イチタスイチハ?
「喉かだなぁ」
洸祈はすることなしに自らの髪を弄った。
初秋。暑くもなく寒くもない時期。黒のジーンズに薄手の灰色長袖Tシャツで間に合うから楽だ。
「喉かだなぁ」
何回目だっけ?と…脳内で考える気がさらさらない言葉を反芻した。
「それ、3回目だ」
そんな洸祈の代わりに答えたのは煉葉家当主のご子息様、煉葉璃央。但し、彼は家とは縁を切っているので玉の輿は狙えない。
「璃央には関係ないじゃん」
「私の話を聞けって!」
黒革のシンプルなソファーに腰を降ろした璃央は目の前の揺り椅子にだらしなく座る洸祈に身を乗り出した。
「聞いてるよ」
「じゃあ私は何て言った?」
勝ち負けではないのに璃央は少々勝ち誇った顔をした。
餓鬼か。洸祈は璃央のその一面に呆れる。聞いて欲しいのか、聞いて欲しくないのか矛盾しているから困る。
「『洸祈、家に顔だせ。皆寂しがってたぞ。特に紫紋が。口には出さないが一日中どこかぼーとしているらしい。何で家に帰らないんだ?退学に関して皆は了承済みなんだから気にすることないだろ。それ、3回目だ。私の話を聞けって。じゃあ私は何て言った?』だろ?あ、璃央がここに入ってきたところから始めようか?」
「聞いてたんなら…」
「璃央こそ聞いてた?」
何を?と口を半開きにする。
「今は帰りたくないから」
「!そんなの…」
「そんなの理由にならないはなしだ。…璃央には、自分が納得出来るようなそれらしい理由を無理矢理俺から言わせる権利はない」
「っ!!」
璃央は言葉に詰まって押し黙った。洸祈はそんな璃央を横目に立ち上がり、簡易台所に向かった。
「コーヒーはブラック?ミルク入れる?砂糖は?」
「…………」
璃央は俯き、洸祈の声は届いていないようだった。
台所から首を伸ばして酷く冷たい目で璃央を見据えると洸祈は盆を取り出してコーヒーを2つ淹れて、ミルク、砂糖の容器を乗せた。
「洸祈、私にはお前が分からない」
コト
洸祈は無言でカップを璃央の前に置き、小さく息を吐くとゆっくりと揺り椅子に座った。包み込んだカップから上がる湯気に視線を落とす。
「璃央は俺じゃない。俺が璃央じゃないのと同じ」
「そうじゃなくて」
璃央は顔を上げない。洸祈から叛けているのだ。
「………お前は決まった形がないというか…虚ろなんだ。慎が臥せってから……空虚になった気がする」
「そう…この話はお仕舞いにしようか」
喋らないで。洸祈は訴える。しかし、璃央は洸祈の思いに反して続ける。
「あの事をお前は今も気にしているんだろ?だから…」
「それ以上は喋るなよ」
洸祈はカップを置いた。
それに気付かずに璃央は苦しそうに顔を歪ませて言葉を紡ぎ、吐き出す。
「あの時、お前が…」
あぁ、この人は…
引いた境界線を越えようとする
イタイ……
イタイ………
イタイ………………。
「――」
「何だ?」
重く重く沈み、暗く暗く闇の底へ
ツライ……
ツライ………
ツライ………………。
…―ヤメロ―…
「帰れ!!!!!!!!」
洸祈は叫んだ。
「こう、き…っ」
璃央は自らのしたことを察して縮こまる。それでもと手を伸ばしかけた。
パンッ
その手を洸祈は容赦なく払った。
「璃央、帰れ」
静かに生み出される言葉。しかし、芯ははっきりとしていた。
抗えない絶対的強迫。璃央はしくじったのではない、間違えたのだ。
……カタカタ……
テーブルの上のコーヒーカップが震える。カップだけではない。軽い小物もだ。全てが震えている。
璃央は目を細めた。
洸祈の抑えきれない魔力が空間に干渉しているのだ。
これ以上の干渉は空間も洸祈自身をも壊す。
「すまない」
璃央は立ち上がると脇目も振らずに足早に廊下を抜け、店を出た。
ドンッ
「うわっわあぁ!?」
「す、すいません」
勢い良く飛び出したせいで扉のすぐ外にいた人にぶつかった。
枯草色の髪が弧を描いて小柄な―みための―少年は尻餅をついた。モスグリーンのハーフパンツから覗く足首は細く、痛みに堪えながら見上げる瞳は綺麗だった。
掛けていたらしい眼鏡が小さな音を発てて道路に転がる。
「大丈夫かい?少年」
「少年!?俺は男の子やない。男の人や!」
私は悪いと思って咄嗟に手を差し伸べが、心外だといった表情をして手を払われる。男の人は感情を露にして睨み付けてきた。
今日二度目になるその行動をとられて私は苦笑する。
「すいません。あなた、大丈夫ですか?」
本当に申し訳ないと思って謝るとうって変わって優しい表情になった。
「そっちこそ大丈夫か?崇弥の怒鳴り声が聞こえてたで」
大阪弁の男の人はどうやら洸祈の知り合いのようだ。眼鏡の無事を確認しながら訊く。
「少々、いや、かなり怒らせたようで」
「ほぉ~」
眼鏡を掛けた彼は、よしと立ち上がると徐に用心屋のドアに手をかけた。
「何を!?」
中には怒った洸祈がいる。
「決まってるやろ。年上に対する尊敬ってのを教えてくるんや」
火に油を注ぎに行くようなものだ。今にも入ろうとする彼の手をむんずと掴み引き戻した。
「私が悪いんです。だから今洸祈のところに行くのは…」
「崇弥の知り合いなんか。至って普通の君に非があるなんて。いつもは崇弥に非があるんやけどな。一体何したん?」
洸祈も凄い言われようだ。この人も何かされたのだろう。
でも…嫌ってはいない。言葉の端々からそう取れる。
「それは…」
「まぁええわ。何か飲んでくか?崇弥に怒鳴られた後じゃ気分優れんやろ」
優れないわけではないが、あそこまで強く言われて正直辛い。
そこで私は近くという彼の家に上がらせていただくことにした。
「近く言うか向かいなんやけどな」
「俺は司野由宇麻や。宜しくな」
「私は煉葉璃央です」
出されたのはワイン。
車なん?と訊かれた理由はこういうことだったらしい。
「まぁ、飲みや」
彼はじゃんじゃんとワインを勧めてくる。熱心な視線に負けて飲み終えると、テーブルに置いたその瞬間からグラスに注いでくる。
「近所の湯田ばあちゃんに沢山頂いたんやけど、崇弥達は未成年者やからな」
「はぁ」
「ほら、飲んだ」
そう言われてもだ。私にも限度がある。第一、そう言う司野さんはジョッキに麦酒を並々と注いでいるではないか。
「あ、これ?俺、ワイン嫌いなんや。香りを楽しむなんてやってやれんから」
「じゃあ、私にそう勧めないで下さい。ゆっくり味わえません」
「先輩からの勧めを断るんかいな」
司野さんは飲み干していない私のグラスにぎりぎりまで注ぎ足した。
「先輩?失礼ですが、司野さんはおいくつなんですか?」
「三十路過ぎ」
流石に驚いた。この体格と容姿で30過ぎとは。
「君より年上や。少年やないんやで、璃央先生」
「なんで私が先生だと?」
早くも酔いの回ってきた司野さんは私に顔をぐっと近付けてきた。そして、笑いを堪えるように眉を曲げた。
「なんでって、名前聞いて思い出したんや。素晴らしい適応力の持ち主で、学校でも生徒に教師、はたまた校長のハートまでもをガッチリと掴むんやろ?」
司野さんは空中を掴む。
「一体誰に!?」
「誰にって、崇弥に」
気になる。
洸祈は私のことを何と言ったのだろう。洸祈の逆鱗に触れ、嫌われたと思うからこそ気になる。
私は子供だろうか。
「なんや。気になるん?」
酔っているのに勘は良い彼は、ほんのり赤い顔でにやりとして私の表情を探ってきた。
「別に」
内心は“はい”と勢いよく答えたいが、大人としてそんなこと言えない。いや、子供だからか。
司野さんは私を無視して話し始めた。
「超がつくほどのお人好しで、執念深くて、真面目で頑固。何に対しても理由付けしようとする」
さっきの私だ。
―自分が納得出来るようなそれらしい理由を無理矢理俺から言わせる権利はない―
本当にそうだった。私は洸祈が幾重にも巻いて作り上げた繭を強引に引きちぎろうとしていた。最低だ。
「でも、いい奴だって。いっつも他の人のことばっか。自分の方が怖いくせに見栄張って前に出る。その背中は誰よりもおっきいんだ。そう言ってたで」
…………………………。
「洸祈は私のこと嫌いになったでしょうか」
「俺に訊かんでもええやろ」
「……はい」
「くそっ!!!!」
パリン。
カップが割れ、フローリングの床に飛散した。
思わず欠片に手を伸ばした洸祈は指先に微かな痛みを感じた。切ったのだろう。見れば人差し指から血が流れていた。深かったのかそれは指先から留めもなく流れる。
絆創膏。
そう思ったが他の感情が支配して洸祈は割れたカップをそのままにしてソファーに寝転がった。
切った指先が疼くのを感じながら洸祈は目を閉じた。
「……天に祀りし災灰陣『空間幻影』」
全てが黒で塗り潰される。後に広がるのは漆黒の闇。
あぁ、一体何度これをしたんだろうか。
「麻薬みたいだな」
洸祈にとっての麻薬。
逃場を作るとても甘い言い訳。
「もう俺は中毒者だ」
闇に落ちる感覚は快楽だ。ずっとこのままでいい、なんて考えてしまう。
“狂った人間”
それが俺。
このまま消えても…
「旦那様!!!!!!」
ドアの開く音と共に温かい何かが洸祈に抱き付いてきた。
「旦那様、旦那様!駄目です!!」
キツくそれは抱き締めてくる。この声、この大きさ、この温もり。
「…………………琉雨」
「その魔法、解いて下さい」
熱いものが洸祈の顔に降ってきた。
琉雨が涙を流している。
「解いて下さい」
もう一度琉雨はきっぱりと言った。洸祈は切っていない左手でポケットを探ると陣紙を取り出して魔法を解いた。
大きな瞳に涙を溜まらせて嗚咽を洩らす琉雨の姿が洸祈の視界一杯に映る。琉雨を膝に乗せたまま体を起こして視線を移せば、床に様々な物が入ったスーパーの袋が投げ捨てたように乱暴に置いてあった。
「買い物中じゃなかったのか?」
「…旦那様の魔力が…ぐすっ…酷く乱れてて……っ…ルーは旦那様と魔力で繋がってるから……心配で、心配で…それで」
琉雨は大きな声で泣き始めた。
「ルーは…ぐすっ…ルーは…旦那様のばかぁ!!!」
そう言って涙でぐずぐずになった顔を洸祈の胸に押し当てる。小さな拳が洸祈を叩く。緩やかに波打つ髪が広がる。
本当に馬鹿野郎だ。
まさか自分のせいで琉雨を泣かせるとは。
琉雨の涙に俺は弱いんだと洸祈は改めて実感する。魔力で通じる俺達はとても近くにいるのだとも。
「ルーは、ひっく、旦那様が大好きなんですー!!!!だから…っ…居なくならないで下さい!」
このまま消えても…
そう一瞬だが考えた。思い返してみればそんなの馬鹿だと思う。消えても意味がない。
「……うん…」
「約束…です…っ…」
「……うん…」
琉雨が泣き止むまで洸祈は天井を見ながら彼女の背中をぽんぽんと優しく叩いた。
「その指…」
琉雨が虚ろな瞳で洸祈の左手を見た。
「あ、問題ない。本当だ。ほら、止まっているだろ?」
「でも、ルー治せます」
直そうと琉雨が伸ばした手は洸祈に優しく戻された。
「いいさ。泣いて疲れたくせに。眠いんだろ?」
洸祈は腰に抱き付いて見上げてくる琉雨の泣き腫らした目元から続く一筋の涙を右手の薬指で拭った。ひっくと琉雨の鼻を啜る震動が洸祈に伝わる。
洸祈の温かさを求めて琉雨が小さく縮こまった。胸の前に持ってきた両手が洸祈のTシャツを掴む。
やがて、しょぼしょぼと開閉する目をした琉雨は小さな声で呟いた。
「…いなくならないで…くだしゃい……」
洸祈は琉雨を抱き締めた。潰さないように慎重に。
一瞬だけびくっと体を震わせると琉雨はより強く服を握って目を閉じた。
「琉雨。有り難う」
洸祈も襲ってきた睡魔に負けて目を閉じた。
一週間後。
「璃央ー。飯は?」
ソファーに腰掛けた洸祈は仰向けになって、台所で忙しく動く璃央に問い掛けた。
「まだだよ!!!!」
璃央はひょっこり顔を出すと、眠たそうに目を細める洸祈に怒鳴った。洸祈はただただぼけっとした顔で見てくる。
「一体何時間かけるつもり?」
「10分とかかってないだろ!お前は30分も待てないのか!?」
「待てない。俺なら5分もかからずに昼飯ぐらい作るけど?」
即答。璃央は眉をひそめた。
「昼飯って、カップラーメンだろ!?何が昼飯だ!お前は琉雨がいないと不健康過ぎる」
「悪かったな!不健康過ぎて」
「悪いさ!用心棒が不健康でどうする!?仕事の最中に腹痛起こしてトイレに駆け込むのか?」
淡々と進んでいくかと思われた会話は洸祈恒例の反応で止まった。
「何そのリアルな例え話。面白い……ッ…アハハハハ」
「っ~!!!!」
こう笑われると自分ではないのに自分が笑われているように思える。璃央は唇を噛んだ。
「ッ…はぁ~。笑い疲れた。…で、他には?」
真顔で訊いてくる。璃央は手を出したくなる衝動を抑えて作り上げた昼飯をテーブルに置いた。
「ほら出来たぞ、昼飯」
洸祈は、ん~。と気のない返事をしてからソファーから立ち上がるとよろけながら椅子についた。そして、いざ璃央が用意した昼飯を前にして、
「何これ」
の一言。
「お茶漬け」
「は?」
「だから、お茶漬けだ!」
イライラを極力抑えて返す。
「だから、何でお茶漬け?」
「美味しいからだ」
この会話の流れた先が分かるような気がして璃央は溜め息をついた。
「じゃあ、何でそんなに時間かかったんだ?」
ほらきた。
「初めて作ったからだ」
「初めて?美味しいからじゃなくてか?」
「食べたことはある。しかし、作ったことはない」
「は?」
「だから、俺は普段料理はしないんだ」
言ったからには腹をくくるしかない。
「あ、執事さん」
幸乃原和志は璃央宅にいる執事だ。昔は煉葉に執事として仕えていたが、璃央が縁を切って家を出た際、本人たっての希望で璃央の執事になったのだ。
「そうだ」
「璃央、お湯くれる?」
洸祈が璃央に手を伸ばした。困惑しながらも璃央はポットを渡す。
「何でだ?」
「濃い。具、いくら入れたわけ」
濃い?怪訝そうにする璃央を置いて洸祈はお湯を注ぎ足す。
「2袋」
「2分待てばより美味しいくなります。だ」
濃さの具合を確かめながらすらすらと言う。馬鹿な。等と思いつつ璃央はごみ箱に捨てた袋を見た。
「…………」
「お茶漬けくらい俺だって作れる」
そこには洸祈が言ったのと一言一句変わらない表記があった。璃央の羞恥で染まる頬を見ながら洸祈は追い討ちをかけた。
「じゃあ、食うな!忙しいってのに人を呼び出して!来てみたら昼飯作れだ」
「命令はしてない。作らない?だ」
「おんなじだ!」
「は~。うん、旨い。流石璃央」
いきり立つ璃央を無視して洸祈はお茶漬けを啜り食べた。
「白々しい」
「市販の何だから旨いに決まってるだろ」
やはりな。同情心なんてない。
「ま、ぼちぼち頑張んなさいな。美人の彼女の為に」
美人の彼女……。
「洸祈!!!!」