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4、滅光の聖女、語られるまだ幼き日々(シリアス注意)


 酷く傲慢で、身勝手な女だった。

 明晰な頭脳と飛びぬけた美貌を鼻に掛け、極めて底意地が悪く、性格の捻じ曲がった嫌な女だった。

 しかしその高慢さは、誰よりも高い矜持は、確かに私の光だった。




「ちょっとアンタ、これやっておきなさい」


 初めて声を掛けられた時の事は、今でも鮮明に思い出せる。

 底冷えのする、寒さの厳しい冬の朝だった。

 清掃奉仕は、私たちのような修道女見習いに日常的に課せられた務めの一つであり、そして最も嫌がられている務めでもあった。


 私に押し付けられたのは、水桶と折りたたまれた一枚布だった。

 教会の礼拝堂の水拭きは、必ずやらなければならないと定められた作業の一つにあたる。

 しかし指先のかじかむ寒さの中、冷たい水に手を浸さなければならない仕事は、本当に辛いものだった。


 私にそう言ってきたのは、私たちの指導をする年嵩の修道女ではなく、私よりほんの一つや二つしか年の違わない同じ修道女見習いの少女だった。

 彼女は、指導を授ける修道女たちからの評判が随分と悪かった。

 口達者で、反抗的で、高飛車。

 そんな理由で、彼女は他の修道女見習いよりもいつも厳しい扱いを受けていた。

 もっとも教育的指導という名目以外に、そこには僅かな女の嫉妬が存在していることを、子供ながら私は気付いていた。

 幼くして光り輝くような彼女の美貌は、この田舎の教会においてそこまで異質だった。


 彼女はごく当然と言った顔で、私に水桶を押し付けてくる。

 恐らく、彼女のことを気に食わない修道女から直々に仕事を与えられたのだろう。

 水仕事をやりたくなかった彼女は、それを大人しく文句の言えなさそうな私にそのままやらせようとしているらしい。


 私は不貞腐れたような彼女の顔と、そして水桶を交互に見た。そして、彼女の手から水桶を受け取った。


「礼拝堂の水拭きをやればいいのね」


 嫌な顔一つするでもなく、辛い仕事を引き受けた私に彼女は一瞬驚いたような表情を浮かべる。けれどすぐにツンとすました顔をして、礼拝堂から出て行った。


「ちゃんとやっておくのよ」


 私は彼女が艶やかな長い髪を揺らしながら扉を潜り、光の中に出ていくのをずっと眺めていた。そして、おもむろに任された仕事に手をつける。


 大人ばかりでなく、子供同士でもどこか遠巻きにされることの多い彼女だったけれど、私は彼女が嫌いではなかった。いや、むしろ私は彼女に憧れていた。

 我が儘で、自分勝手。

 だけど、自分がこうと思ったことに対しては、大人相手であっても一歩も譲らず、言い負かすことさえある。

 例え、後から折檻を受けると分かっていても、自らを貫き通そうとする姿勢に、意気地なしの私はこっそりと勇気を貰っていた。

 そんな彼女の助けになれるなら、水仕事を代わるくらい、なんてことなかった。


 桶の水は本当に冷たかった。

 布を浸して、絞る。その動作を繰り返すだけで、指先は赤く腫れ、痛痒くなってくる。そのうちぱっくりと皮膚が割れ、あかぎれになるだろう。

 私は指先に、はぁっと息を吹きかけ暖を取ろうとする。しかし痺れたような指先は、もはや温もりどころか吐息すら感じ取れなかった。


 半分ほど作業が終わった頃だろうか。

 ふいに、礼拝堂の扉が開いた。


「なぁに、まだやってたの。あんた鈍間のろまね」


 彼女がこちらを見て、眉をひそめた。私は恥ずかしさと居た堪れなさで顔を伏せる。

 私は元より、俊敏でもなければ、手際が良い方でもない。

 だけど彼女の期待に応えられなかったことは、なによりも胸に応えた。


「その水桶、ちょっとこっちに持ってきなさい」


 彼女はそう言って、再び扉の外に身を翻す。

 私は慌てて、桶を手に持って彼女を追いかけた。水の入った桶は私の足を、いつも以上に遅くする。それでも、今度こそ彼女に失望されないよう必死になって桶を運んだ。

 扉までたどり着くと、ちょうど向こうから彼女が戻ってきた所だった。

 彼女は床に置いた桶の中に、何かを放り入れる。チュンと、不思議な音がして桶の中に石が転がった。


「もう少し待ってなさい」


 彼女は掃き集めた落ち葉を燃しているたき火から、炭ばさみで焼けた石を持ってきては桶に投げ入れる。

 何往復かした後、桶の水は湯気を立てるほどになっていた。


「いつも思うんだけど、このくそ寒い時期にわざわざ冷たい水で仕事をするくらい、非効率的なことってないわよね」


 冬場の水仕事は辛い。それは皆が思っていたことだ。

 だけどそれは当たり前のことで、水が冷たければ温めればいいなんて、そんな単純なことさえ誰も思いついたりはしなかった。


「あ、ありがとう」


 私は彼女を尊敬のまなざしで見上げ、お礼を言う。これでもう、指先は痛まない。

 しかし彼女は、妙なことを聞いたと言わんばかりの表情を浮かべ、言った。


「……あんた、変な奴ね」


 その言い方がおかしくて、私は思わず笑みを零す。


 それから、冬の奉仕清掃の水仕事は、水を温めて行うことが通例となった。




 ● ● ● ● ● ●




 冬に焼けた石で水を温めるのは、彼女の生まれた寒い土地ではごく当たり前の手法だったらしい。


 この修道院には、各地から孤児や親に手放された子どもたちが集まっていた。

 私は不作続きの貧しい農村の生まれで、ついに子供を育てられなくなった両親に、このまま飢え死にさせるよりかはと些少の寄付金とともに教会に預けられた。

 口減らしに殺されたり、人買いに売られたりする子供が少なくないこのご時世で、それらの選択を選ばなかった私の両親はきっと心の優しい人たちだったのだろう。

 夜盗に親を殺されてしまった商人の子、魔物の襲来で村自体が滅んでしまった職人の子。そこには本当に色んな立場の子がいた。

 けれど彼女の素性については、誰一人として知る者はいなかった。


 その不遜で凛としたたたずまいに、やんごとない家柄の子ではないかと噂する者もいた。しかし彼女は何も答えず、誰とも馴れ合わず、自分を貫き続けていた。

 だからそんな彼女が自分だけに、教会に来る前の事を話してくれたのが、私は何より誇らしかった。





「あの、これ……良かったらだけど……」


 私が差し出したのは、月にたった一度だけ配られるご褒美の砂糖菓子だった。

 彼女は訝しげな眼差しで、私を見る。

 孤児院の代わりも担っている教会は、上層部の支援を得てもなお貧しくて、月に一度の砂糖菓子は誰もが心待ちにする楽しみだった。


「で? その代わり、何をさせようって言うの?」


 彼女の問い質すようなきつい声音に、私は慌てて首を振る。


「ち、違うわ! 私はただ、その、受け取って欲しくて……」


 それだけで他意はないのだと必死に訴え続けた結果、彼女は相変わらず怪訝そうな顔をしてはいたけれど、それでもお菓子を手に取ってくれた。


 そんな他愛もないやり取りを幾度か繰り返し、私は彼女のそばにいることを許されるようになった。いや、許されたのだと思いたかった。

 彼女にまとわりつく私を、周囲の子供たちも修道女たちも不思議に思っていたようだった。

 中には脅されて無理やり従わされていることを心配してくれた修道女もいたけれど、私が自ら彼女に付き従っているのだと知ると、呆れたように理解できないと首を振った。

 

 おべっかを使い、たまに支給される贅沢品を貢ぎ、仕事を替わりに請け負う。

 好き好んで彼女に尽くす私を、腰ぎんちゃくや召使だと嘲る子供もいた。

 その評価はある意味では正しかったかも知れないけれど、事実ではなかった。


 私は、彼女の信奉者だった。


 美しく、賢く、気高い彼女。

 私は彼女という存在を神聖視し、心酔していた。

 彼女に尽くすことで、彼女の目に少しでも自分が映るようにしたかった。

 私は彼女の側にいられるだけで、幸せだったのだ。




 彼女は初めは、私を気にも留めなかった。

 しかし徐々に、私が差し出すものを当然のように受け取るようになっていった。私もまた、当然のように彼女に尽くした。

 しかし彼女は、その美しさと同じくらい残酷でもあった。


 当初は他の子供たちから遠巻きにされていた彼女だったけれど、私に感化されたのか、あるいは自然と彼女の素晴らしさに気付くようになったのか、少しずつ取り巻きは増えていった。

 やがて、彼女の知識や閃きが嫌な大人をやり込めたり、日々の暮らしを楽にしてくれたことで、彼女は一気に人々の中心となった。

 彼女は女王のように、まわりを従えていった。


 その一方で彼女は、初めの頃より側にいた私を、まるで玩具のように扱うようにもなっていった。

 あからさまに無視をしたり、持ち物を隠して影で笑ってみせたり、奴隷のようにこき使ってみたり。

 彼女は私を大勢の前で貶めたのだ。


 けれど、その反面。彼女は私に優しくもした。

 誰もいないところでは、微笑みかけ、頭を撫で、私の差し出したものを礼を言って嬉しそうに受け取った。

 それまでどれだけ酷いを受けていても、それだけで私は天にも昇るような気になれた。

 むしろ、そうした特別扱いを受け、私はますます彼女に傾倒した。

 二人だけの時、まるで独り言のように漏らす彼女の幼少時の話だって、たぶん私だけしか知らないことだっただろう。



 誰よりも美しく、賢く、残酷な彼女。

 そんな彼女に心酔していた時が、恐らく私の最も幸せな時代だったに違いない。






 ● ● ● ● ● ●





 十前後で男の子は皆別の場所に移され、女の子はそのまま修道女見習いとしての仕事を始める。

 長じて修道女になる者がほとんどだったけれど、中には奉公に出て余所に働き場所を見つける者、子供の欲しい養い親に貰われて行く幸運な者もいない訳ではなかった。


 ある日、私は世話役の修道女に呼び出され、一人の男性と引合された。

 その人は、少し前から熱心にこの教会に寄付をしてくれていた貴族で、私をぜひ引き取りたいというのだった。


 私は驚いた。

 まさか、そんな幸運が自分に降りかかるなんて思っても見なかったからだ。


 ここでの生活は、決して楽ではない。

 規律は厳しく、食事は質素。日々の奉仕活動はきつくて、自由も楽しみもほとんどない。

 そんな場所から逃れられるかもしれないなんて、願ってもないことだった。


 男性貴族の、いくつも指輪を嵌めた芋虫のような指は好きになれそうにはなかったけれど、その手で頭を撫でて優しく笑ってくれたし、何よりここから出られるのだと思えば気にする程の事ではなかった。


 私は喜んでそれに了承し、部屋を出た。そして、その直後私は気付いたのだ。

 自分が、あれだけ心酔していた彼女のことを、すっかり忘れていたということに。




「ふうん、それは良かったわね」


 私が貴族に引き取られこの修道院を出ると告げた時の彼女の反応は、実に淡白なものだった。

 てっきり喜んでもらえるものだと思っていた私は、少しだけ落胆した。

 けれど、彼女の態度はその後も素っ気ないままだった。

 これまでみたいに、わざと無視したり辛く当たったりはしない。けれど優しく振る舞ってくれることもなくなった。

 私は、彼女の『特別』ではなくなってしまったのだ。


 私はそれに慌てた。何か悪いことをしたのかと、悩みもした。

 しかし、すぐに私は気付いてしまった。

 彼女はこの修道院を出る私に、『嫉妬』しているのだと。

 それに思い至った時に、私の中に湧き上がった感情をなんと言えばいいのだろう。


 彼女に対する憐みでも、落胆でもない。

 私の中にあったのは、酷く薄汚い優越感だった。


 貴族に選ばれ、この修道院から出ていくのは、美しく賢い彼女ではなく自分である。

 その事実が、何よりも私を高揚させた。

 彼女に対する憧れや、尊敬はまだ残っていたけれど、だからこそ甘美なそれに酔いしれた。

 私は彼女の冷ややかな眼差しを、まるで暖かな春の日差しのように、気持ちよく浴びていた。





 すべてが崩れさったのは、私がここを去る日のことだ。

 最後の清掃奉仕を行っている私に、彼女の取り巻きの一人が伝言を持ってきた。

 それは、彼女からの呼び出しだった。

 最後に話がしたいという彼女の申し出に、私は嬉々として従った。私は、彼女が私に何を言うのかとても楽しみだった。

 暖かなはなむけの言葉を贈ってくれるのか。それとも嫉妬に満ちた恨み言を言うのか。

 私はどちらでも良かった。いや、恐らく期待していたのは後者だ。

 あの気高く美しい彼女が、私にどんな醜態を見せてくれるのかと思うとゾクゾクした。


 しかし、結果はどちらでもなかった。


 彼女に呼び出された、礼拝堂横の清掃用具倉庫。朝の奉仕時間以外は誰も近寄らないそこに足を運び、入り口から薄暗いそこを覗き込んだ私は、背後から突き飛ばされ屋内に転がり込んだ。

 身を起こすよりも先に閉じられる扉に、私は焦り叫ぶ。


「何するの! やめてよ!」


 慌てて扉に縋り付く。開けようと力を込めても、それは頑として開く気配を見せなかった。


「出して! お願いだから!」


 私は扉を叩いて彼女に呼びかける。しかし、戸板の向こう側にはすでに人の気配はない。


「出してっ、出してよ! いやあああぁぁぁっ!!」


 私は、気が狂ったように悲鳴を上げ続けた。





 その夜、私を修道女の一人が見つけた時にはすべてが終わっていた。

 私の代わりに彼女が、件の貴族の男性に引き取られていったのだ。

 実は私よりも先に彼女が打診を受けており、一度断っていたと言う経緯があった為、話は速やかに進んで行ったらしい。

 私は土壇場で引き取られる事を嫌がり、逃げ出したと言う事になっていた。

 いつの間にか倉庫の鍵は空いており、さらには予め置いておかれた毛布や食料、水があったため、それを否定できる要素はどこにもなかった。


 策略に嵌められ、得られかけた幸運を奪われた私は、静かに怒り、そして狂った。

 彼女に復讐する。

 私の脳裏にあったのは、もはやそれだけだった。

 しかし復讐を企んでも、彼女はすでに手の届かない所にいる。

 そのため私が選んだ道は、彼女を歯牙にもかけないほど、より優れた素晴らしい存在になるというものだった。

 貴族に求められるような幸運は、もはや望めない。なので私は自身の力だけで彼女を凌駕するべく、己を鍛える事に腐心した。


 どことなく苦手だった修道女たちに教えを請い、足りなければ本や神父様からも熱心に知識や技術を得る。

 イジケタように暗く卑屈だった性格は変えられなくても、周囲には朗らかで明快と思われるよう言動に気を付けた。

 損得関係なしに人を助け、優しく慈愛を持って振るまい、賛美を集めた。

 美しい立ち振る舞いは、記憶の中にある彼女を真似た。


 そうして私はいつしか、かつての彼女と同じ立ち位置にいるようになった。



 成長した私は、教会に訪れる人々に聖女のように素晴らしい修道女だと褒め讃えられ、尊敬されるようになった。しかし私は決して増長する事なく、謙虚に過ごした。

 記憶の中の彼女は、一点の瑕疵もない存在であり、それに打ち勝つには並大抵の努力では足りなかったのだ。


 ある日、私の長年の努力は一つの成果を結んだ。私は所属する教会の、上層機関に推挙されたのである。

 一教会からの、しかも修道女からの推挙はこれまで例がなく、天晴な快挙だと周囲は口々に褒めそやした。

 私もまた、これでようやく彼女を超える事ができたのだと、己を凝り固めていた感情から自由になれたことに安堵した。





 しかし、迎えられたその場所で、私は再び、彼女に出会う事になるのだった。





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