桔梗が死ねば、この里の頂点が変われば里も変わる! ああそうだ、桔梗は官吏との交換に応じなかったな。下官の命より桔梗が大事なんだな。平等だと、そう言っているのは桔梗なのに!」
「当たり前でしょう」
「……何だって?」
「平等とすら嘯けぬ支配者を誰が受け入れますか」
「だからと言って……っ」
「愚かだな」
紫呉は吐き捨てた。
悠一は言葉に詰まり、ぐっと身を引く。
「理想を謳うのなら……ああ、もう良い。何を言っても無意味でしょうから」
紫呉は目を伏せ、大きく息を吐く。
すらりと鞘を走らせた。
切っ先を悠一に向ける。
「お前は如月に弓を引いた。これが、その答えです」
悠一は美しい顔をぐしゃりと歪めた。
「……ははっ、やっぱりな。こうやっていつもお前達は力で捻じ伏せるんだ」
何もできないくせに、と悠一は力無く呟く。
「……そのくせ、こうやって無理やり力で言う事聞かせるんだ。……ほんとは無力なのに。何も救えないくせに」
紫呉は話が長くなると判断したのか、面倒臭そうに刀を肩に担いだ。
「……君は、愛染街でおきた十年前の大火事を覚えているかい?」
「知識としては知っていますが」
「はは……知識として、ね。じゃあその時の被害者の数は?」
「十四名、……ですか?」
「当たりだ。流石に名前までは知らないだろうね」
「そうですね」
「じゃあ、その時ぼくの父親も燃えた事も知らないだろう。大変だったよ? 花街で死んだとなっちゃ、周囲の目も冷ややかでね? 母はその所為で仕事を失った。ぼくら兄弟も学問を諦めるしか無かったよ。何しろお金が無いんだから。金を稼ごうにも仕事が見つからない。自然、選ぶ仕事がどうなるか、分かるだろう?」
悠一は汚いものを払うかのように、自身の肩口を払った。
ぐっと胸元を押さえ自嘲する悠一を、紫呉はただ黙って見ていた。
「その後の救済措置がどれだけおざなりだったかも、知らないんだろうね。……金を与えて、それで終わりだ。何の救いにもなりやしない。無力なのに、そのくせ、お前達は、神であるかのように振舞うんだ」
「なるほど、ねえ……」
紫呉は薄い唇を持ち上げた。
笑みを漏らした紫呉を、悠一は怪訝な顔で見つめる。
「はは……っ。神であるかのように、ね? よく分かってるじゃないですか」
「何を……」
「その通りですよ。僕ら如月は神じゃない。ただの人です。見ての通り、斬れば血も出るし痛みも有る」
「ならば……! 人のくせに……っ、そのくせ、ぼくらと同じ、人のくせに! そのくせぼくらを裁くのか! 神では無いと言うのに!」
「人を裁くのは人ですよ。神はただ在るだけです」
「そんなの……っ、そんなの、おかしいじゃないか……」
悠一は拳を固めて項垂れる。
「何もできないくせに……。救えないくせに……」
「そうですね。僕らは無力です」
紫呉がため息と共に肩から刀を下ろす。
悠一は彼を睨みすえた。
「……ですが、僕は己の無力さに甘えたくない。何もできぬと、誰も救えぬと、そう叫ぶばかりでいたくない。無力だと喚くばかりでいたくない」
だから、と紫呉は切っ先を悠一に向けた。
「僕は刀を手に取ったんだ」
悠一の白い面から表情が消える。
そして一瞬後、ふっと嘲弄の笑みを浮かべた。
「捻じ伏せる為の力を?」
「そうですね」
「人を殺す為の道具を?」
「そうですね」
「大層な事を言うけれど……。君は、ただの人殺しじゃないか」
「何とでも」
「今まで何人殺してきたんだい?」
「覚えていませんね」
「覚える価値も無いって?」
「それはただの数です」
無意味ですよ、と紫呉は感情の見えぬ声で呟いた。
くつりと、さもおかしげに悠一は肩を揺らす。
震える手で、落ちていた小刀を拾い上げた。
切れ長の目をいっぱいに見開き、悠一は刃先を紫呉に向ける。
互いに、じり、と一歩踏み出した。
「……だめ!」
紗雪は両手を広げて飛び出した。
紫呉が目を瞠る。
紗雪は悠一を背に、両手を広げた。