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零-11 血の雨



 指を組んで、思い切り伸び上がる。ぱっと指を離して息を吐くと、肩から力が抜けていくのが分かった。

 紗雪はごろりと体を横たえた。途端に眠気が襲ってくる。手の甲を瞼に重ね、そっと目を閉じた。

(何だか気が抜けちゃうわね)

 先日、家に着くと同時に女中から文を渡された。私塾の教師からだと言う。

 文には、体調不良の為に二日ほど私塾を休みにする、という旨と陳謝の言葉が綴られていた。

 まあ教師とて人間だ、病気にもなるだろう。彼を責めても仕方が無い。

 これがもし、月単位での事だったりしたら困るが。二日だったら、この先に大きな支障をきたす事も無いだろう。

 だが、生活の律動が乱れてしまうのは困る。いつも私塾に出かけている時間帯に、こうして家にいるのは何だか変な感じだ。

 私塾の時間に合わせて勉強しようと試みたが、それも最初の数時間で崩れてしまった。どうにも、集中が持たない。最初に休憩を取って以降、文机に教本を広げてはいるものの、内容が頭に入ってこず、だらだらと無為な時間を過ごすばかりとなっている。教えてくれる場が有る、というのは中々に有難い事なのだと改めて実感した。

 紗雪は深呼吸を何度か繰り返し、寝返りをうった。

 どうせ頭に入ってこず無意味なのだったら、いっそどこかに遊びにいってしまいたいが、それはそれで何だか不安だ。

 母の目もある事だし。とりあえずは、いつもの私塾が終わる時間帯までは、だらだらなりも勉強しよう、と思う。

(……終わったら悠一に会いに行こうかしら)

 だが昨日会ったというのに今日もまた、というのはおこがましい気もする。

 しかし会いたい。

(どうしよう……)

 そうだ。とりあえずは悠々館に行ってみよう。

 それで、いなかったらいなかったで諦めよう。いたらいたで万々歳だ。

(うん、それが良いわ)

 流石に庵まで行くのは気が引ける。偶然出会う、という方向でいこう。

(でもとりあえず、もうちょっと休憩してから……)

 睡魔が思い切り瞼を攻撃してくる。

 大きな欠伸をして、紗雪は睡魔にされるがまま身を委ねた。






 見世物を取り巻く塊が、時折わっと歓声を上げる。

 あちこちで拍手や、文句を言う声やらが聞こえた。

 本日はあいにくの曇天だ。

 厚い雲に覆われて青空は見えない。重たい灰色が空を埋めていた。

 だが曇天にも関わらず、華芸町はいつもの様に人々がごった返している。晴天の時に比べれば、やはり幾分かは少ないのだろうが、それでも充分に多い。

(雨が降りそうね……)

 群衆の中、空を見上げ、紗雪は一人ごちた。

 自分が属している一群もまた、周りに違わずにわっと歓声が起きた。紗雪は視線を空から傀儡師へと戻した。

 あの後、目を覚ましてから紗雪は悠々館へと足を運んでみた。

 しかし、悠一の姿は見あたらなかった。

 先日、込み入った話がある、と悠一は言っていた。それが長引いているのだろうか。

 そうではないとしても、まあ、毎日菓子を買いに来る事もないだろう。いなくても仕方がない。

 だがしかし、もしかしたら、という思いが有っただけに残念だ。

 紗雪と同じように、悠一もまた、今日も会いたいと思ってくれているのではないか、という期待をしていただけに。

 だが、せっかく気合を入れてお洒落をして外出したのだ。すぐに家に帰ってしまうのは勿体なく思われた。

 紗雪は少し足を伸ばして、華芸町まで行ってみる事にした。

 雪斗の家まで行って見たが、家はもぬけの殻だった。

 兄とてそう暇ではないのだ。仕方がない、と諦めて家に帰ろうとした。

 と、紗雪はある見世の前で足を止めた。

 様々な芸を香具師達が披露しているが、そこの茣蓙の周辺には、辺りに比べて倍近くの人々が集まっていた。

 何だろうと、人ごみの隙間から顔を出す。

 傀儡師だった。

 広げた茣蓙の上で芸を披露している。その後ろには、傘持をしている黒子がいた。

 聞き覚えのある声だ。その傀儡師と傘持が何者かを知り、紗雪は芸を見ていく事に決めた。

 足を止めてどれくらいが経っただろうか、時間など気にならぬ程に、その傀儡子の芸は達者だった。 

 美しい娘の人形を扱う傀儡子だった。

 唄に合わせて、娘を見事操ってみせる。黒子衣装のおかげで姿は分からないが、声は張りの有る、艶めいた女声だ。

 若くも聞こえるし、年嵩にも聞こえる。鋼鉄のような硬さ、柳のようなしなやかさ、鉄錆のような粗さ、硝子のような透明さ、その全てを合わせ持った声だった。

 操る娘人形は五つの子供ほどの大きさだ。

 結い上げた黒髪には花の簪。白い顔には幼いながらも甘い化粧。

 声に合わせてくるくると舞うたびに、紅に桜の文様の衣装がさらりと揺れる。

 その様子に観客はほぅと息を吐いた。

 紗雪もまた、魅せられた。人形とは思わせぬ、しなやかな動きだ。

 娘人形から伸びる何本もの透明の糸、それを傀儡子は十本の手指、時には口を使って舞わせて見せる。

 彼女は、雪斗が師と仰ぐ女性である。

 彼女の芸に魅せられて、雪斗は傀儡師の道を選んだのだ。

 冷たい風が吹く。

 湿気を多く含んだ風だ。紗雪は風に煽られた髪を押さえ、傘持を見やった。

 片膝をつき、巨大な番傘を肩に担ぐようにして、傘持は体全体で傘を支えている。風にも微動だにせず、彼は師の傀儡舞にじっと目を凝らしている。

 あの傘の重さを紗雪は知っている。以前家に行った時に触らしてもらった。

 そして、ずっとあの姿勢を保つ事のつらさも知っている。雪斗の膝は、自重と傘の重みで青黒く鬱血していた。

 雪斗は、官吏を目指す紗雪の事をすごいと言ってくれた。

 だが、紗雪からすればこうして、傀儡師を目指している雪斗の方がすごいと思う。

 十年ほど前の事だろうか、雪斗と二人、遊びに出かけた時の事だ。

 その時に、二人は初めて傀儡師の芸を観た。

 家に帰ってから、さっそくに真似事をした。そこらの人形に裁縫糸を巻きつけ操り、不器用な手で衣装を作った。

 楽しかった。毎日のように遊んだ。大きくなったらオレもあんな風になるんだ、私もよ、顔を寄せ合って笑いあった。

 それから、雪斗は公文所をサボりがちになった。公文所をサボって、華芸町まで足を運んでいた。一緒に行こうと誘われたが、両親に叱られるのが怖くて、紗雪は誘いを断った。

 そしてだんだん、父と雪斗は険悪になっていった。

 子供のする事だから、と苦笑していた父だったが、雪斗が全く公文所に顔を出さなくなった頃から、監視の目が鋭くなった。

 抜け出し、捕らえられ、の毎日だった。

 家には常に怒鳴り声がいつも溢れていた。母は泣いていた。兄は、我関せずだった。

 雪斗は一度脱出に成功すると、家に帰ってこなくなった。父はもう諦めているようだった。

 紗雪は拙い傀儡やら衣装やらを、箪笥の奥深くに仕舞いこんだ。

 そうして紗雪が十一の冬、ふらりと雪斗は戻ってきた。

 そして開口一番に、傀儡師になる、と父に告げた。

 何を馬鹿な事を、本気で言っているのか。物陰から見つめていた紗雪は、父の怒鳴り声に体を竦めた。

 そして響いた、バシンという高い音。

 雪斗の赤く腫れた頬。

 歯を食いしばった父の表情。

 睨みあう赤い双眸。

 足音も荒く、雪斗は家を飛び出していった。紗雪がいた事は気付いていないようだった。

 他にも色々、父は怒っていた気はする。だがしかし、よく覚えていない。

 ただひたすらに怖かった。怒鳴り声も、赤く腫れた頬も、何もかもが。

 母は泣いていた。兄は我関せずだった。

 紗雪は箪笥の奥の傀儡と衣装を、遠くまで捨てに行った。

 もう、六年も前の事になる。

 ゆるりと、唄が遅くなる。舞が終わろうとしているのだ。

 娘ははたりと倒れ臥した。婚約者に裏切られ、それでもなお男を愛し続けた女の情念の姿だ。

 静寂。

 一拍置いて、歓声が溢れた。紗雪もまた、惜しみない拍手を送った。

 傀儡が礼をする。また拍手が大きくなった。

 傘持は傘を逆向きにして、飛んでくる硬貨を受け止めていた。

 紗雪も懐から財布を取り出し、硬貨を投げつける。傘目がけてではなく、頭を狙って。

 命中した事を見届けて、紗雪は踵を返した。声をかけようかとも思ったが、やめた。

(何が……すごいよ)

 あんたの方が、よっぽどすごいわよ。

 自分だって、傀儡師に憧れていた。あんな風に、誰かを喜ばせたかった。誰かの心を動かせるようになりたかった。

 でも無理だった。

 だって、父は怒っていた。母は泣いていた。

 兄は大学に受かった。両親は喜んでいた。

 期待している、と両肩を叩かれた。

(……ううん)

 言い分けだ。

 自分とて、本当になりたいのなら雪斗のように、家を出て行けば良かったのだ。

 でもそれをしなかった。そこまでの覚悟は無かった。

 だって、知っている。

 香具師が世間からどのように見られているのか。どれほど貧しい暮らしをせねばならないのか。

 今のこの裕福な暮らしを、捨てる勇気なんて無かった。両親に見捨てられるのが怖かった。

 雪斗を羨ましく思った。それと同じぐらい、憎く思った。

 雪斗が出て行ってからの、紗雪に対する両親の期待が、痛くて重くて苦しかった。雪斗に対する尊敬と羨望と嫉妬で潰されそうだった。

 でもやはり、両親が好きだった。

 でもやはり、何かを作りたかった。

 夜遅くに帰ってきた父に、自分の手料理を褒められると嬉しかった。

 母の裁縫の手伝いをして、喜んでもらえると嬉しかった。

 兄の夜食を差し入れて、礼を言われると嬉しかった。


 そして、蝶灯を見た。


 雨が降り出した。

 ぽつりと頬を伝って流れていく。紗雪は足早に家路を急いだ。

 雨足が強まる。

 家まで帰れそうもない。このまま急いだとしても、家につく頃には濡鼠さながらだろう。

 仕方なく、近場の茶屋の軒先に避難した。紗雪と同じく、雨に降られた人たちがぶつぶつと非難を零している。

 茶屋の女主人は、突然の雨に増えた客に大忙しだ。軒先の避難民を、無理やりにでも客に変えてしまおうと威勢よく引き込みをしている。

「ほら、お嬢ちゃんも雨が止むまでゆっくりしておいき!」

「いや、でも、夕立みたいだし多分すぐやむと思うので……。すみません」

 しつこく食い下がられると思ったが、女主人はそうかい、と素っ気なく、次の客勧誘に忙しい。

 濡れた服を、巾で拭く。

 雪斗たちは濡れずに済んだだろうかと思った。

 空は暗い。雨足は強まる一方だ。

 そんな雨の中も、壱班は見回りをしているようだ。傘も差さずに歩いている。路地の向こうへと消えていった。

 ご苦労なこったなぁ、と誰かが囁いた。

「なあ、おい……あれ、見ろよ……」

 店内のざわめきに、紗雪は首を傾げた。

 ざわりざわりと、人々の不安の声が広まっていく。

「遊民よ! 聞け!」

 斜向かいの両替屋の前で、男が叫んでいる。

 腕の中に幼い少女がいた。

「金は悪である! その金を多く有する者もまた悪である! 金を生み出す如月もまた悪である!」

 羽交い絞めにされた少女が泣き叫んでいる。

 その側には膝をついた女性がいた。母親だろうか、雨に濡れるのも厭わずに、懇願を繰り返していた。

「誰もその場を動いてはならない! 動くとこの幼女の命は保証しない!」

 破天の過激派だ。

「何だか……最近多いな……」

 隣に立っていた青年がぽつりと漏らした。

 少女の泣き声が一層高くなる。

 何もできない自分に、紗雪は歯噛みした。

 助けられるものなら、助けてあげたい。しかし、自分には何もできない。

 せめて壱班を呼びに行こうと軒先をこっそりと抜けた、丁度その時だ。

「如月は悪である如月は悪である如月は悪である如月は悪である! よって、我はその如月の所有する金を、それを有する遊民と共に我もろとも消し去るのである!」

 男の手に何か握られている。

 爆弾だ、誰かがそう叫んだ。

 悲鳴が溢れる。

 その場にいた誰もが走り出した。

 紗雪もまた、走ろうとした。

 だが、目が合ってしまった。男の腕の中の少女の、涙で濡れた目と。

 助けて、と少女は叫んでいた。

 紗雪はその場に縫いとめられた。

 男が高々と腕を掲げる。

 雨など物ともせずに、爆薬は火花を散らす。

 両替屋の二階に、人影が見えた。

「愚かだな」

 軽い身のこなしで、その人影は二階から飛び降りた。

 一閃。

 男が叫ぶ。

 血の雨が降る。

 爆弾を手にしていた男の腕は、べちゃりと音を立てて、濡れた地面に落下した。

 彼は導火線を斬り、蹲る男の背を踏みつけた。

「そんなに金が嫌いなら、真っ裸で暮らしてみてはどうですか? その服もまた金で買ったものでしょうに」

 紫呉だ。右手に血刀をぶら下げている。壱班の濃灰色の制服は雨に濡れ、黒く色を変えていた。

 あたりはまだ騒然としていた。皆、背を向けて走り出していた為、破天が捕まった事を知らずにいる。

 少年が転んだ。だが人々は止まらない。このままでは蹴られてしまう。危ない。

「鎮まれ! 確保した!」

 紫呉の声に、しん、と静寂が落ちた。

 男の呻き声だけが辺りに響く。

 声を発した本人は、ばつが悪そうに咳払いをしていた。

 壱班が駆け寄る。男の腕から逃れた少女は、今は母親の腕の中にいた。

 紫呉はもすもすと頭を叩きながら、辺りを見回している。そして、屋根に制帽が残されているのを発見し、息を吐いた。

 手にしていた打刀は、もう既に水晶の数珠へと姿を変えている。紫呉は頬に飛んだ血を手の甲で拭いながら、二階へ向かう為に店に入っていった。

 白茶けた地面に、男の血が滲んでいる。

 男は壱班に緊縛され、転がっていた。

 そのすぐ側に、手が転がっている。

 まるで雨粒を受けるように、天を向いていた。

 手は奇妙な程に白い。ぴくりと時折、指先が動く。

 男の、背に回された片腕の、手首から先は無い。

 血が溢れている。

 白い何かが見えた。


 骨だ。


 眩暈がした。



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