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零-16 不安



 眠れない。

 気持ちが悪い。

 吐き気がする。

(刀って、人の体貫通するのね……)

 瞼裏に浮かんだ光景に、紗雪はぐっと歯を噛みしめた。

 胃がキリキリと締め付けられる。

 あの後、紗雪は夢中で走った。

 怖かった。一刻も早く、あの場から離れたかった。紫呉から遠ざかりたかった。

 不審がる女中や下男に構わず、部屋に飛び込んだ。食事も風呂も断って、頭から布団を被った。

 眠ってしまおうと思った。眠って、朝になれば何かが変わると思った。何も変わらないと分かりながらも、そう願った。

 だが眠れない。

 寝返りをうち、ため息をつく。

 何度も何度も繰り返した。

 だが眠りはやってこない。苛立ちと不安ばかりが募る。

 紗雪は身を起こした。

 虫の音が聞こえる。女中が雨戸を閉めに来てから、もう随分と経つ。

(あの子、どうなったのかしら……)

 彼女を見捨てて逃げてきてしまった。

 自己嫌悪に眩暈がする。

 だが仕方が無いではないか。あの場にいれば、自分もああなっていたのかもしれないのだから。

 だって怖かった。怖くて何も考えられなかった。

 紗雪は大きく息を吐く。言い訳を繰り返す自分に嫌悪を感じた。

 紗雪は首筋を撫でた。ちり、と小さな痛みが走る。

 傷口はもう固まっている。そもそもあまり深い傷ではない。

 小刀を突きつけた紫呉の黒い双眸。

 あれは、捕食者の目だった。

 鋭い眼光に身動きを封じられた。

 その目が、紗雪だと認識した途端に緩んだ。

 もし、捕えた相手が自分では無かったならば、紫呉はあのまま刃を突き立てていたのだろうか。

 いや、紗雪だとしても、害を加えようものなら刺されていただろう。

 あの少女のように。


『黒官が武具を作っていることを不思議に思わないかい? 武具開発の金は民の税金だ。その金で、人を殺す道具の開発をしているんだ。おかしいだろう』


 悠一の声が耳に蘇る。


 人を 殺す 道具を。


 紗雪は強く頭を振った。

 強く握られた手首が痛む。そこにはくっきりと紫呉の指の跡が残っていた。

(でも何で……)

 何故、少女はあの場にいたのか。

 何故紫呉に斬りかかったのか。

(考えたくない……)

 理由なんて何だって良い。考えたくなかった。

 眠ろう。眠ってしまおう。眠って、朝になれば、解決している。そのはずだ。

 目を瞑る。

 不安が押し寄せる。

(彼女は、私を護ろうとしてくれたの?)

 紗雪が紫呉に小刀を突きつけられて。

 その後、彼女は紫呉に斬りかかった。

 紗雪の護衛として彼女がずっとついていてくれたのだとしたら、その可能性は高い。

(その彼女を、私は置いてきてしまったの?)

 吐き気がする。

 紗雪は庭に飛び出した。

 膝をついて口を押さえる。吐き気が喉元までせり上がってくる。だが何も出てこない。ただ嘔吐くばかりだ。

 吐瀉物の代わりに、涙が零れた。

 涙は池に吸い込まれ、水面を揺らす。餌と勘違いしたのか鯉がぱくぱくと口を開けている。

 揺れる水面には、満月が映っていた。ゆらりゆらりと揺れて揺れて、やがて水面は穏やかさを取り戻した。

 暗い水面には冴え冴えとした満月がある。その満月が雲に隠れた。厚い雲に覆われ、月影すら感じられない。

(やっぱり、乾弐班は破天って事なの……?)

 違うと信じたい。

 だが信じられない。

(悠一……)

 会いたい。

 抱えた膝に顔を埋める。閉じた瞼の裏に、悠一の笑顔が蘇る。

 甘いながらも爽やかで、それでいて柔らかくも凛とした、雅やかでありながらも親しみの持てる、人懐っこい顔立ち。

 自分の理想そのままの容貌。

 『姫計画』遂行の為の、身分も申し分ない。

 だがそんな事は関係無しに惹かれた。一目見て心奪われた。

 外見と立場。

 きっかけはそれだった。

 だが、何度か話すうちに彼自身に惹かれていった。 優しくて紳士的で。

 その優しさが万人に向けられているのでは無いのかと、頭を悩ませた。

 誰にでもあんな風に甘い言葉を囁いて、雅な仕草で先導して。自分だけではないのだろうと、そう思いながらもやはり嬉しかった。

 にこにこと柔らかな笑顔が崩れるところを見た。

 彼の抱え込んだ悩みを、苦しさに顔を歪めて吐き出していた。

 悠一は言ってくれた。

 自分の抱えたものを紗雪になら分かってもらえると思った、と。

 青官長の娘なら、分かってくれるんじゃないかと。

 現金な話だが、この時ばかりは自分の父が青官長で良かったと思った。

 だって、自分がただの十七歳の少女ならば、悠一は気にも留めなかっただろうから。

 きっかけは何だって良い。

 出会って、話して、側にいたいと思った。

 もっと知りたいと思った。悠一もそう思ってくれていたら、と思う。

(……会いたい)

 顔を上げる。満月はまだ雲の向こうだ。

(悠一は、無事なのかしら)

 はたと、紗雪は思った。

 悠一の『影』の少女は殺された。

 悠一の居住まいも知れている。

 不安が波のように押し寄せてくる。

 紗雪は立ち上がった。

長靴を履いて、裏口から家を抜け出す。

 必死で駆けた。夢中で交互に足を動かした。

(何でもっと速く走れないの)

 すぐに乱れる呼吸。痛みを訴える脇腹。思い通りにならない自分の体に苛立ちを感じた。

 色濃い不安が体中にまとわりつく。

 動悸が激しい。

 頭皮と頭蓋の隙間に氷を埋め込まれたような、そんな心地だ。

 早く、早く悠一に会いたい。無事な姿を一目見たい。

 だが俥を捉まえようにも、こんな夜中には走っていない。

(もっと早く気付いてれば……)

 自分の荒い呼吸が耳につく。

 辺りはしんと静まり、風と虫の音が響くばかりだ。

 腿の筋肉が急な運動に引き攣る。

 紗雪は足を止めた。

 頭痛がする。

 肺が痛み、ひどく咳き込んだ。涙が滲む。

 上手く息が吸えない。呼吸の度にひゅう、と喉が音を立てた。

 それでも足を前へ前へと動かした。駆けて、止まって、歩いて、駆けて。その繰り返しだった。

(お願い、無事でいて)

 脳裏に少女の姿が蘇る。

 少女の白い着物に広がった鮮血。力なく落ちた腕。

 黄昏の庭に倒れ伏したその姿が、悠一の姿にすり替わる。

 強く頭を振って、その光景を消し去った。

 やがて、表通りが近づいてきた。

 がらんとした通りは、昼間の喧騒を感じさせない。静寂が広がるばかりだ。

 通りを駆け抜け、庵へと向かう。門戸を押し、玄関口へと向かった。

 庵から少し離れた場所で、紗雪は足を止めた。

 弓張提灯のぼぅやりとした灯りが周囲を照らす。

 庵の周囲には人々が集まっていた。老若男女ざまざまだ。合わせて十名ほどか。見たことの無い顔ばかりだ。

 その中に、黒髪を短く切った少女の姿を見つけ、ほっとした。たとえ敵意を抱かれていたとしても、知った顔がある事に安心を感じた。

 悠一の姿もある。腕を組み、周りの声に耳を傾けている様子だ。

(良かった……)

 怪我をしている様子は無い。ほっと胸を撫で下ろす。

 だがいったい何があったというのか。

 人々は紗雪に気がついていない。

 声はこちらまで届かないが、彼らは皆神妙な顔をしていた。

 近づき辛くまごついていると、ふと顔を上げた悠一と目が合った。

 彼は大きく目を見開き、驚いた顔をしている。隣の青年と二言三言言葉を交わし、こちらにやってきた。

「どうしたの? こんな時間に……」

 声音に困惑が感じられた。

「あ……ごめんなさい……。その、心配で……」

「心配?」

 悠一が首を傾げる。紗雪は口ごもった。


『誰にも何も言うな』


 紫呉の言葉を思い出す。途端、つかまれた手首の痛みが蘇った。

「え……っと……。悠一は無事か、確かめたくて……。それで……」

「ぼくが?」

「そう。悠一は」

 『は』に特別な重みを置いて伝える。

 悠一は紗雪が何を言わんとしているのか悟ったのか、眉根を寄せて頷いた。

「うん……。ぼくは、無事だよ」

 と、笑みを浮かべた。ぽんと軽く肩を叩かれる。

「……ここには戻ってこないのかな?」

 省かれた主語に首を傾げる。

 だがすぐに意味を察し、紗雪は俯いた。少女はここには戻ってこない。

「うん……。二度と」

「そうか……」

 悠一は拳を顎にあて、固い表情で何かを考えている。

「ちょっと待ってて」

 踵を返し、悠一は一団へ戻る。何かを告げると、一団からざわりと声があがった。

 そしてすぐにこちらに戻ってくる。

「誰がってのは……」

 紗雪は首を振った。

「言えないか……」

 紗雪の首筋の傷に視線が落とされる。

 悠一の口振りからすると、少女の安否を彼らは知らなかったようだ。

 ならば何故こんな夜中に集まっているのだろうか。

 疑問が顔に出ていたのか、悠一は紗雪に向き直り、苦しげに眉を引き絞った。白い喉元がごくりと上下する。

「……兄が死んだようだ」

「え」

「確認は取れて無いけど、そう、知らせが入った。それで皆ここに集まってきている」

「嘘……」

 嘘じゃない、と悠一は首を振る。

「兄は最期まで立派だったそうだよ」

 語尾が震えた。

「……犯人の目星はだいたいついてる。まだ捕えてはいないけれど」

 犯人。

 つまりは、瑠璃の跡継ぎ様を殺した人間。

 如月の人間は支暁殿で暮らす。

 跡継ぎ様が死んだ(いや、殺された)となると、その支暁殿で殺されたという事だ。

 つまり犯人は、赤官の厳重な警備を潜り抜け侵入したか、それとも。

(立ち入りを、元から許されているか)

 まさか。

 浮かんだ顔を、首を振って消す。

(でも……やっぱり……そういう事なの?)

 悠一の住まう庵に侵入した影虎。

 悠一の『影』の少女を殺した紫呉。

(違うって、思いたいけど……)

 だが思えない。

 思い返せば、紫呉は破天の男を捕えなかった。悠々館の前で、初めて悠一と出会った、あの直後の時の事だ。

 私服での過度の武力行使は褒められたものではない、と紫呉は言っていたが、すぐ側に壱班がいるのだ。その壱班が追いつくまで、そう長く時間がかかるとは思えない。その短い時間ですら破天の拘束を避けたのは、彼を逃がす為ではなかったのか。

(でも)

 先日、里炎組が起こした事件の折、彼は傷を負っていた。包帯の巻かれた痛々しい姿はまだ記憶に新しい。

(やっぱり、自作自演って事……?)

 背に傷を負ったと、紫呉は言っていた。

 そうだ。思い出せ。

 背に傷が有るのならば、何故あの時平気な顔をしていた?

 紗雪が雪斗の家を訪れた時の事だ。

 紫呉がやって来た。雪斗と戯れていた。そして背を踏まれていた。

 だが平気な顔をしていたではないか。

 それに、あの時雪斗は何を言おうとしていた? 

 紫呉が来ていなかったら、何を言おうとしていたのだ。


『お前、あんましあいつらと仲良くしねえ方が良いんじゃねえの?』

 何故雪斗はそんな事を言った?

『だってあいつら……』


 その先を邪魔するように、紫呉は現れた。

 それに悠々館の息子は、何と言っていた?

 離れろ、と言っていた。

(……破天、だから…………?)

 ぐらりと、体が傾ぐ。肩を掴まれて支えられた。

 ふいにざわめきが聞こえた。悠一が首を傾げる。

「…………いち、逃げろ! 見つかった!」

 ざわめきが膨れ上がる。

「早く逃げ」

 語尾は悲鳴に消えた。


「あなたが悠一殿ですね」


 聞き馴染んだ声に紗雪は息を呑んだ。




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